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仙台の書店 金港堂と八重洲書店




金港堂本店もなくなっちゃうのか…


twitterというかXを見ていたら、仙台の「金港堂」本店が閉店すると出ていた。検索したら、河北新報に記事が出ていた。


金港堂は、懐かしい本屋さんだ。と言っても、私が利用していたのは、仙台に住んでいた1980年代の前半の数年間のことだ。って、この文章は、仙台を知っている人にしかわからない記述ばかりになりそうです。すいません。

金港堂は、片平の方から行くと、一番町通りの入り口にあって、当時は地下と二階があった。後に、定禅寺通りか広瀬通の角にあったデパートみたいなビルの6階あたりに、ワンフロア丸ごと金港堂だったこともある。今では大型書店は普通だが、当時としては画期的だった。そこに行けば、新刊本も旧刊本もだいたい売っていた。

2000年代のいつだったかに仙台を訪れた時には、私の知っている本屋さんが「金港堂」本店以外は一つもなくなっていて、仙台駅前に、ジュンク堂が二つだったか三つ出来ていて、驚いたことがある。

その後、金港堂本店に私が最後に訪れたのは、2019年の5月だ。その時は、ちょっとだけ仙台市内を歩いて、金港堂も覗いただけで、何も買わなかった。河北新報の記事を読むと、ビルの老朽化が進んで、閉店も致し方ないと感じるが、これで仙台には私の知っている本屋さんが一つもなくなってしまうことになる。

しかし、金港堂が、出版事業をやっていたとは、この記事で初めて知った…。そういえば、郷土史本のコーナーが充実していたような気もする。と、書いてみたが、記憶の捏造かもしれない。


紙の本を買うのは老人ばかりないのか…


ジジイの昔話になるが、昔は、仙台市内には地元資本の本屋さんがたくさんあった。「金港堂」のほかにも、「高山書店」「アイエ書店」「宝文堂」は、それぞれ何店舗かあった。駅ビルのエスパルにも本屋さんはあった。駅ビルには今でも本屋さんはありそうだ。

「丸善」は、今は駅前にあるようだが、昔は東一番町通りの金港堂本店の少し先にあった。あ、丸善も今やジュンク堂系列か…。

その他にも、仙台駅前には、「八重洲書房」やマンガが豊富な「仙台書店」、五橋には町の本屋さんといった「五橋書店」もあった。荒町にもちっちゃな本屋さんがあった。大体、商店街に行けば、ちっちゃな本屋さんがあった気がする。

全然関係ないが、80年代の半ばには、片平に新しく画廊が出来た。店の名前は忘れたけど、アンディ・ウォーホルの作品なんかが売っていた。主催者は、イソ・ケーシューいう名前の、独特の服装をしたかっこいいおじさんだった。

なんで名前を憶えているのだろうか? 英語やフランス語、イタリア語の翻訳事業も請け負うなんてあったと思うけど、なんでそんなことまで、憶えているのだろうか…。


私は東京に住むようになって優に30年以上になるが、周辺からも本屋さんがなくなっている。それも、ものすごい勢いでなくなっている。

それに、今、最寄りの駅前の本屋さんにいくと、昼間のお客さんは、老人ばかりだ。紙の本を買うのは、老人なのだ。新書をみると、明らかに老人向けの本が並んでいる。紙の本を買うのは老人なので、老人に向けて商品開発をしているのだろう。

文字の組み方も恐ろしくスカスカな本が増えてきた。老眼の人向けなんだろうが、本としての美しさを損なっていると思う。

私も老人の部類だけど、本屋さんにいるのは、私よりも年上な感じの人ばかりだ。中には、紙おむつをしているのか、異臭のする人もいる。なんだかな、だ。

生き残っている本屋さんも、文房具を売ったり、お菓子を売ったり、本以外のものを売ったりと、色々試みている。紙の本が売れないのだ。月刊や週刊のマンガ雑誌など、入荷したままで、誰にも買われずに返本されているように見える。

本棚の様子も違ってきている。背表紙が見えるように並べていた本棚が減り、表紙が見えるようにした面置きの本棚が増えている。それによって、本屋さんに置いてある本の総量が、圧倒的に少なくなっている。

本の値段も変わってきた。エンタメ系の小説本を除いた単行本は、3000円くらいするし、文庫は1000円以上が普通になってきた。それに単行本も文庫本も、出た時に買わないと、新刊書店では手に入らなくなっている。

新刊本屋さんに旧刊本を注文すると、系列の店舗に在庫があれば、翌日か翌々日、取次に在庫があれは数日後、出版社にしか在庫がないと2週間ちかくかかってやっと届く。

これがAmazonだと、元旦の午後に注文しても、2日の夜に届いたりする。なんなんだ、これは、と思う。便利だけど、間違っているような気がする。

一体、何が書きたかったんだっけ、あ、金港堂だ。
仙台だ。

たくさんあった地元の本屋さんはどこにいっちゃったのか…


1980年代当時、私は仙台市の荒町に住んでいたので、五橋から片平方面に歩いていって(仙台の地理を知っている人にしかわからないことを書いているが…)、古書店と中古レコード店(「アサイラム」とか)を覗いて、新刊書店は金港堂、丸善、高山書店、アイエ書店、それからちょっと戻って、アーケードを左折して、駅前に向かった。

