映画日記 大友克洋・監督『アキラ』発明がつまっていた画面
ネットフリックスで『アキラ』を見た。大友克洋の1988年公開のアニメ映画だ。公開時に池袋の映画館で観て以来だから、三十数年ぶりだ。
ちょっと前にリマスターされて、劇場で公開されたというニュースを目にしたが、私が見たネットフリックスのは、リマスター版だろうか? 音声も画像も、雑な気がしたから、旧版のような気がする。
大人も女性もほとんど出てこない映画だった
不良少年たちの映画だ。引きこもりやイジメ、陰湿な暴力が当たり前になった現代の不良とちがって、ここに出てくるのは、やけに健全な不良たちだ。そういえば、どこかに「俺たちは健康優良不良少年だ!」っていうセリフもあったと思う。でもそれは原作マンガの一コマだったか…。
主人公の少年少女たちは、養護施設のようなところで出会って、多分、今もそこで暮らしている。
だから、親は出てこない。家族もいない。彼等の間には、自分達だけの強いつながりがある。
少年たちは、貧しそうではあるが、なぜかバイクを持っていて、乗り回している。
昔の暴走族のようでもあるが、1970年代の現実の暴走族と違うのは、グループの規模が小さく、先輩、後輩といった年齢的な縦の序列がなさそうに見えるところだ。
それに、彼らにはヤンキー臭さが一つもない。それは、作り手の大友克洋にヤンキー体質がなかったからなのだと思う。それに、このアニメ映画が作られた当時は、ツッパリはあっても、ヤンキーはまだ全盛期を迎えていないかったからなのだと思う。
今の日本は、どこもかしこもヤンキーだらけだ。ダンスチームも、俳優も、歌もバンドも、書道も三味線も、マンガも、日本語ラップも、チェーン店化したラーメン屋みたいなヤンキー経済に覆いつくされている。
『アキラ』は、そういうヤンキーの群れが闊歩する前に描かれたマンガであり、作られたアニメーション映画だ。
と書いてみて、このことに何か意味があるのかなと、自問してみた。『アキラ』以前と以後でヤンキーが分かれるのかといったら、そんなことはないから、特に意味はなかった気がする。
この映画に出てくる少年少女たちには人格があるが、彼等に絡む大人の登場人物達には、ほとんど人格がない。脇役というより、その他大勢といった感じだ。
まともな人格がある大人は、軍を率いる「大佐」ひとりだけだ。その他に、少し人格がある登場人物たちは、みんな老人だ。
女性の登場人物は、ケイという名のヒロインと、カオリと言う少女の二人だけだ。
と、書いてみたが、主人公の金田も鉄雄も、他の登場人物も、人間としての深みはあまりない。性格と行動が一致していて、誰もが単純で、とてもわかりやすい。
アニメーションは、多分、そういうものなのだろう。『パーフェクト・デイズ』の役所広司の顔のようなものは、アニメには、あり得ないのだろう。
主人公の金田や鉄男は、15、6歳の設定だ。高校生だ。今どきの高校生は、大人より背が高かったりするが、この映画の彼らは、大人よりも一回り、小さく描かれている。だから、あくまでも少年だ。青春は、まだ、始まっていない。
だから、『アキラ』は、子供達と、一人の大人の男と、男の老人たちしか出てこない映画だ。この場合の子供達の中には、金田と鉄男らと、ケイとカオリ、それに成長が止まって幼児のまま老人化したマサル、タカシ、キヨコも含まれる。
だから、形式としては、『アキラ』は少年マンガだ。
少年マンガが、なにかの勝負をして、主人公が勝っていく物語だとしたら、この場合、誰と誰が勝負しているのだろうか? 『アキラ』の場合は、競技は、超能力合戦だろうか?
