私が十年苦しんだうつ病から完全脱出した経緯

私は大学を卒業して社会人になった一年目にうつ病を発症し、以後およそ十年にわたってその症状に苦しみました。

その期間は仕事も出来ず休んだり、働いたりを繰り返していました。

現在はそれらの症状に悩まされることもなく、また再発もせず穏やかな生活をおくっています。

ここに私がうつになった経緯と、今うつに悩んでいる人やそれを支える人のために、うつが治っていった経緯を書き残しておこうと思います。

かなり長い語りになりますが、ここは私のNoteでござるゆえ、時間のある方だけお付き合いください。

うつになった経緯

大学卒業後、テレビ番組制作(AD)の仕事に就きました。

いずれディレクターとして自らが考える番組を世の中に出すことは学生時代からの夢でしたので、この仕事に関わることができたのは大変な喜びでした。世間では「ADは家に帰れないほど忙しい」と言われていましたが、「私は大丈夫」「私はそれを必ず乗り越えてみせる」と意気込んでいました。山中鹿之介よろしく「願わくば、我に七難八苦を与え給え」というような心境でした。そして憧れのテレビ局に足を踏み入れ初めて見る世界は本当に私をワクワクさせてくれたのです。

初めて担当した番組は、後に有名になるあるドラマの制作現場でした。

最初の一週間くらいは朝の9時に始まって夜の9時に帰るような日々で、見るものやるもの全てが新鮮で、本当に充実していました。活力が無限に沸き起こるような気持ちだったことを覚えています。

ただ、未熟だった私は教えてもらったことを中々うまくやることができませんでした。今思えばそんな一週間くらいでできるわけが、と思えますが当時の私としては由々しき事態であり、必死に取り返そうと思いました。

次第に帰る時間が遅くなっていきます。ドラマの撮影開始日が近づいていくにつれ、やることが増えていくからです。そして撮影が始まると、終電でなんとか帰る日から、帰れずにスタジオに泊まることも増えていきました。

ドラマの撮影現場は過酷でした。

常に罵声が飛んでいるような環境で、私のようなADはその集団の最下層の存在でしたから、他のあらゆる人間が快適に仕事に打ち込めるよう、常に神経を尖らせて「サービス」しなければなりません。

食事は最も遅く食べ始めて、誰よりも早く食べ終わらなければなりませんでした。論理的な理由からではなく、「ADだから」という理由でした。つまり偉い人順に食事を口にし、偉い人が食べ終わったときに位が低い者がまだ食べていたら失礼だ、ということです。

スタッフ全員分の食事を自腹で買ってくることもありました。レシートだと経費精算ができないのでAP(アシスタントプロデューサー)からは領収書の無い買い物はするなと言われるのですが、現場はそのようなことを気にしません。だから「お前、コンビニ行って全員分の飯買ってこい」というようなオーダーが発生し、これを受け入れなければ解雇を脅されるというようなことがよくありました。APにこのことを陳情しても「経費精算は領収書がある場合だけ」と断られました。ADが自腹を払うのは暗黙の了解だったのです。

それを手取り14万程度の中でやりくりしなければならず、親に金を借りる始末でした。今思えば異常だとわかるのですが、当時の私は「これは誰もが通ってきた道なのだ」と信じて疑いませんでした。

私にはそういう、追い詰められると視野が狭くなってよりのめり込む性質があったのです(今もあるかも)

いや、宗教の洗脳テクに近いものもあるのではと思います。

さらに驚いたのは、とある撮影のときに監督から命じられた指示です。

「警察の姿が見えたら教えろ」

というのです。つまり撮影の許可をとっていないので警察がきたら逃げるからお前は見張ってろということです。

信じられませんでした。まさか天下のテレビ局が行うメジャープロダクトでこのような指示が出るなんて思いもしなかったからです。

そうして少しずつ自分が信じていたものに不信感が芽生えていきます。

このころから一日の睡眠時間が二時間以下という状態が当たり前になってきました。

局に戻って明日の撮影の準備をしたあとは、「割本」というものの作成作業に入ります。

これは脚本の中から次回撮影する分の記述を抜粋し、それに監督が演出のためのメモを加えたものです。

監督はその日の撮影が終わったあとからこの演出メモを作り始め、終わるのは深夜0時ごろ。

私たちはそれを受け取ってから「手書きで」メモを清書します。

清書が夜中の二時頃に終わると、印刷所に一枚一枚FAXで原稿を送ります。

全ての作業が3時〜4時ごろに終わると初めてその日の業務は終了、寝ることができます。

起きるのは5時です。

当然様々な問題が途中で発生することもありますが、割本は死んでも作成しなければならず、睡眠時間が五分ということもざらでした。

日中はロケのためほぼ動き回り、夜は眠気で足や腕をつねりながらデスクワークをする。そうした一日の果てにある「睡眠」というご褒美だけを求めてその日を生きるわけですが、これが無くなったことが確定した瞬間は気が狂う思いになります。

「ああああ、また(今日も)寝れないいいいい」

頭の中はこの言葉でいっぱいになります。

こんな日々が続くうちにADたちは壊れていきます。あるいは本性が顕になっていく。

夜中に叫び声を上げる者。泣き出す者。エレベーターの中でなんかブツブツいう者。

私はスタジオの廊下で人生初の気絶を経験しました。歩いていたはずが気づいていたら横になっており、半身の打撲に気づいてようやく事態を理解しました。時間は一時間ほど経っていましたが、恐るべきはその間「誰も助けてくれなかった」ということです。皆、自分のことで精一杯なのです。