その途中で宝文堂やアイエ書店、高山書店の支店、本店?、仙台書店などを覗いて、最後に八重洲書房でしめるという本屋巡りをしていた。

日によっては、八重洲書房から始めて、金港堂で終えるという、逆のコースを辿ることもあった。だから、金港堂は、始発か終点の本屋さんだった。

金港堂は、他の本屋さんと違って、本棚と本棚の間隔が広くて、ゆったりした印象があった。女性の店員さんは普通の人達で、本にはあんまり詳しくなかったけど、たまに遭遇する男の店員さんは、やたら本に詳しくて、なんだか図書館の人みたいだった。出版事業部の人だったのか、と、今、調子よくこじつけてみるが、やっぱり捏造している気がする。

金港堂で、発売日に村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の上下巻を買って、オオウチヤの裏にある「カフェ・ソコ」という喫茶店で100ページくらい読んだ思い出がある。そこの地下には「無伴奏」という、バナナケーキのおいしいバロック喫茶があった。

関係ないけど、ライブハウスのジャムは、文化横丁にあった。やたら細長い店で、二階もあった。国分町に移るのは、1981年だ。

市場の中で営業していた八重洲書房


仙台の本屋さんといえば、「八重洲書房」が一番思い出深い。文学書や人文書が充実した、ちょっと不思議な本屋さんだった。

八重洲書房は、最初は、名掛丁と丸光デパートの間の路地にあるビルの1階の、乾物屋や八百屋やカバンや衣料品を売る店がいくつも入った市場のようなフロアの奥の、一コマか二コマに、本棚を並べて本屋さんをやっていた。そんなところに本屋さんがあるなんて思わないから、発見した時は、本当に驚いたし、感動した。

しかも、そこには、国書刊行会の幻想文学叢書などという、当時は一般書店にはあまりみられない本が並んでいた。欲しい本、読みたい本、まったく知らない本が並んでいて、田舎者の私は、一日、眺めていても飽きなかった。多分、1980年のことだ。

しばらくすると、そのビルが建て壊されることになって、八重洲書店は、仮店舗になった。仮店舗は、すぐ隣の雑居ビルの中にあったカウンターバーだった。本当にカウンターだけの狭いところで、壁に本棚を並べて、カウンターの上にも本が置いてあった。床にも本が並べられていたような気がする。

営業中は、入口のドアが開けっぱなしになっていて、入ってみると、時々、店員さんがいなかったりした。小心な私は、店員さんが戻って来るまで、店を出られないと思って、待っていたりした。でも、店員さんが戻ってくると、今度は、万引きなんかしていないのに、万引きを疑われるんじゃないかと思ってドキドキした。

その後、新しい雑居ビルに新店舗が誕生した。名掛丁と丸光の間は変わらなかったが、仮店舗のあったビルよりは、ひとつ駅寄りになった。以前あった市場のようなところよりさらに奥まったというか、より駅に近い位置だ。

一階が雑誌売り場で、吹き抜けの階段を上った2階が、単行本や文庫本売り場だった。

二階の隣に「グッドマン」?とかいう喫茶店があって、八重洲書房から直接入れるドアがあった。その辺りの本棚には、ガロ系のマンガが置いてあった。

当時は、宝島とYMOとRCと戸川純が流行っていて、一階には、左翼系の雑誌やビラに交じって、そんなサブカル関連の本や雑誌も売っていた。カセット本の「トラ」や「夜想」もあった。

二階には、正統な人文書と並んで、ニューアカの浅田彰の本とか中沢新一とか、栗本慎一郎の本なんかも置いてあった。ジャック・デリダが仙台に来て講演会をやったりしたので、デリダの本なんかも売っていた。

私は基本バカなので、そういった難しい本は、読んでも意味がとれないので、もっぱらマニアックな文学書を買っていた。門土社のアフリカ文学とか、生田耕作のサバト館の暗黒エロ小説とか、国書刊行会のラテンアメリカ小説とかだ。

その後、八重洲書房は、丸光か十字屋の地下一階に移転したらしいが、その頃には私は、仙台を離れていたので、よく知らない。その場所で何年か営業して、閉店したようだ。哀しい。

本屋さんで知らない本と出合うこと


なんだか本当にジジイの昔話になってきた。とにかく私は、金港堂の本店がなくなることが、金港堂の現役の客でもないのに寂しいのだ。でも、これでは、ないものねだりをする駄々っ子とかわらないな…。

本屋さんのこれからを考えると、私にはなんのアイディアも浮かばないし、本当に厳しい現実が待っていると思う。しかし、私の場合、CDやレコード屋さんがなくなっても、仕方がないと思うのだが、本屋さんがなくなるのは、絶対に駄目だと思うのだ。

なんでだろうか?

多分、本屋さんには、本との偶然の出会いがあるからかなと思う。本屋さんに行くと、なんとなく気になる本を見つけることがある。知らない著者で、知らないジャンルだったりするが、買って帰って読むと、それがアタリだったりする。そこから自分の知らない世界が広がっていく。本屋さんは、そういう出会いの場だし、そういう嗅覚を身につける場なのだと思う。

多分、私は子供の頃から、本屋さんでそういう出会いをしている。おかげでろくでもない半端な人間になってしまったが、でも、そういう出会いは、子供や思春期の時には絶対に必要なことなのだと思う。だから本屋さんは絶対に必要なのだ。


PS.  ちなみに一番上の写真は、私の本棚の写真だ。片岡義男ばかり並んでいる。八重洲書房では、片岡義男なんか一冊も売っていなかった気がする。1980年代の片岡義男は、読み捨て小説を量産する流行作家で、俗物のキワミとして本好きの人や、テツガクや思想している人には、バカにされる対象だった。ん、ハナシがまたズレてきた…。


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