それを考えると、『アキラ』は、少年マンガには、ぜんぜん当てはまらないように思えてきた。
そもそも、私は、『アキラ』の登場人物の誰にも感情移入ができないのだ。これは、アニメ映画公開時の最初に見た時もそうだった。これでヒロインが可愛かったりしたら、また違っていたかもしれない。しかし、ヒロインのケイにも、なんの魅力も感じないのだ。
ケイは、女性の顔形に描かれているが、女性的なところはあまりなく、少年たちとほとんど変わらないのだ。
日本人、白人、黒人を描き分けた最初のマンガ家だった
ここからアニメ映画『アキラ』から離れて、大友克洋のマンガについて書く。
私は大友克洋のファンだったが、最近は読み返していない。大友作品を最後に読んだのが何十年も前だから、その頃の記憶で、この文章を書いている。
1970年代、『漫画アクション』で大友マンガを発見した時は、衝撃だった。描線が細く、画面は白く、そしてなにより、登場人物が日本人だった。そのへんにいる、日本人のニイちゃんだったのだ。
大友克洋は、アジア人と、白人と、黒人を、一目でそれとわかるように描き分けた最初のマンガ家だった。
大友克洋の描くそのニイちゃんは、マンガの主人公にしては、ありえないほど情けない、そこいらへんの存在だった。そのニイちゃんの顔は、映画で言ったら、脇役か、それ以前のその他おおぜいの顔だ。
大友は、そういう情けないニイちゃんをマンガで描き続けた。逆に言うと、大友克洋は、かっこいい美男美女を描くことが出来なかった。
しかし、70年代の大友作品の登場人物の顔は、当時こそ日本人そのものに見えたのだが、現代の日本人には当てはまらない気がする。あれから日本人の顔が変わってしまったからだ。
日本人の顔は、この3、40年で劇的に違っている。どんどん変化している。
男の俳優などを見比べると、この数十年の間に、同じ国の人なのかと思うほど、顔も体型も違っている気がする。時代が下れば下るほど、体つきは細く高く、顔が小さくなり、目鼻立ちがくっきりとして、マンガ的になっている。
そのせいだろうか、アニメ映画『アキラ』を見て、登場人物たちが、日本人ではなく、中国人とか韓国人に見えたのだ。
いや、違うか。要するに私の日常にはいない、どっか他のアジアの国の人に見えたのだ。久しく読んでいないが、大友のマンガを今読んだら、同じような印象を持つような気がする。
美男美女の描けない大友克洋の描くマンガは、ジャンルでいったら青年マンガだった。主戦場にしていた雑誌も、双葉社の「アクション」という青年誌だった。
その頃の、大友克洋がどういうマンガ家だったのか、まとめてみる。まとめると言っても、私が当時、勝手に思っていたイメージだ。
大友克洋は、革命的なマンガ家だったが、描けないことも多いマンガ家だった。
メカは描けるけど、ファッションは描けない。流行に対しては、センスが野暮なのだ。つなぎや軍服、メカならかっこよく描けたが、流行の最先端みたいなものは、描けないマンガ家だった。
そして、キャラクターのある人間のキャラは描けないのだ。つまり、ヒーロー、ヒロインのいるマンガとは違うマンガを描くマンガ家だった。
特に苦手そうなのは、女性だった。幼女や老婆は描けても、女性は駄目だった。まるっきり描けなかった。
そして、子供と老人と、鬱屈した青年は描けるけど、少年も描けないのだった。
大友克洋は、日本マンガ史では、手塚治虫と並んで画期となる天才的なマンガ家だったが、そういう偏った特徴がたくさんあるマンガ家だ、と私は思っていた。
そんな大友克洋が、初めて挑戦した少年マンガが、「ヤング・マガジン」に1982年の暮れから連載を始めた『アキラ』だった。
ビルや風圧や光の流れが、キャラやストーリーよりも主張する発明マンガだった
『アキラ』は変なマンガだった。登場人物よりも背景のビルや破壊のシーン、風圧やバイクの流れるライトの描写など、人間以外の描きこみが発明に満ちていて、魅力的なのだった。
近未来の設定なのだが、使用中というか既に中古品の感覚のあるメカや建物、そしてパンクロッカーが言いそうなセリフや壁の落書きのモンク、それら全部が瓦解していく破壊の描写が、人間のドラマやストーリーなんかより、はるかに格上なのだった。
物語など追わずに、コマや見開きを、食い入るように見ることが、『アキラ』の読み方だった。ハナシを追うよりも、見入ることの方が、より快楽的だったのだ。
だから、不良少年のハナシも超能力のハナシも、全部、描画のための添え物に思えた。
このマンガの主役は、人間ではなく、近未来なのだけども、古びているメカや高層ビルや壁の落書きや、破壊されて散らばる瓦礫や廃墟、爆風や風圧や光の流れの「描画」だと、私は思っていた。
だから、大友克洋のマンガは、少年マンガでも青年マンガでもないのだ。
