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読書日記 ロス・マクドナルド著『動く標的』こんなハナシだったか…

私立探偵のリュー・アーチャーは、依頼を受けて、大富豪の家にいく。昨日から行方不明になった大富豪=夫を捜してくれという依頼だ。

依頼主は、大富豪の若い後妻だ。夫の大富豪が自家用飛行機でラスベガスに行き、空港で行方不明になったらしい。

自家用飛行機だから、パイロットも大富豪の家に住み込みで、いる。もと空軍の英雄だ。そのパイロットは、主人が空港で勝手にどこかに行っちゃったのだと思い、問題視せずに翌朝に飛行機を操縦して帰ってきていたという。

しかし、その後、いくら待っても主人は帰って来ず、連絡が取れず、おおごとになった。

大富豪の家には、二十歳位の美人の娘もいる。そして娘はパイロットにぞっこんで、パイロットにはその気がない。若い母は、後妻で、娘とは折り合いが悪い。年齢が四〇歳くらいでアーチャーの先輩に当たる男が弁護士になっていて、大富豪の顧問として家に出入りしており、そして娘と結婚したがっている。

このあたりの人間関係が、わかりやすいんだか、ややこしいんだか、よくわからない。が、伏線になっている。

そのうちに、身代金を要求する脅迫状が届く。さすがに警察に通報せざるを得なくなるが、アーチャーは私立探偵だから独自に調査を進める。

その間に、地元のギャング、そのギャングが経営するジャズバー、ギャングの手先、そこでピアノの弾き語りをする元レコード歌手、元ハリウッド女優で現在は端役で活躍している女優、地元の警察官、などが登場する。

アーチャーは時には相手をやり込めて、重要な手掛かりを得たり、偶然誰かに助けられ難を逃れたり、挙句、殴られて気絶して監禁されたりしながら、事件を追っていく。『動く標的』はそんなハナシだ。

この小説が発表された一九四九年、こういう設定、筋立てが新鮮だったのかどうか、私にはわからない。今読むと、すごくありがちな気がするが、これが原型を創ったとするならば、ありがちという評価は当たらない。でも作品が書かれたのは戦後だから、時代的に遅いだろうから、違う気がする。

ところで私立探偵はなんで一人で行動するのだろうか? 読んでいて、そういう身も蓋もない疑問が浮かんだ。

どう考えても、一人でする探偵調査には無理がある。例えば尾行だ。東京みたいに人がいっぱい歩いていて、電車移動する人が多ければなんとかなりそうな気がするが、自動車で移動するしかないアメリカでは、無理があるし、一台の車で尾行していたら、すぐにばれるだろう。

それに何かあったら一人では対処できない気がする。情報収集にも限界あるし、なにより行動に限界がある。とっさの対応が出来ない気がする。いろんな意味で危険も伴う。それこそ一人だと逃げられないような気がする。

そもそも事件解決の確率は、単独行動ではかなり低くなるのではないか? それでもハードボイルド小説では、探偵は単独行動をするし、探偵の勘が働いたり、偶然が重なって、事件は解決導かれるのだ。

なんでだろうか? それは小説だからだとしか言いようがない。

本作の主人公、私立探偵のリュー・アーチャーも単独行動だ。探偵だけど探偵小説と違って、ハードボイルド小説だから、その行動は行き当たりばったりだ。主人公がどこかに行くと、人が死んでいたり、犯行現場を目撃したり、ともすれば主人公自身が殴られて気絶したりする。

そもそも頭を殴られて気絶なんかしたら、それは大怪我になるような気がする。でも大抵、大丈夫なのだ。探偵は、意識が戻ると、痛いとか傷を負ったとか文句をたれるけど、ほとんどが病院に行かないで済んでしまう。

なんでだろうか? 

