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暴走する母とそれをいなす父

今年の7月に、とある人間国宝が亡くなった。そのニュースをテレビで見た母が、私に電話をしてきた。香典を送るから、お葬式に行ってきて欲しいと言うのだ。母の幼馴染のMさんが、その人間国宝に嫁いでいたからだった。

私の母は東京の山の手に生まれ育ち、けっこうよい女学校を卒業している。母の実家の近所には、元の武家屋敷などがあり、いろんな会社の創業者一族の家とかが並んでいた。そのせいか、母や母のキョウダイの同級生には、そこそこ名の知れた名門?の人達がいる。

母の幼馴染で、女学校でも同級生だったMさんは、卒業してすぐに、伝統芸能の担い手と見合い結婚をした。相手は、その後に人間国宝になっちゃったのだ。

一方、母の家は、母が女学校に入学した頃に、父親が事業に失敗して、借金まみれの生活になった。そこで、百何坪かあった土地の半分を売りに出したのだ。それを買ったの岩手の商売人だった。

買った土地に家を建てて、子飼いの夫婦を東京に送り出し、大学生相手の下宿屋を始めさせたのだ。岩手県人専用の下宿屋だ。買った商売人が、私の祖父で、下宿人の1号が、私の父だった。

父は隣の家の娘を見初めて、大学卒業後に、岩手に連れ帰って嫁にするのだが、母は借金の形に岩手に売られたのだと、よく言っていた。何度も言うので、冗談なのか本当なのか、私にはわからなかった。

岩手に来た当初は、東京で冠婚葬祭があっても、嫁に来たんだから(借金の形なんだから)行ってはいけないと、義母(私の父方の祖母)に言われ、里帰りが許されなかったらしい。

昭和の末に私が東京に来て、母の妹である叔母と焼き鳥屋をやっている時に、昔話として、あの時もお姉さんは来られなかった、あの時も来なかったと、母だけが写っていない集合写真を見せられたことがあるから、何回かはそういったことがあったようだ。

岩手に嫁に来てからの母は、東京とのつながりは薄くなっていたようだが、私が幼稚園に入る前の年くらいに、母と兄と私とで、東京に遊びに来たことがある。その時は、初日はMさんの家に1泊させてもらい、東京見物に連れて行ってもらった。私が後の人間国宝に会ったのはその時だけだ。もう五十数年以上前のことだ。次の日は、母の実家に泊まり、三日目は叔母の家に泊まった。

その後の母とMさんとの付き合いの度合いは、よくわからない。母が次に上京するのは、なぜか間隔があいて、50歳になってからだった。それからは、またMさんとの付き合いが復活したようだった。

ちなみに、Mさんの弟が、母の妹と同級生でやはり幼馴染だった。母の妹=叔母が、焼き鳥屋を始めるときに、私が呼ばれ、結局、20年間、現場を任され、店長みたいなことをやったのだが、その店の常連の一人が、Mさんの弟だった。

母は、50歳になった年から、女学校の同窓会に出るために上京するようになった。自分の妹と私が焼き鳥屋をやっていることもあって、その際は、店に顔を出し、叔母の家に泊まっていた。Mさんの弟が、焼き鳥屋に人を集めて、二次会みたいなことをしてくれたりもした。

母は、2年に1回の割合で、同窓会に参加していたようだ。女学校の同窓会は、母たちが70歳になった時に、打ち止めになった。その後、Mさんとは、年賀状の付き合いが続いていたようだが、10年くらい前に、母は、年賀状をやめている。

ちなみに母は昭和6年生まれで、この間92歳になった。そんな年齢だから、Mさんがご存命なのか、わからない。焼き鳥屋は、叔母が死んじゃって、十数年前に店じまいしている。Mさんの弟が、ご存命なのかもわからない。

そんな状況なので、人間国宝のお葬式に、香典を持って行くなど、私はかなり渋ってしまった。何しろ、ほぼ面識がない。だいたい、お葬式があるかどうかもわからなかった。検索してみたら、お弟子さんたちが献花する日の案内があった。そこに行けばいいのか。それなら、地味な私服でもいいかな、とか思った。

困ったことに、私の持っている唯一の礼服は、秋冬もので、夏には着られない。スーツも持っていないことはなかったが、何年も着ていないから、着られるかわからなかった。色んな不安が頭をよぎった。だいたい、行く必要なんかないではないかと思った。

