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読書日記 工藤律子・著『マラス』少年少女が自立するには犯罪が手頃な国

工藤律子・著『マラス』集英社 という本を読んだ。

この本は、中米のホンジュラスの若者たちの、貧困と暴力と犯罪に囲まれた現状と、そこから抜け出そうとしている試みを、現地取材したノンフィクションだ。

2016年の11月に出版されているから、ちょっと前の本だ。著者は長らく、メキシコの貧民層を取材しているジャーナリストだ。

最近はスペインの社会連帯経済などを取材してリポートをしている。

イミダスというサイトにある著者のプロフィールページ
  ↓
https://imidas.jp/author_data/G471

著者の書いた記事
  ↓
●「次世代の経済」を築くための欧州の挑戦 「欧州社会的経済会議」にみる最先端の課題

https://imidas.jp/jijikaitai/A-40-152-24-01-G471




1 終戦直後の上野のようなホンジュラスという国


中南米といっても私の場合、麻薬戦争を描いたドン・ウィンズロウの一連の小説くらしか思い浮かばない。そんな程度だから、ホンジュラスと言われても、何もイメージ出来ない。

そういえば、サッカーのワールドカップには、時々出場していたような気がする。今、調べてみたら、直近では2014年のブラジル大会とその前の2010年のアフリカ大会に出場している。

いずれも予選リーグで敗退しているが、他の中南米の国がそうであるように、ホンジュラスでもサッカーが盛んで、強豪国の一つといっていいのだと思う。

試しに、ホンジュラスを地図で見ると、北米大陸と南米大陸のつなぐ細い陸地の一画にある国であることがわかる。

北米大陸側のメキシコと、南米大陸側のコロンビアの間を繋ぐ橋のような陸地だ。そこには国が5個あって、ホンジュラスはそのうちの一つだ。東側にはカリブ海があり、西側には太平洋が広がっている。

自然が豊かでとても良いところのように思えるが、ホンジュラスは世界屈指の貧民国で、殺人発生率は世界一なのだそうだ。

本書のどこかにも書いてあったが、なんと国民の6割が貧民層だという。そんなだから、ホンジュラスの若者には、仕事がない。親も頼りにならないので、子供は、ストリートに出て、自立する。その自立の手段が犯罪だ。

終戦直後の上野の浮浪児と一緒だ。東京にも、かっぱらいをやって、カツアゲをやって、路上で寝ていた子供達が大勢いた。そういう子供達は、グループを作って行動していた。小学生くらいの子供が、いっちょ前に煙草をくわえて、煙を吐いている写真は有名だ。

ホンジュラスの子供達もきっとあんな感じなのだと思う。グループを作って、犯罪で稼いで、煙草じゃなくて大麻を吸って、ピストルも持っている。

日本の場合は、戦後復興とともに、そういう子供達もいなくなったが、ホンジュラスの場合は、戦後でもないし復興もないから、そういう子供たちは、いつまでもストリート・ギャングから抜け出せなでいるのだろう。

そういう若い人達がやっている犯罪グループを、総称して「マラス」と言うらしい。

2 アメリカのヒップポップが影響して出来たマラス


最初は、見張り役から始まり、カツアゲや強盗、ミカジメ料の集金、売春、麻薬、そして殺人へと犯罪も徐々にレベルアップしていく。携わる犯罪に比例して、組織内での地位も上がり収入も増えるのだ。

マラスは、従来のマフィアと違って、若者中心に構成されたギャング団だ。そもそもは、1980年代に生まれたアメリカのヒップホップ・カルチャーのファッションやタトゥーが、ホンジュラスのストリート・チルドレン層に持ち込まれて、都市部で組織化されたものらしい。

だからみんな今風のヒップ・ホップ・ファッションをしている。体や顔にもタトゥーをしている。そのタトゥーは、所属するグループのロゴだったりする。最初は準メンバーで、正式メンバーになるには、殺人が条件だったりする。一度、メンバーになったら、なかなか抜けだすことは出来ないらしい。

マラスには、大小さまざまな集団がある。それらの集団が、縄張りを巡って、殺し合いも含む熾烈な闘争を、日常的に繰り返しているのだ。

それに加えて、警察や軍隊が、マラス撲滅に参戦している。ホンジュラスの警察や軍隊は、武器を持って訓練されてはいるけれど、規律や風紀が乱れているようで、日本や先進国のそれとはまるで違うようだ。

ただただ暴力的にマラスを攻撃して、捕まえている。場合によって賄賂をもらって便宜を図ったりもしている。庶民の味方というよりは、権力の手先のような印象を受ける。

そして権力を握っているのは、自分の利益と保身しか頭にない政治家たちだ。

本書を読んだ印象だと、ホンジュラスという国は、権力者が腐っていて、公共組織が機能していない国のように思える。私の貧弱な頭からは、マンガに出てくる腐敗国家のような、ステロタイプのイメージが浮かんでくるのだ。もちろん、そんな悪い面ばかではないと思うが、犯罪とか若者たちの置かれた立場から見ると、そういうイカレた国だ。

本書で取材されている若い人達は、まさにドン・ウインズロウの描く麻薬戦争を、末端で支えている?底辺の人々に見えてくる。って、いうのが、私の大雑把な感想だ。

3 刑務所はアバウトだけど、信仰の力が生きている国


取り上げられているのは、昔マラスだったけど現在は更生して頑張っている人、今現在もマラスの構成員である人、そして刑務所に収監されているマラスのメンバーなどだ。元マラスだったけど現在は刑務所を訪問して服役囚に神の道を説いている牧師も出てくる。

