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別居についてのお話

私達がどこへ向かうのか、今の私には分からない。

離婚するのか、しないのか。夫を恨み続けるのか。許すのか。より一層の絶望が待っているのか、否か。

突然別居を決めて、その翌日に家を飛び出した。あの日のことは忘れない。

絶望の1日だった。娘に涙を見せたくなかった。だけど、止まらなかった。貴重品だけかき集め、娘の手をぎゅっと握り、肩を落としタクシーに乗り込んだ。この世の終わりだと思って、タクシーの中で泣いた。わざわざ新幹線の駅まで迎えに来てくれた母の顔を見ても、わんわんと泣いた。実家に着いてからも、泣いた。

しばらくは、泣いて、泣いて、泣き続けた日々だった。辛かった。13年間を共にした夫とこんな形になってしまったことが。

そして、娘から大好きな父親を奪ってしまったという気持ちが強かった。娘の不憫さを思い、また涙した。

スマホ内の家族写真を見てしまった時や、パスワードを入力する際に夫との記念日だったことを思い出した時。町で仲の良さそうな家族を見かけた時。ふとした時に、いつでも涙が溢れてきた。

不倫というひどいことをされたのは、よく分かっている。しかし、13年も一緒にいた人と急に離れて暮らすことは、良くも悪くも、とてつもないストレスだった。この絶望は永遠に抜け出すことはないと、その当時は思っていた。

そして、実家の両親ともあまり良好な関係でないので、私の精神状態はみるみる悪化していき、寝込むことが多かった。うつ状態で、トイレ以外ずっと寝たきりで、10日以上間過ごすこともあった。お風呂にも入れない日もあった。こんなことは今までの人生で、初めてだった。40度の熱が出ても、なんとかお風呂に入りたい性格の私が、お風呂に入る力もなかった。トイレが人としての精一杯だった。

それでも、月日が経つにつれて、寝込む日にちや頻度がが少しは減っていった。失意の底にあった気持ちも、ほんの少し浮上していった。日常の予定なども少しは入れられるようになった。それでも、当日どうしても起き上がれない日もあった。そんな自分もいやになり、自暴自棄になっていた。実家なので、私が寝たきりの間は、娘のことは無職の両親が面倒を見てくれていた。小学生なので、身の回りのことはある程度はできるが、食事の支度や、宿題の丸付け、習い事の送迎などやってくれていた。母は娘と一緒に入浴してくれることもあった。娘にも両親にも申し訳ないという気持ちが大きく、更に何もできない自分を責めた。

心療内科で薬を増やしてもらい、少しずつ良くはなっているものの、別居してから1年経っても、今だに落ち込む日はある。起き上がれないこともある。ただ、10日間も寝たきりとかそういうことはなくなった。

人間は忘れていく生き物なのだ。忘れなきゃ、生きていけない生き物なのだ。

夫と別居したことで、会いたい気持ちが募る日もあれば、すっかり忘れて過ごす日もある。恨みが消えることはないけれど、少し薄れてきたような気もする。

現状、夫が申し立てた「離婚調停」を私は拒否し、不成立になった。夫は「婚姻費用」を払いたくないということと、私に対する憎しみから離婚したいのだろ。私は「離婚」という結末になったとしても、その時期は自分で決めたかった。夫の都合通りの事は運ばないということを知らしめたかった。財産分与についても、折り合わわないことや、体調不良で働けない私の経済的不安等も不成立の理由となった。

しかし、今後どのように私たちが進んでいくのか。まだ展望は見えない。ひとまず、A子(不倫相手の女性)との裁判が終わるまでは、急いで決断しないでおこうと思っている。

有責配偶者に私の人生の筋道を立てられてたまるかという心意気で過ごしている。

続く・・・



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