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読書日記『記者襲撃』肉体言語と義挙

樋田毅・著 『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』 岩波書店

1 未解決事件は解決されなければならない


1987年の5月に起こった、朝日新聞阪神支局襲撃事件を追った本だ。こういう本はなかなか難しい。事件は未解決で時効になっている。だからこの本には、決定的なことは書かれていない。それが読む前からわかっているからだ。

そして、未解決事件は解決されなければならない。解決されないままだと、たくさんの人の時間が、その時点で停まってしまっているからだ。

過去に類書も何冊かあった。ただそれは部外者が書いた本だった。類書と本書との違いは、著者が襲撃された朝日新聞の記者で、当事者と言えば当事者だという点だ。その辺が複雑で、朝日新聞は、事件の被害者という当事者でありながら、同時に取材する側でもあり、また、警察と協力する立場にもあった。警察から情報を提供されるし、警察に情報を提供しなければならない、というマスコミとしては独立を保てない微妙な立場だ。

と、最初にそういったことを意識して、本書を読みだした。

2 赤報隊事件のあらまし



2018年の2月に出ていた本だ。同じ著者の『彼は早稲田で死んだ』の流れで読んだ。

赤報隊事件というのは、1987年から1990年にかけて起こった複数のテロ事件だ。中でも1987年の5月に起こった、朝日新聞阪神支局襲撃事件が一番有名だ。散弾銃による殺傷事件だ。記者が一人死亡し、一人が一命をとりとめたものの重傷を負っている。新聞記者がテロによって殺された唯一の事件として、犯罪史に残っている。その他は、不発だった時限発火装置事件や、放火事件、住宅銃撃事件などだ。犯人は「赤報隊」を名乗って、声明文を出している。すべての事件が未解決で、2003年に時効になっている。

著者は朝日新聞の記者で、事件の半年前まで、阪神支局に勤めていた。朝日新聞は、事件直後から、専従の取材班を組んで、犯人の特定に奔走した。著者も取材班の一人として、長年、犯人を追ってきた。朝日新聞を定年退職してからも、自腹で調査を続けている。

しかし、その努力が報われることなく、現在に至るまで、犯人の特定には至っていない。本書はその取材活動の詳細を、一個人の記者として、一冊の本にまとめたものだ。

「赤報隊」は、朝日新聞を、反日として、攻撃対象にしていたから、犯人追及の調査・取材とは、朝日新聞に反感を持っている右翼や政治団体のメンバーなどと、対面取材することになる。相手は、右翼の活動家や暴力団関係者だ。現在と比べて、1980から90年代は、右翼の街宣活動なども活発だったし、暴力団も暴対法が効力を発揮する前だったりして、まだまだ元気だった。

素人の私は、そのアポ取りや取材の場面を想像しただけでビビってしまうが、著者たちは、犯人の可能性があると思われる人物、約300人に果敢に取材を行っている。

それらの容疑者候補は、この本の中で実名、仮名で登場している。当時の肩書や所属から、少し調べれば実名がわかる人もいる。

3 容疑者として登場してくる統一教会



現在、ワイドショーを賑わしている統一教会や勝共連合も、α教会、α連合という仮名で登場している。そのページ数が、この本の3分の1ほどもあることに、単純に驚いた。他の容疑者候補に比べて、文章量が圧倒的に多いからだ。

朝日新聞阪神支局襲撃事件に限らなくても、統一教会には、不穏な要素がたくさんあり、それだけ書くことがあったということだ。朝日新聞側も、警察や公安も、かなり強い関心を持って、統一教会を調べていたのだ。警察は、統一教会の関係者28人に絞って捜査をしていたが、時効を迎えて、頓挫したという。

先日(2022年9月16日)の朝日新聞朝刊に、韓国での統一教会のついての記事があった。その中で、統一教会の関連企業が、銃などの武器を製造しており、朴政権時代には、製造した銃器製品を納入していたとあった。軍事産業の一翼を担っていたのだ。この関連企業は、現在でも残っているという。

本書には、1980年代の日本の統一教会の関連企業が、日本国内で26店の銃砲店を経営していたと書かれている。それらの銃砲店は、ほとんどが、射撃場を併設しており、韓国でライセンス生産されたレミントン社の散弾銃などを、輸入販売していたとある。レミントン社の散弾銃は、阪神支局銃撃事件に使われたとされる散弾銃だ。

また、勝共連合には、表に出てこない裏の組織があって、射撃も含めた武装訓練をしていたという証言も出てくる。

1980年代半ば当時、「朝日新聞」や「朝日ジャーナル」は、統一教会追及のキャンペーンを張っており、それを根拠に、統一教会から攻撃されることも、十分にありうると、述べられている。

赤報隊の声明文は、右翼的な文言に満ちていたが、右翼に不可欠な天皇崇拝などの要素がなく、右翼を装っているとの説も根強い。それを考えると、勝共連合は、赤報隊にぴったりとあてはまるのだ。

なんだかすごくきな臭いハナシだし、私のようなスキャンダル好きは、過剰反応してしまった。しかし、十分な確証を得られずに、統一教会犯人説も、いまだにグレイなままだ。

統一教会系の銃砲店は、現在どうなっているのか、ネットで調べてみたが、よくわからなった。

この本を読んでわかったのは、統一教会は、やっぱり宗教ではなく、宗教の形を借りた犯罪組織ではないのか、という強い疑いだ。そのような団体が放置され、自由に活動をしてきたことに、なんか眩暈のような、暗い気持ちにさせられる。