この牧師がすごい。

元々はマラスのリーダーで、殺人等の罪で服役していたが、刑務所に訪問してきた牧師の話を聞いて、神の道に目覚めて改悛する。服役中に牧師の弟子になって、自らも神の道を説くようになったという人物だ。

出所後は、本当に牧師になって定期的に刑務所に出向いて行って説教を行い、また地域に教会を作って、信仰の道を説いている。この牧師に改悛させられた服役囚も少なからずいる。  

そして、ホンジュラスの刑務所が、日本では考えられないアバウトな施設なのだ。囚人が、刑務所の中で、洗濯屋や食堂をやっていたりする。だから、刑務所の中だけれど、金銭のやり取りがあるし、外部からの物販の出入りもある。

公共の施設として機能していない部分を、囚人たちが自前でカバーしている面もあるらしい。

家族の面会も、日本と違って、自由度が桁違いに大きかったりする。面会用の個室があって、妻や恋人がやってきて、妊娠して帰ったりするのだ。日本では考えられないおおらかさだ。

何から何まで日本とは違う。人間として、物事の考え方、捉え方が、根本から違うように見える。どっちがいいということではない。とにかく大きく違うのだ。

著者も、牧師と一緒に、刑務所の中に入って、取材が出来ている。囚人のやっている食堂でランチを食べたりしている。カメラだって持ち込めている。刑務所長には、カメラの持ち込みを許可したりする裁量権があるのだ。

刑務所がそんなだから、娑婆もやっぱり日本とは違う。公共機関が当てにならないから、NPOやキリスト教の団体が自腹で、少年たちの更生の手助けをしている。それも、国境を越えて繋がっていて、不法移民なども援助している。著者はそういう団体にも取材している。

そういう団体で活動している人達は、なんだかよくわからないのだが、誰もが命懸けで踏ん張っている印象を受ける。そして、命懸けなんだけど、どこか、あっけらかんとした印象を受けるのだ。

明るいのとも違う。何かが抜けているような感じ。やっぱりあっけらかん、だ。

それが中南米なのだろうか。

とにかく現状から抜け出そうとストレートに努力している人たちが描かれていて、日本の東京で根性の腐った生活をしている私は後ろめたくなってくる。

その上私は、宗教が苦手だ。信仰心のかけらもない人間だから、本書に出てくる「信仰」のハナシがさっぱり理解できないのだ。いくら考えてもわからない。刑務所の中でキリスト教に出会い直して、生まれ変わる人が何人か出てくる。彼等には、神を信じるということが、大きな力になっている。

「夢も希望もないと、人間は脆く壊れやすい。しかし、信仰があると、夢や希望がなくても人は頑張れる、強くなれる」みたいなことを著者が書いていたが、私には実感としてよくわからないのだ。だからこの本を読んで、そんなものかと思いながらも、ずっと気になっている。実はそのことばかり考えている。


4 個人的な覚書


ここから先は、個人的な覚書だ。わかりづらい私の文書が、もっとわかりづらくなっているから、あまりおすすめできない。本書の内容とも著者の意図とも無関係はハナシになる。

実はこの本は、数年前、集英社文庫になった時に買って、ちょっとだけ読んでやめていた。その時は、著者のことが少女マンガっぽい感じがして、苦手だなと思って、100ページも読まずにやめてしまったのだった。

この「少女マンガっぽい感じ」というのは、著者が現地の少年や青年に向ける視線のことだ。それは、女性が書いた本を読むと、男の私が時々感じる、自分にはない感覚のことだ。

その感覚に対して、私は「少女マンガっぽい」感じと命名しているのだが、自分で命名しておきながら、ややこしいことに、文字通りの少女マンガのようだという意味ではない。マンガっぽいと書くと、ディフォルメされたとか深みがないという意味にも捉えられかねないが、私のいう「少女マンガっぽい」は、やっぱり、ちょっと違う。

「少女マンガ」というコトバを使わずに、わかりやすく「女性っぽい」にしたらどうだろうか? それとも「母性」ではどうだろうか?

もしかしたら、母性愛に満ちたまなざし、っていうのが一番近いような気がするのだが、でも視線の送り主には、母親っぽさよりは、少女っぽいような、なにか、「まだ自由な感じ」が強いのだ。

単純に、どっしりした感じがない、あるいは、私がそれを感じないというだけのことかもしれない。

では、「少女マンガっぽい」の「マンガ」は、どこから来たのだろうか? どうして、「少女マンガっぽい」と命名した私は、その時、そこに、「マンガ」を加える必要があったのだろうか?

うまく説明が出来ない。私がきちんと言語化できていないのだ。このことについてちゃんと考えてこなかったから、半端なのだ。そういう曖昧なままで、これを書いている。

唐突だけど、小説家の高村薫を出してみよう。高村の小説はどれも骨太な印象を受ける作品ばかりだが、私には「少女マンガっぽ」く感じられるのだ。それと同じような印象を、『マラス』から受けたのだ。ある時期から私はその感覚が苦手になっていて、それで『マラス』も読めなくなったのだ。

苦手なのは、私の弱い部分に、何かが強く刺さるからなのだと思う。

最近になって、この著者の書いたスペインの連帯経済に関する文章を読んで、もう一度、チャレンジしてみようと思って、この本を部屋の中を探した。しかし、見つけることが出来なかった。面倒臭いから、図書館から借りてきた。だから文庫ではなく単行本で読んだ。

延々とわけのわからないことを私は書いているが、日々、色んなことの許容量がなくなってきている昨今、本を読むだけでも、無駄な感情処理が、私には必要なのだった。

ということとで、今後は「信仰について」と「少女マンガっぽい」の二つについて考えなくてはならない。宿題が二つ出来た。

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