局の定めでは夜の10時以降、倉庫に立ち入ることが禁じられていました。

ですが監督からオーダーがあったためどうしてもその倉庫から物を取り出す必要が出て、それは朝では間に合わないという事態が起こりました。

私は警備員に「立ち会いのもとでならどうですか」などと交渉しましたが、やはりだめでした。

怒った局員の先輩が警備員を脅す凶行に出ました。

「お前どこの会社だよ、俺は局員だぞ。お前らを雇ってんの俺らだぞ。名前言えよ、首を飛ばしてやる」

入社3年目の先輩が、四十を超えているであろう警備員にこのようなことを言って脅したのです。防災センターでそれを聞いていた警備員の方たちは唖然としつつも、言い返しませんでした。ただ頑なに「規則なんです、無理なんです」と先輩にすがるような様子でした。

宮廷ドラマで、通行を禁止されている門を王族が無理やり通ろうして門衛に止められます。しかし傲慢な王族は権力を振りかざし門衛を斬り殺して……というようなよくある場面そのままでした。

警備員の方の悔しそうな顔が今も忘れられません。

ただいえるのは、先輩が過酷な環境で狂ってしまっていたのか、それとも最初からこういう人だったのか、そのどちらかだったということです。今彼は監督となり、自らが手掛けたドラマについて「愛」がどうとかインタビューに答えていましたが、私の中でのあの出来事には殺意しか感じられませんでした。

暴力が上から下へ始まっていきます。

一番上の助監督(AD)がその下を殴り、さらに……という連鎖です。

新人最下層の私は下から二番目の先輩からボコボコにされました。

楽屋に連れ込まれ頭を押さえられ、床の畳に押し付けられ、さらに首を締められました。

人生の中で首を締められたのはこれが初めてです。(もちろん最後の、はず)

私は苦しさから先輩の手を握り、振りほどこうとしました。

「あ! お前、逆らったな」

次の日から私は「先輩に逆らう異常者」として、スタッフ全員から扱われるようになりました。

始めは優しかった人たちも、まるで狂人でも見るかのような軽蔑の視線を向けてきます。挨拶をしても返してもらえず、完全に私は孤立することとなりました。

ある先輩に全ての出来事を話し、助けを乞うたことがありました。

その先輩はこう言いました。

「中途半端にやり返すからだめなんだ。ぶっ殺せ。先輩だろうとやられたら徹底的にやり返す。俺はそうやって生き残ってきたんだ」

私はこの世界では生きていけないと、この時はっきり自覚しました。

それからまもなく私は首を言い渡されました。

補充の若手人員たちがスタジオに入ってきました。

彼らは皆局員であり、いわば業界のエリートたちです。

私は1st助監督(助監督の序列一位)に頼み込みました。給料なしでいいから続けさせてくださいと。

彼は私を哀れむように見て、傍らにいた若手局員たちに言いました。

「あいつのああいう気持ちは学ぶように」

そうして私は首になったのですが、この時はまだ正気でした。

心の中で、これでやっと休めると思っていたところもあったと思います。

彼女とご飯でも行こうか。

そう、このとき私には彼女がいたのです。

学生時代から付き合っていた子ですが、就職してからは連絡を取り合うのがやっとでした。

思えば高校時代からずっと私が片思いしていた子で、その時は「彼氏出来たら無理」って断られたんですが(女の子から無理って言われるのめっちゃきついっすよね)、大学在学中彼女が振られて落ち込んでいる隙につけ込んで見事に交際となっていたんです。

それほど好きだった子とも疎遠にしてしまっていました。愚かでした。

もう一度彼女とゆっくり過ごして、今後を決めていこう。

そう思っていましたが、久しぶりに会って食事中の彼女の様子がどうもおかしい。

結局その時は聞き出せませんでしたが、あとになってわかりました。

おかしかったのは、私の様子でした。

・目つきが学生時代とは別人のように険しい

・小さな物音でも異常に気にする

・会話をしていても周りのことに意識を向けているよう

彼女は変わってしまった私の様子に戸惑っていたのです。

ですが、仕事で辛い目にあって首になったとは言えませんでした。

妙なプライドが邪魔して言えなかったのです。

そして間もなく、彼女と連絡が途絶えました。

そこからの記憶が、私にはあまり残っていません。

本当に思い出せないのです。わかるのは断片的なこと。

・ある日一人暮らし先のマンションに親がやってきて、強引に実家に連れ戻された(ひどい様子だったらしい)

・それから一年半ほど、ほぼ何もしない生活を送った(パソコンの前に座って朝から夜までずっと呆然としていたと思う)

このころの感情で覚えているのは、「何も感情がない」ということです。

思考ができないか、あるいはまとまらずずっと頭の中でさまよっているような感覚です。

夢だった仕事を首になって、好きだった彼女を大切にすることもできず別れ、本当に自分には何もなくなったのだと、その時は思っていました。

それまでの短い人生で大したものは積み上げていません。

だからこそ、崩れ落ちるのも一瞬だったのです。

こうして私はうつになり、以後十年にわたって苦しむ毎日が始まりました。

しばらく、続きます。

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