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読書日記 横溝正史・著『八つ墓村』洞窟と言うより地下道小説だった


先日、森村誠一の『人間の証明』を読んだので、今度は横溝正史の『犬神家の人々』を読もうと思って、本屋に行った。しかし『犬神家』は売ってなくて、『八つ墓村』があったのでそっちを読むことにした。

『八つ墓村』は、後半、主人公が地下の鍾乳洞で、追ったり追われたりする洞窟小説だった。鍾乳洞というと、私が生まれ育った県には、大きな鍾乳洞が三つあった。

三つとも観光地になっていて、子供の頃に親に連れて行ったもらった。もっとも有名な鍾乳洞には、地底湖が複数あって、もっとも深いところでは100メートル近い水深があった。

私のもっとも古い記憶の一つには、その地底湖の水面にボートが浮かんでいる光景がある。それは実際に見た光景なのか、写真で見て覚えていたのかは、今となってはよくわからない。

昔は確か、お金を払うとそのボートに乗せてもらえたのだ。でも私が訪れた当時に、そういうサービスがまだあったのか、以前はそういうことが出来たのだとハナシに聞いて知ったのかは、やっぱりわからない。

そこの鍾乳洞には数回訪れている。最初の頃は、地底湖に小銭を投げ入れていた。縁起担ぎで、訪れた人は誰もがやっていたと思う。

小銭は、照明をキラキラ反射させながら、ゆっくりと揺れるように底に落ちていった。一番深いところは、九〇何メートルもあったから、小銭が底にたどり着くまでだいぶ時間がかかった。地底湖の底は、小銭だらけだった。

底までしっかりと見えていたから、水の透明度はものすごく高かった。そこの水は、名水百選にもなり、ある時期からペットボトルで売られるようになっている。

最後に、その鍾乳洞に行ったのは私が何歳の時だったろうか。まるで思い出さないが、多分、成人してからだ。そのときは小銭を投げる行為は禁止になっていた。

湖の底から小銭は一掃されて、一個も落ちていなかったように思う。人が潜って拾ったのかと思うと、妙な感動を覚えたのだった。

今から数年前の大雨の時、その鍾乳洞の入り口からものすごい勢いで濁った水が外にあふれ出ていた。そのニュース映像を見たときは、壊滅的に見えて、観光の鍾乳洞としてはもうダメなんじゃないかと思った。しかしその後、水位は減ったし、透明度も元に戻った。今では、通常営業に戻っているようで安心している。

二つ目の鍾乳洞は、最初に挙げた鍾乳洞の比較的近くの地域にあったと思う。なんでも日本一長い鍾乳洞なのだそうだ。

しかし、私が子供の頃は、まだそんなに整備されていなくて、中も狭くて、確かヘルメットをかぶって入らないといけなかった。入れるところも限られていて、日本一長いと言われても、ピンとこなかった記憶がある。

三つ目の鍾乳洞は、県南にあって、沿岸部で海水浴をした行きか帰りに寄ったのだった。やっぱり狭くて、ヘルメットをかぶらされた記憶がある。

入り口は狭かったけど、中に広いドーム状の開けたところがあって、上から滝が落ちていた。映画にでも出てきそうな神秘的な空間だった。

そんなこんなで、私の鍾乳洞のイメージは、この三つで形作られている。トンネルのような洞穴(ほらあな)ではなく、鍾乳洞は岩の裂け目みたいなもので、ヘルメットをかぶっていないと頭をぶつけそうになる場所が多々あって、大抵は曲がりくねっていて、でこぼこしていて、上下の起伏も激しくて、水もよく流れているし、上から落ちてくる。

照明から外れた場所は真っ暗だから、照明がない限り、一歩も歩けない真っ暗の世界なのだ。それに、場所によっては蝙蝠もいたと思う。

鍾乳石にも、そんなに感動した記憶はない。美しいところというよりも、怖いところという印象の方が強かったのだ。

そもそも、観光用に通路が造られているから、私のような者でも歩けるのだが、これが整備されていなかったら、まるで歩けない。しかも真っ暗だから、迷うどころか数歩先に進むことさえ出来ない。

そういう恐怖の空間が、鍾乳洞なのだ。

私の鍾乳洞に対するイメージは、そういう厳しくシビアなものだった。だから、今回、小説『八つ墓村』に描かれている鍾乳洞を読んだときには、大分、違うなと思ったのだった。

八つ墓村の鍾乳洞からは、鉱山の地下道のような、ある種の地下通路のような印象を受けたのだ。そういえば、昔に『八つ墓村』を読んだ時にも同じことを思ったなあ、と思い出した。

『八つ墓村』を読むのは、今回で二回目だった。最初は、『人間の証明』と一緒で、一九七〇年代末にあった横溝正使ブームの時に読んだのだった。横溝正史の小説は数冊読んで、映画も何本か見て、テレビドラマも見た。

テレビドラマの金田一耕助は、古谷一行だったが、映画は石坂浩二や渥美清が演じていた。映画の『八つ墓村』は、金田一が渥美清で、ショーケンが主役で出ていた。後から知ったが、鍾乳洞のロケは、私の田舎の鍾乳洞でやったのだそうだ。

『人間の証明』と一緒で、小説も映画もテレビドラマもごっちゃになって、『八つ墓村』の記憶が出来ている。犯人が誰なのかということだけは覚えていたが、小説はほぼ初めてよむような感じだった。

驚いたことに、細かいことはなんにも覚えていないのだった。最初に読んだ時は、ホラー小説のように、とても怖かったことが、記憶されている。しかし、今回はやけにのんびりとした小説だなあ、と感じたのだ。

それと登場する人の人物像の適当さだ。適当という言い方はおかしいか…。色んな人物が登場する。その最初の時は、ある程度の人物設定がある。しかし、物語が進むにつれて、最初の設定に縛られずに、別人のように印象が変わっていくのだ。

最初は胡散臭い人だったのが、途中から良い人になったり、良い人が途中から信用できない疑わしい人になったりと、犯人探しの課程で性格まで別人のように変わるのだ。

推理小説では当たり前のことかもしれないが、かえってどの人も同じように感じるのだ。

この点は、『人間の証明』とはまるで違っていた。『人間の証明』は、犯人が分かっていて、どうやって犯人を落とすか、みたいな形の小説だった。それに対して『八つ墓村』は、最後まで犯人がわからないで、読者も一緒に犯人探しに加わるような形の小説だ。

たとえれば、『人間の証明』は最初から犯人が分かっている『刑事コロンボ』で、『八つ墓村』は疑わしいヤツが二転三転する『24』みたいなのだ。

それにしても、こんなにのんびりした小説なのに、昔はなんであんなに怖く感じたのだろうか? 小説が怖かったのか、映画やドラマが怖かったのか、それとも宣伝が怖かったのか? 今となっては全然わからない。

今読むと『八つ墓村』は、ホラーというよりも、コメディに感じるのだ。それくらのんびりとした文章なのだ。それとも私がすれっからしてしまったのだろうか……。

なんだかんだで、ストレスも感じずに三日ほどで読み終えた。その間、こんなだったっけ? へえ、こんなだったのか、と驚きの連続だった。だからとても楽しい読書だった。

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