タフだからだ。

生身の人間では無理だけど、タフガイだから大丈夫なのだ。「タフガイ」というのは、ほとんど「主人公」と同じく特権的な意味を持っているように思えてくる。主人公だから、何でもありなのだ、という感じだ。主人公だから、それは当たり前なのだ。

結局、ハードボイルド小説も、一種のファンタジーなのだと思う。リアリティを求めては駄目なのだ。ありえないことが積み重なって、「主人公」が結末まで死なないで、事件を解決する、というか、成行きを見届けて、犯人が誰なのか、明らかにするのだ。

『動く標的』も、その意味ではファンタジーだった。でも、ファンタジーにしては、大分、地味な印象のファンタージーだった。

ファンタジーはもっと派手でなくては面白くないと、私は思う。ご都合主義の「ご都合」を越えるか壊すくらいの何かがないと面白くない。

例えば、私立探偵フィリップ・マーローが主人公のレイモンド・チャンドラーの小説は、マーローがお喋りすぎて、すごくいびつな小説になっている、と私は思っている。私には、そのいびつさが面白いのだが、『動く標的』の主人公、リュー・アーチャーは、普通過ぎて、物足りないのだ。地味なのだ。


今回読んだのは、創元推理文庫の『動く標的』だ。田口俊樹の新訳だ。こういう時の読書は、旧訳と比べればいいのだろう。しかし、旧訳本は、部屋のどこにあるのかわからないし、旧訳がどんなだったかなんて記憶は私の頭の中にはまるでないから、比較出来ないのだ。そもそも、かなり読み進めるまで犯人が誰だったのかすら思い出さないくらい、この小説の中身を憶えていなかった。

『動く標的』を読むのは、実は、今回でなんと四回目くらいなのだ。それなのに思い出さないなんて、ちょっとダメだと思うのだが、細かいことは、本当にきれいに忘れていた。

そもそも、『動く標的』の大筋すらろくに印象に残っていないのだ。ロス・マクドナルドと私の相性が悪いのかもしれないが、なんでか知らないけど、それでも三度も読んでいるし、今回で四度目なのだ、多分。だから、それなりに読みやすいし、おもしろい小説なのだと思う。

それともその都度、新鮮に読めるくらいの名品なのだろうか? それともそのたびに新鮮に読めるのは、私がなにも記憶していないバカだからだろうか?

『動く標的』を最初に読んだのは、ポール・ニューマン主演で映画化された時だ。1970年代の時だ。映画を最初に見て、原作が文庫で売っていたので、それを買って読んだのだ。

しかし、映画とは主人公は一緒だが、小説は全然違うハナシだった。私は詐欺にあったような気持ちになったのだった。

実は私の見た映画は『新・動く標的』で、原作小説は『動く標的』ではなく、『魔のプール』だった。それがすぐに判明して、なんだってことになった。当時、『魔のプール』も文庫で売っていたからそっちも買って読んだ。映画と同じハナシで、『魔のプール』が原作なんだなと納得した記憶がある。

ところで『魔のプール』の中身も、今思い出そうとしても、やっぱりまるで思い出せない。だいたい、ロス・マク作品は、タイトルを見ても、中身がああ、こんなハナシだった、あんな事件だったと、思い出すことが一つもできないのだ、私は。

これは私がバカだからなのだろうか。ロス・マク作品は、私の頭の中では、ノッペリとしていて、一個一個、独立した作品として記憶出来ていないのだ。なんでだろうか?

『動く標的』を二回目に読んだのは、1980年代になってからだ。その頃、私は、ハードボイルド小説に凝っていた。二十代の頃だ。世の中は、ロバート・B・パーカーが大流行していた。ハードボイルドは、ハメット、チャンドラー、ロスマク、そして、パーカーが正統な後継者だなんて言われていた。早川文庫では、ミッキー・スピレインなんかも、ばんばん出ていた頃だ。

そのときに、当時、邦訳されていたロス・マクドナルドの作品を全部揃えたのだ。早川文庫と早川ポケットミステリと創元推理文庫だったと思う。その際に、ロス・マクの全作品を読んだから『動く標的』も読んでいる。