4 テロを肯定する「肉体言語」というリクツ


警察は、最終的に、右翼の活動家などを中心に、犯人候補者を9人に絞って捜査したが、全員、白もしくは、証拠不十分として捜査を終えている。著者もこの9人に取材して、全員が白のようだと判断している。結局、犯人のイメージはあっても、人物特定にはいたっていない。

犯人は逃げおおせて、のうのうと暮らしているのだ。もしかしたら、人生を全うしてしまったかもしれない。ちょっとむかっ腹がたってくる。

右翼関連の本を読むと、よく「肉体言語」というコトバが出てくる。本書に右翼関係者の発言にたびたび登場していた。右翼の起こした暴力やテロ行為を、肯定的な意味合いで「肉体言語」と言うらしい。それは、一見、暴力やテロ行為に見えるけれども、「義挙」に基づいた正義の行動であって、表現手段やうまくコトバを使えない底辺の人間のぎりぎりの表現なのだ、とかいった意味らしい。コトバの通じない相手を、殴っていうことをきかせる、といった意味ではないらしいが、私には両社の区別がつかない。

5 ウィル・スミスと、野坂昭如と大島渚



そういえば、今年の3月のアカデミー賞授賞式の席で、ウィル・スミスがコメディアンをひっぱたいた事件があった。日本では最初はよくやった、ウィル・スミス偉い!的な受け止め方が大半だったが、その後、徐々に、あれはいけなかったという評価に変わっていった。

私はと言えば、ひたすらかっこいいなと思っていた。ことの良し悪しを判断する前に、平手打ちをくらわす姿勢が、絵のように決まって見えたのだ。ハリウッド俳優は、シナリオのない場面でもかっこいいのだなと、ひたすら感動していたのだ。

私の頭の中に浮かんでいたのは、野坂昭如と大島渚のマイクでの殴り合いで、それとウィル・スミスを比べていた。同時に、ショーケンの役者の花道も思い出していた。萩原健一が1983年に大麻不法所持で逮捕されたときに、手錠をしたまま歩かされた姿がかっこいいと、誰かが役者の花道だと評したシーンだ。

どれもこれもロクでもないことだ。ウィル・スミスも、なんでやっちゃったんだろう、我慢すればよかったのに、と思う。このように思っている私は、でもかっこいいとも思っているくらいだから、我慢に我慢を重ねた挙句、耐えきれなくなって、ついにぶちぎれて暴力に走る、映画やドラマのパターンに快感を覚える人間なので、頭の中では暴力の行使を肯定しているのだと思う。きっとそれが私の本音だ。

でも、人前で実際にやってはいけない、我慢しなくちゃとも思っている。こっちが建前だ。本当は、本音の意識でも、暴力はいけないと認識していなくてはいけないのだろうけど、私の場合、多分、そこまでは全然行けていない。いまだに、間接的に暴力を肯定する側に加担してしまっているのだと思う。多分、これでは駄目なのだ。

とりあえず、外面(そとづら)として、暴力行為はやってはいけないものだと表明して、暴力反対の側に自分も身を寄せてはいるのだが、それは処世術なのだと思う。私のような人間を偽善者というのだろう。

誰かを殴ってやりたい、という感情、衝動が生じて、それを抑えきれずに、人前でやってしまう人は、世の中には少なからず、存在している。ハナシがズレてしまうが、肝は、人前で、ってところのような気がする。観客がいるからやってしまうような気がする。

通常は人目をはばかってやらないことでも、人目があるから、やってしまうことが絶対にある。ウィル・スミスのビンタはそういう種類のビンタだったと思う。いわゆるテロも、人目があるからこそやれるものだと思う。一種の広告効果みたいなものがあるからやるのであって、それがなくなると、やる意味がない。

そう考えると、ウィル・スミスのビンタも、やっぱりテロと同じ範疇にはいるのだ。

6 非暴力で対立を乗り越える

 
ハナシがだいぶ、ずれてしまった。「肉体言語」について考えていたのだ。ウィル・スミスのビンタは、コメディアンが、スミス婦人が悩んでいた身体的特徴を揶揄した発言に対する反応だった。妻を侮蔑されたので、妻の名誉を守るために、ビンタしたのだ、という理屈だ。

そうすると、ウィル・スミスのビンタは「義挙」にあてはまるように見える。そもそも、「義挙」なんてものがありうるのか、ってハナシもあるが、「義挙」って本質的に押しつけがましい。押しつけがましいものは、全部、駄目なもの、やってはいけないものなのだ、と私は考える。とすると「義挙」なんて、全部、駄目なものなのだ。

そうすると、やっぱりウィル・スミスのビンタは、否定されなくてはならない。私はだから、今後、何があって暴力はいけないと自分を戒めて生きなければいけない。暴力や暴力的なことに関しては、批判の感覚を養わなければならない。

これは映画とかテレビドラマに沿って考えると、非道な目にあって我慢に我慢を重ねて、ついに堪忍袋の徒が切れて、殴ってしまう、なんていうストーリーは、もはや成り立たないということだ。殴る等の暴力ではなく、非暴力による解決方法、非暴力で対立構造を越える方法を提示し、映画ならそこにカタルシスを伴わなきゃいけない。

なかなか困難なハードルだと思う。頭で考えるのは簡単だが、実践するとなると、相当、難しい。が、それが、今、私たちが生きている時代なのだと思う。『記者襲撃』の読書感想文が、ずいぶんと変なところに来てしまった。


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