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映画日記 『あちらにいる鬼』豊川悦司はコントをやっているのか?


『あちらにいる鬼』という映画をネットフリックスで見た。

主演・寺島しのぶ、豊川悦司、共演・広末涼子、映画『あちらにいる鬼』予告編【2022年11月11日公開】

主演の寺島しのぶ演じる女性作家のモデルが瀬戸内寂聴で、豊川悦司演じる男性作家が井上光晴で、男性作家の妻を広末涼子が演じている。原作小説を書いたのが井上光晴の娘で作家の井上荒野だ。

原作はだから、実の娘が、父親の不倫について書いた小説だ。井上光晴と瀬戸内寂聴は、別れたあとも親交があり、父の死後、井上荒野と瀬戸内寂聴も親交があった。なんだか複雑な人間関係で、私にはあんまり理解ができない。

原作小説は読んでいないけど、嘘ばっかりなんだと思う。根拠は、父親の井上光晴が嘘つきだったからだ。でも作家になった娘が嘘つきだという根拠にはならないか…。

でもなんとなく、父親も父親の相手のことも母親のことも、身びいきして、美化してあるんじゃないかと疑っている。そもそも「あちらにいる鬼」というタイトルからして、作家が偉いとか時別だとか、修羅の人だとか、そんな感じで評価している気がして、読む気にもならないのだ。

だから、そういうバイアスが、この映画を見る前の私にはあるのだ。



瀬戸内寂聴の本は、ずいぶん昔に、『かの子撩乱』と『夏の終り』の二作品を途中まで読んで挫折している。どちらも1960年代の著者が若い頃の作品だ。私が読もうとしたのはいつだったろうか。それも思い出せない。

瀬戸内晴美は岩手県の中尊寺で得度している。その時の住職は作家の今東光だ。今東光が寂聴という名を与えたと言われている。私が子供の頃、既に中尊寺の住職は今東光だった。

今東光は、蝦夷や藤原三代をテーマにした歴史小説を書いていて、その後の高橋克彦(岩手在住で岩手を舞台にしたミステリーや歴史小説を書いている直木賞作家)みたいに岩手県内では有名だった。

だから私も岩手県人として、なんとなく瀬戸内晴美にも親しみを感じていた。そんな動機で、瀬戸内作品を読もうとしたような気がする。

そのずいぶん後に、瀬戸内寂聴が浄法寺にある天台寺の住職に就任すると、盛岡の本屋さんに瀬戸内寂聴コーナーが出来た。といってもその当時、私は東京に住んでいたのだが…。帰省すると、本屋さんに瀬戸内寂聴コーナーが出来ていたのだ。

天台寺では講話も行われたようで、盛岡から参加したなんて知人のハナシもあった。ちょうど浄法寺で〇〇の〇〇をやっていた私の父は、何かの行事で寂聴さんと対面して、「今度の〇〇さんはハンサムね」と言われたと喜んでいた。瀬戸内寂聴の話題になると、いまでもそのことを話す。父は、寂聴のさんのファンになって、何冊か本を買って読んでいた。

テレビでたまに見かける瀬戸内寂聴は、なかなか魅力的な人だった。画面に出ていれば、つい目をとめてしまって、見る気もないのに見てしまうみたいな、そういう引きつける力のある人だった。



井上光晴の本も、私が高校生から二十歳くらいにかけて、数冊読んだ。『虚構のクレーン』『地の群れ』『象を撃つ』と、長編の『心優しき叛逆者たち』『ファシストたちの雪』だ。当時はなんだか勉強するみたいに一生懸命読んだ。

どれもつまらなかった。なんでこんなにつまらないのかと疑問に思うほどつまらなかった。

その後、忘れた頃に、原一男の映画『全身小説家』が公開された。井上光晴の晩年を撮影したドキュメンタリー映画だ。これが面白かった。

井上光晴は、とてつもなく魅力的で興味深い人物だった。



それを見た時、私は、井上光晴は、小説よりも本人の方が面白いのだと思った。書いた小説が作品というよりも、小説を書いている本人のほうが作品なのだ。

私には、井上光晴が作家というよりは、あっぱれで潔いペテン師に見えた。ペテン師が生み出すものは全部ニセモノだから、ペテン師である井上光晴の小説はつまらないのは当然なのだと、勝手に納得したのだった。

原一男のドキュメンタリーでは「文学伝習所」という井上光晴が主宰している小説講座の模様も収められていた。今で言うカルチャーセンターだ。人たらしの井上光晴が講義をして、それを主婦とかOLとか、女性たちがうっとりと受講している。

まるでアイドルと追っかけみたいに見えた。

講義の後には宴会があって、そこで井上光晴は、余興でストリップもやっている。顔に白粉を塗り、カツラを被って、派手な振袖を着てやるのだ。余興にしては本格的だし、堂に入った演技で、やっぱり本人が作品なのだと私は思った。


井上光晴は若い頃、谷川雁などとも親交があった。谷川雁は、森崎和江らと「サークル村」を作っている。そこには、上野英信や石牟礼道子も参加している。上野英信はその後、「筑豊文庫」を作っている。

「サークル村」は、メンバーが対等で、ある種の同人誌グループのような関係だったが、「文学伝習所」は、井上が先生で受講生が生徒の関係だった。この違いはなんだろうか?

