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読書日記 『心の壊し方日記』『兄の終い』兄に亡くなられた妹の本2冊

■真魚八重子・著『心の壊し方日記』 左右社



著者は、映画評論家らしい。が、この本は、映画とは関係なく、帯にあるサブカルとも関係なく、この数年の間に著者の身に起こったことを書いている。

始まりは、あまり付き合いをしていなかった10歳上の兄が亡くなったことだ。そこで、葬儀と後始末のために実家のある名古屋に帰る。実家には、老いた母と、その近所に、亡くなった兄の子供たちが住んでいた。

兄の会社、実家の土地建物の相続と処分、発覚した兄の巨大な借金の処理などたくさんの問題が著者の前に立ち現れる。同時に、母親の認知症が進んでいく。甥っ子がしっかり者で頼もしいのが唯一の救いだ。そして、著者の体調不良と鬱病と、連れ合いの癌も発覚する。

著者は、仕事をやりながらも、フリーランスという不安定な立場であることに先行きの不安が増し、また、待ったなしに迫る様々な処理案件と、母親の認知症状などから過度なストレスを受け、自身の鬱病も進行していく。

母親は施設に入り、そこで亡くなるが、著者は体調不良で葬儀にもいけない。実家も更地になり駐車場となるが、仕事にまつわるネットの炎上もあり、著者はついには自殺未遂まで起こしてしまう。

しかし、入院先の病院で何年ぶりかの休息を得ることが出来、入浴をきっかけに生きることへ喜びが復活する。この辺がやけにあっさりとしていて「?」となるが、かつて私の妻も、初診後、数日後に症状が劇的に好転したことがあるので、そんなこともあるかと思い直した。

著者は退院後は、以前よりもテンポを落として、好きなことを始めている。今のところ、ご主人も大丈夫そうだ。

著者は、社会からリタイヤもせず、この本をしっかりと書き上げていることが、すごいと思う。そして、こういう本を書くのはいつも女性だなと思った。男は、書きたがらないのかもしれない、とも思った。

この本には、私には身に覚えのあることばかりが書かれているので、結構、ヒリヒリと読んだ。といっても、私の場合、著者に共感するというよりは、著者の亡くなった兄に5割、認知症になっていく母親に3割、著者に2割という感じだろうか。

私などは、共稼ぎでもないのに、7割方社会からリタイヤしているし、問題はすべて先延ばしにしている。だから、我が家の時間は、10年以上前から止まっている。友達もいなくなったし、人間関係も、ほぼ皆無だ。考えると、またヒリヒリしてくる。


これよく似た本を以前に読んだことがあった。探したら2021年の1月に感想文を書いていた。2年近く前の文章だ。それを以下にコピペする。

■村井理子・著 『兄の終い』 CCメディアハウス



関西に住むライターである著者に、東北の地方都市の警察から連絡がある。兄が亡くなったというのだ。遺体引き取りと火葬、兄が住んでいた住居や家財道具の始末、そして遺された小学生の甥っ子の行く末などの、一連の出来事を綴ったノンフィクション?だ。

過去に金銭トラブルなどがあり、兄とは出来るだけ関わり合いになりたくなかった著者だが、死なれてはそうはいかない。幸い、兄の別れた妻で甥っ子の実の母親がおり、著者と行動を共にする。母子の縁も復活し、息子も引き取る方向になる。

このおばさん二人が非常にパワフルで、てきぱきと無駄なく動く。まさに現場処理に有能な人材だ。その様子が、的確なコトバで綴られ、コンパクトにまとまった中編小説のような一冊だ。

警察の人も、葬儀屋の人も、大家さんも学校の先生も、小学生たちも、登場する人達は、緊急時には善意を発揮する人達ばかりで、読んでいて涙が溢れて困った。著者は人の良いところをキャッチし、そこをてこに繋がって行く人のようだ。だから本書には嫌な人が一人も出てこない。

無くなった兄からも、そんなに悪い印象は受けない。縁を切りたくなるくらいな関係だったとあるが、サラリと流している。嫌な記憶を、出来るだけ排除した書き方なのだろうが、それがある種の爽やかさ、真っ当さになっている。

本だけ読むと、そういう作品になっている。って、私は書かれたものと現実とは、意外にかけ離れている、と思っているから、意地悪な読み方しか出来ないのだ…。

■テーマのわりにコンパクトで読みやすいことの意味



この2冊に共通しているのは、離れて疎遠になっていた兄の死とその後始末をする妹というシチュエーションだ。そして、内容とは別に、やっぱり似ているとな感じたのが、本の厚さ(薄さ)だ。

コンパクト過ぎるというか、読みやすすぎると言うか、悪い言葉で表現するとお手軽過ぎる、という印象だ。これでいいのか、と思ってしまったのだ。意地悪な読み方だろうか?

人が亡くなっていることや介護や鬱病、子供の親権といったシビアな問題を扱っているにも関わらず、文章の量と質が見合っていないというか…。ほとんど言いがかりのような文章を私は書いているが、読後感が、文章作品を読んだというより、エッセイマンガを読んだ感じに近いのだ。

省略されている部分が多すぎるのではないか、と穿ってしまうのだ。人間のどろどろした部分や、ドロドロした関係を、サラッと流してまとめてあるので、本当は違うんじゃないの、とか、私などは穿ってしまうのだ。

最近、本屋さんに行くと平積みになっている日記シリーズを思い浮かべた。『交通誘導員ヨレヨレ日記』とか『マンション管理員オロオロ日記』といった流行のシリーズだ。あれらの本も、文体はわかりやすく文量(分量)もほどほどで、シビアな問題を、妙にライト感覚で読める、お手軽な本として作られている。

それが良い、悪い、ということではない。ノン・フィクションとして読むには、私の好みではない、という結論になるのかもしれない。

それと気になったのが、亡くなった兄の人生に対する妹の反応だ。二冊とも、生前の兄について、探っていないのだ。亡くなった兄への興味が薄いのか、知るのがいやなのか、知ろうとする積極的な気持ちがあまり感じられないのだ。単にそんな余裕がないということもあるが、私にはそのことがすごく淋しく感じられた。

それは、私が亡くなった兄たちに、自分に近いものを感じているせいだからだろうか。この2冊を読んで、私が感情移入したのは、亡くなった兄たちに対してだ。私も彼等と同じように、私生活でいろいろと問題を抱えているが、面倒で、全部、先送りにしている。だから、そのうち、亡くなった兄たちようになるのかなあ、と漠然と思っている。彼らと自分が似たようなものだなあという気持ちが一番大きいのだ。

これを書いているうちに、どんどんもやもやした気持ちになってきた。結局、この二冊の本で癒されたり救われたりしたのは、書いた本人なのだろう。書くことで癒される、ってことは確かにある。

それに、結局、人間は自分のことにしか興味がないのだ、私もそうだけど。だから自分の兄が亡くなって、兄に死なれた私のことは書くけれど、死んじゃった兄のことは書かないし書けない。と、また意地悪なことを思いながら、生きている人の方が大事だし、生きている人間はこの先も生きていかなきゃならないのだ、とも思う。でも本が出せる人は、羨ましいなとも思った。

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