そんな風に、私は『アキラ』の連載マンガを読み、実は毎号、切り抜いてファイルしていた。大型単行本になった時は、切り抜きと見比べたりして、楽しんでいた。
ところが、途中で連載が中断されて、アニメ化が進められたのだ。だから私もアニメを観に映画館へ行った。
ケータイもネットも出てこない古いような新しいような映画だった
ここからまた、アニメ映画『アキラ』に戻る。
今、見ると、『アキラ』の時代設定が、2019年であることに驚いた。今年は2024年だから、もう数年前の設定だ。近未来のまだ先のハナシだと思っていたら、現実の時間の方が、とっくに追い越してしまっていた。
映画では二度目の東京オリンピックを控えていると告げられるが、現実にも東京オリンピックは、2020、21年だったから、先取りしているような気もする。
その割に映画の中では、オリンピックにはほとんど触れていなかった。メイン会場になるスタジアムは出てくるが、それ以外は何も出てこない。スタジアムのデザインも、とても古い。昔の国立競技場と大差がない。スポーツする人も出てこない。
当然、アニメの中の世界は、現実の2019年とは、違っている。アニメの方が現実よりも進んでいる部分もあれば、現実より遅れている部分もある。
アニメの『アキラ』には、携帯電話もネットもパソコンも出てこない。通信手段は、まだ公衆電話だ。現実の通信機器は、アキラの描く世界より、ずっと進んでいる。
映画では、科学データの記憶媒体は、業務用コンピューターからプリントアウトされる紙だ。紙には、パンチ穴や波形が描かれ、科学者が読み解くという、ものすごく昔の未来のイメージだ。
このアニメ映画の公開が、1988年という昭和の末で、ウィンドウズが爆発的に広まったのは、1995年からだから、通信機器やパソコンがもたらす技術革新のイメージが持てなかったのは無理もないのかもしれない。
逆に、2019年の現実には、まだ実用化されていないものも映画には出てくる。例えば、ボブスレーのような形の、空を飛ぶ二人乗りの乗り物だ。映画では、マシンガンを装備していて、警備に使われている。
またマシンガンのような形のレーザー・ビームも武器として登場している。これは、付属のバッテリーを肩から下げて、セットで使用されている。
さらに、人工衛星から地上を照射する強力な破壊兵器も、登場している。あったら面白いなと思うが、どれも、実用的な感じはしない。
ここまで書いて、困ってしまった。三十数年前のロードショウの時の感想と、今回もほぼ同じになってしまった。
私にはアニメ映画の『アキラ』はつまらなかったのだ。今回も、同じようにつまらなく感じたのだ。
画面の衝撃は、原作マンガの方が大きかったのだ。アニメで改めて見ても、既視感はあっても衝撃は薄かったのだ。
それに当時もネオ東京に外人がいないことに違和感を感じた。未来は、もっと雑多な人種が混じっている気がしたのだ。
極めつけは、芸能山城組の音楽だ。単語の羅列の歌詞がダサかったし、「ラッセイラ」の掛け声に、どっ白けてしまった。もっとでかい音でバーンとやって欲しかった。打楽器音も、小さく軽く感じた。肚に来ないのだ。
声をやっている子供達が、素人過ぎるのも気になった。音楽とアフレコをやり直せばいいのにと思ったのだ。それと同じことを今回も強く思った。
きっと、アナログの技術でここまでやったアニメはすごいとか、アナログでしか出来ないのがこれだとか、そういう技術的なことで語れることは多いのだと思う。が、私にはよくわからない。
アニメの『アキラ』についても、マンガ家の大友克洋についても、昔思ったことを書いて、終わってしまった気がする。多分、私に進歩がないのだ……。
連載マンガは途中で失速して、大友克洋はマンガを描かなくなってしまった
アニメ公開後に再開されたマンガの連載は、大分、拍子抜けしたものになった。あれほど生き生きしていた線描は、力が抜け、画面からは夜の闇といった黒色が脱色されたように白っぽくなった。
私には、1巻から4巻までと、 5巻6巻が、別のマンガに見える。
大友克洋は、最初の少年マンガの連載で、失敗して、それで、マンガ家としても終わってしまった。そんな印象を私は持っている。
大友克洋は、『アキラ』の後、マンガを描かなくなってしまった。少年サンデーで江戸を舞台にした?連載を始めるという予告が10年くらい前にされたときがあったが、実現していない。残念だ。
ところで、日本のアニメ映画で、最近、感じるのは、「アニメ」なのか、「アニメーション」なのか、ということだ。多分、この二つは違うもののように思える。が、このことは後で考えることにする。
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