「サークル村」「筑豊文庫」の人達は、社会評論や記録文学に向かったけれど、井上はフィクションに進んだ。この違いはなんだろうか?

そんなことを頭の中にぐるぐるさせながら、映画を見た。前置きが長くて申し訳がない。



最初に、まずビックリした。豊川悦司演じる作家が登場してきた時に、パロディかコントを見せられているのかと思ったのだ。豊川演じる作家は、NHKで内村光良がやっているあんまり笑えないコント番組の登場人物に見えたのだ。『全身小説家』で見た井上光晴とあまりにも違うのだ。

寺島しのぶ演じる女性作家の瀬戸内寂聴もピンと来なかった。私(私達)は、テレビやドキュメンタリー映画で、井上光晴や瀬戸内寂聴を見て、二人がどんだけ魅力的な人達なのか、知っている。しかし、二人の俳優は、私(私達)が知っている井上光晴と瀬戸内寂聴に、遠く及ばないのだ。

その時点で、この映画は失敗していると思う。もし、この二人をモデルにして映画を作るのなら、あくまでもモデルにして、思い切って違った人物造形をすべきだったように思う。

そうでもしないと、私のように、井上光晴と瀬戸内寂聴のイメージから逃れられなくて、バイアスがかかりまくりで見てしまう。


それ以上にコントめいて見えたことは、二人とも作家に見えないし、文学へのこだわりも見えてこなかったことだ。豊川悦司も寺島しのぶも、まるで小説家には見えないのだ。

『全身小説家』に出てくる井上光晴は、生活体験のすべてを小説に取り込む小説至上主義者で、小説のためなら何でやる人に見えたが、映画『あちらにいる鬼』の二人は、ただ作家として登場してくるだけで、小説づくりに対するこだわりをかけらも持っていないように見えた。

だから豊川悦司演じる男性作家が、色んな女性を関係を持つことも、よくわからなかった。薄っぺらいただのスケベオヤジにしか見えないのだ。

寺島しのぶ演じる女性作家も男性作家と同じくらい、わからなかった。裸になる必然は、制作者達の側や俳優の側にはあるのだろうけれど、見ているこっちにはそんなものはないから、一体彼女は何に体当たりをしているのだ?

そもそも二人が惹かれ合う理由も、この映画ではわからなかった。二人が簡単に肉体関係になる理由もわからない。二人は特別な関係らしいが、世の中にたくさんあるだらしのない男女の関係とどこが違うのか、さっぱりわからない。

普通の男女は別れるのに、女性の方が得度して剃髪して仏門なんかに入らないから、やっぱり二人の関係は普通とはだいぶ違うのだ。その違うのは何なのか、どうして特別なのかを、この映画では描いていないと思う。女性作家が得度して剃髪するのが、唐突過ぎて、なんでなのか、まるでわからないのだ。

少なくとも『全身小説家』には、井上光晴という人間が、多情でスケベでだらしなく、しかし途轍もなく魅力的で、周囲がほおっておかないだろうなと、納得させられる人物として、画面に浮かび上がっていたし、それこそ存在が全身小説家だった。

しかし、『あちらにいる鬼』では、あんまり魅力のない二人の中年の恋愛なんだか情痴なんだかを見せられただけのような印象で、なにも納得させられないのだ。あっちがどこで、鬼がなになのかも、わからなかった。

この映画は、現実の井上光晴と瀬戸内寂聴の、「既成の事実」に乗っかって、ただ流れていくだけのように思えるのだ。

実はつまらなくて途中で寝てしまった。女性作家が剃髪するシーン辺りまでしか記憶がない。そのシーンを見ながら私は、ショーケンが『TAJOMARU』に出るときに、わざわざ京都の瀬戸内寂聴宅で剃髪にしていたのを思い出した。

ショーケンは本当にバカで見栄っ張りだったんだなと改めて思ったのだ。『あちらにいる鬼』は、だからどうでもよくなっていたのだ。




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