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読書日記 松村雄策・著『ハウリングの音が聴こえる』


松村雄策・著『ハウリングの音が聴こえる』河出書房新社を読んだ。この本は、松村雄策が「小説すばる」に連載していた文章を一冊にまとめたものだ。

途中、著者が脳梗塞になったために、4か月間の中断がある。連載は復活したのだが、すぐに終了してしまう。これは著者の健康状態が影響したというよりも、編集部の意向だ。「小説すばる」は、元々、著者と相性がいいとはいえない。

連載が終わった著者は、その後、だんだん体調を崩していって、2022年の3月に70歳で亡くなってしまった。死因は、脳梗塞ではなく、肺がんだった。

松村雄策は、知っている人は知っているが、当たり前だけど、知らない人にはまるで知られていない。肩書は一応、音楽評論家になるのだろうか。

しかし、その文章は音楽評論というよりも、ビートルズが好きだ、エリック・バードンが好きだといった、好きだという気持ちを表明した文章だ。曲の構造とか、何が新しいのかというような楽曲批評ではまったくない。曲を聴いている自分、感動している自分を書いた文章だ。

だから、音楽評論家という感じでもない。松村雄策は小説も一つ書いているし、プロレス関連の本もあった気がする。ロックに絡めたギャグのような「渋松対談」という対談本もある。渋松の渋は渋谷陽一のことで、松が松村雄策だ。

渋谷陽一も目下、病に倒れている。今年の3月末には、ロッキンオン社の社長から降りて、公の役職から全部、撤退している。本人のコメントもないから、コメントも出せない病状なのだろうと思う。

渋谷陽一も71、72歳だから、まだまだ早い。

松村雄策は音楽雑誌の「ロッキングオン」の創刊メンバーの一人で、やっぱり一番わかりやすい肩書は、音楽ライターになるのだろう。

その松村雄策が亡くなってから、過去の文章をまとめた、これが二冊目の本だ。本書に収められているのは、2014~18年の文章だ。著者が好きな相撲とプロ野球の話題を前半に書き、それにこじつけて?ロックバンドや曲につなげて、後半が書かれている。

どうってことのない文章で、私には十分面白かったが、著者のファン以外にはあまり面白味のない文章なのかもしれない。

松村雄策の文章には特徴がある。まず感じるのが、思春期の最初の自分の身の回りの些細なモノゴトから逃れられていないところだ。逃れられていないと書くと語弊があるが、思春期の頃の自分が愛着を感じた身の回りのモノゴトを中心にしてその後も生きていて、そのことを文章にしているいうことだ。

そういう生き方は、やれるようでなかなか出来ない。普通の人は、仕事をしたり家庭を持ったりするうちに、中心にするモノゴトが変わっていくことのほうが多いのだと思う。松村は幸か不幸か、ロック雑誌を仕事にすることで、中心にするモノゴトを変えずに生きて来られた。

著者は、子供の頃から集めているモノや、子供の頃からやっているコトや、子供の頃から聴いているモノを、何歳になってもそのままに近い形で続けている。

それは世間的には趣味と言われる領域のモノゴトで、大抵の人は、ある程度の年齢に達すると関心が薄れたり卒業したりするか、関心が他に移ってしまうものだが、松村の場合は、ロック雑誌を仕事にしたせいもあるが、それ以上に愛着が過剰で、最初に受けた感激がそのまま持続していて、常に現役なのだ。

思春期の最初に刷り込まれたものが、絶対的な基準となって、そのまま揺るぎがないのだ。だから、優先順位が、子供の頃(=思春期)と変わっていない。

他人(=社会人)からすれば、松村がこだわっているモノゴトは、些細なことでしかないかもしれないが、松村にとっては、些細ではない大事(ダイジ、オオゴト)なのだ。

これを、成長していないとか、失っていないと言うことが出来るかもしれない。

松村雄策の場合、ロックや思春期の最初のショックをそのまま抱いたまま、抜け出せていないようなのだ。抜け出す必要があるのかといったら、よくわからない。よくわからないけど、もしかしたら、普通の人より生きるのがシビアになったかもしれない。

私も似たようなところがあるが、松村のように仕事に出来ていないし、私は人間ができそこなっているから、問題外だ。

私が松村の文章の好きなところは、中学、高校時代に被ったことをいまだに恨みに思っている、根に持っているところだ。著者はそういう恨み言を繰り返し書いている。

これらは、もしかしたら、繰り返し書くことによって、その都度、ナマな感覚が更新されて、のちの年齢まで培養されてきたのかもしれない。

が、そういったナマな感覚が、松村雄策の文章の持ち味になっていることは確かで、私などは、松村の文章に書かれた、そういったナマの感覚を読むことで、自分が開き直ることが出来るというか、こちらも肯定されたような気になって、救われるのだ。

だから、私は思春期の鳥羽口から松村雄策の文章を読み続けてきたのだと思う。『ロッキング・オン』には松村の文章が2ページ、必ず載っていたから、雑誌を買わなくなってからも、毎月、そこだけ立ち読みしていた。



著者の文章を読んでいるからといって、私が松村雄策についてわかっているかといえば、著者と読者の関係だから、松村のことなど何も知らないのだ。いつも思うのだが、文章を読んだって、書いた人物の人となりとか、人柄なんかは、わかるものかと思っている。

大体、文章というのは、外向けに書かれているものだから、書いた人と一致しないことの方が多いのだと、私は思っている。だから、松村雄策の本を読んだからといって、松村雄策のことがわかるかといったら、多分、わからないのだ。

少しの部分はわかっても、それは一部であって、その人の全体といったものは、わからないのではないかと、思うのだ。

文章に書かれたものは、他人に見せたい自分か、自分が思っている自分のイメージだから、他人がイメージしているその人のイメージとは、大分、ズレがある、と私は思っている。

それに、他人がイメージしているその人のイメージも、人によって大分ズレている。現実に他人を受け止める場合は、その人の、言動や考え方と、外観もひっくるめて総体として受け止めている。だから、本に書かれているものだけでは、情報が絶対的に足りていない気がする。

それに、人が他人を見るときの見方、あるいは受け取り方は、その人の好みも大きく左右するから、大分、違っているのが普通だ。その言動や考え方を重視する人もいれば、その人の服装や体の動かし方なんかの外観を重視する人だっているのだ。

だから本などの文章に書かれてあることは、著者のほんの一部分にしか過ぎない。しかも、ほんの一部分のことも、拡大して書かれていることが多い。そんな一部のことを読んで、その人がわかった気になっても、実は大分違っているのだ。逆に言うと、本なんかの文章は、あてにならないのだと思う。

ところで、一体、私は何を書きたいのか、よくわからなくなってきた。




松村雄策の死後に、YouTubeでライブ音源がアップされているのを見つけた。


遠藤賢司がゲストで出てくる。
曲よりもしゃべりのほうが面白かったりする。

なんだかな、だ。


そういえば、前著の『僕の樹には誰もいない』の感想文もnoteに書いていたことを、今思い出した。

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