それからだいぶ経って、三〇代の末期か四〇代のはじめの頃に、またロス・マクを集めたことがあった。数歳年下の友人が、ロス・マクを熱く語るので、また読んでみようと思ったのだ。

そのときは、二十代の時に集めたロス・マクの本は実家にあるか古書店に売り払ったかで、手元になかったから、また改めて集めたのだ。集めたからには、また読んだ。『動く標的』も『魔のプール』もまた読んだ。それが三回目だ。

そして十数年か二十何年か経って、今回、また『動く標的』を読んだのだった。だから最低でも四回は読んでいることになる。

『動く標的』は、四回読んでも面白い、というよりも、四回読んでも覚えていなかった、という、がっかりというより、そんなもんだよな、的な小説だった。何回も読んでいるけれど、私にはいまいちなのだ。ロス・マク・ファンには悪いが、いまいちだから、印象に残らず、憶えていないのだ、ということが、今回、やっとわかった。

60過ぎて、やっとわかるなんて、私は本当にバカだと思う。

さすがに四回目だから、100ページくらい読んだら、ストーリーの大まかな流れは思い出した。……当たり前か……。犯人が誰なのかも思い出した。でも、詳細は何も覚えていなかった。ポール・ニューマン主演の二本の映画のシーンも頭の中に蘇ってこなかった。

今読むと、小説は思ったよりもドタバタした印象だった。主人公も含めて、どの登場人物にも感情移入が出来なかった。主人公が私の頭の中で、映像にすらならなかった。主人公のリュー・アーチャーにはなんの魅力も感じないのだった。

これは、ハードボイルド小説の名作なんだろうか? という疑問が今更ながらに浮かんできた。ロス・マクは、ハメット、チャンドラーに続く、ハード・ボイルド小説の正統な後継者ってことになっている。だから、私は何も考えないで読んでいたのだ、と思う。

しかし、あんまりおもしろくないのだ。思い返してみると、ロス・マクの邦訳作品は、全部を読んでいるのだけれど、何一つ、どんなハナシだったか、私は思い出せない。覚えていないのだ。

これは私がボケたせいかもあるかもしれないが、ロス・マクがそんなに面白くないっていうのが、一番大きな原因なのだと思う。もちろん私にとってということだ。ロスマクが面白いという人は、たくさんいると思う。

しかし、私はロス・マクとは相性が悪いのだろう。これがわかるのに、何十年かかったっていう、馬鹿なハナシだ。ってさっきも書いたか……。

私は面白いとは感じないのだが、ロス・マクの世間的な評価は高いのだ。わざわざ新訳が出るくらいだから、『動く標的』もそれなりの名作なのだろうと思う。ただ、私には、その良さがわからないのだ。四度も読んで、やっとわかったのは、私にはロス・マクはわからない、ということだ。しつこいな。

ダラダラ同じことを繰り返し書いているが、今回、『動く表的』を読んで、やっぱりフツーだなと思ったのだ。何がフツーかというと、主人公が普通なのだ。

ハードボイルド小説の主人公として、大抵の人が真っ先に思い浮かべるのは、レイモンド・チャンドラーが創ったフィリップ・マーローだろう。そのマーローに比べると、『動く標的』の主人公リュー・アーチャーは、いたってフツーなのだ。

マーローは、相手が聞いていようがいまいが、その場にふさわしい話題なのか、ふさわしくないのか、といったことに関わらず、自分のルールや信条を一方的に喋りまくる人だ。

しゃべり倒すことが彼の目的で、相手が聞き入れたり、納得したりすることは、彼はあまり興味がないのだ。そういうコミュニケーションがとれない場面に、どこか命をかけているようなところがあって、そこが私には面白いのだ。そこに私は魅力を感じるのだ。

それに比べて、アーチャーは、普通なのだ。真っ当な社会人に感じる。職業人にすら思える。変態度数が足りないのだ。

変態度数というコトバを思いついて、それについて説明しなければならなくなった。が、深く考えていないので、今日はここでやめます。



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