しかし、私が何を言っても無駄だった。母は執拗だった。お願いだから行ってきてくれと言うのだった。



ところが何日経っても母から香典が送られてくることはなかった。献花の日も過ぎてしまった。

しばらくして、やっと母から電話があった。私のほうから、Mさんのご主人、亡くなったみたいだよと言ってみた。母はすごく驚いていた。

知らなかった、どうしましょう、と言う。でももう遅いからいいわと言う。「Mさんとはもう年賀状もやり取りしてないのよ、最後の年賀状には、車椅子を使っているって一筆添えてあったから、もう生きてないわよ」と元気に言う。

私は脱力し、同時にほっとしもした。これが92歳かと思った。

母はおもむろに声を潜めて「実はお父さんに女がいるのよ」と言いだした。いきなり言われた私はぶっ飛んだ。母によると、父が県北に単身赴任していた頃に、同僚の、子持ちの未亡人と関係が出来て、驚いたことに、未だに続いているのだと言う。そして、「ちっとも知らなかった、ショックだ」と言う。

驚いたのは私の方だった。父が県北に単身赴任していたのは、私が小学校4年生からの6年間だ。どう考えても50年は前のことだ。

当時、父は単身赴任先でアパートを借りて住んでいた。住人は、父と同じように単身赴任している男ばかりだった。同じ職場の人も何人かいた。持ち回りで食事を作ったりして、共同生活みたいに楽しく暮らしていた。

内向的な私と違って、父は社交的で、しかもスポーツマンだった。地元の早起き野球チームに入って、ファーストとかショートを守っていた。そのせいか父のアパートには、住人らのほかに、野球チームのメンバーも集まって、宴会になることもしばしばだったようだ。

父は、野球の試合があるときは帰ってこなかったが、週末は、車を運転して家に帰ってきて、日曜の夜か月曜の早朝に、また車で県北に戻っていった。

その県北の駅までは、各駅停車で90分かかったが、電車一本で行けたので、私たち家族は日曜日に、野球の応援などに何度か行っている。試合の後は、チームの行きつけの店で宴会のようになり、そこにはいろいろな人が集まっていた。

その輪の中には、父の職場の同僚もいたし、やはり同僚である未亡人も子供を連れて来ていた。子供は男の子で、私よりも2歳下だった。みんな野球の応援に来ていたのだ。

父が赴任した最初の頃に、そんな宴会が、確か、二度ほどあって、どちらかでは、写真を撮っている。母も父も未亡人も一緒に写っているみんなで撮ったのもあれば、私と兄と男の子の三人並んだ写真もあった。それらの写真は、実家のアルバムに貼ってある。

電話の母は、「証拠の写真もあるのよ。あの女の写真よ」と言う。詳しく話を聞いたらやはり昔のアルバムの写真のことのようだった。

「あの女の写真を大事にとっていたのよ」と母は言う。そして今でも「パソコンを使って、連絡を取り合っているのよ。あんたもパソコンをやってるからわかるでしょう?」と言う。

父の書斎は二階にあり、毎日、2時間くらい父はそこでパソコンをいじっているらしい。母にしてみれば、何をやっているのかわらず、妄想の種になっているようだった。

私はいくらなんでもそんな半世紀近くも前のことだし、「女の人だって、もう死んでるかもしれないよ」と言ったが、「じゃあ、なんでパソコンで連絡を取り合っているのよ」と返されてしまった。妄想が暴走して、強固になっている感じだった。

そういえば、あの時、県北から帰って来てから、「お父さんは困っている人に優しいのよね。あんなに優しい人はいないわ」と言っていた母の記憶がある。父が未亡人とその子供に優しく接していた、他よりも気を使って接していた、ということなんだろうと、その時、子供だった私は思ったのだった。母が父のことを自慢しいているのかなとも、思ったような気もする。

今考えると、あれは母の嫉妬だったのだろうか。45年以上経って写真を見て、当時の嫉妬の気持ちが蘇って、妄想に書き換えられて、発展したのだろうか?

後日、父と話したら、父は古い写真をスキャンして、パソコンに取り込む作業をしていると言う。それで昔のアルバムを引っ張り出していたら、それを見た母が、「あんたはまだこの女と付き合っているのか!」と急に怒りだしたのだと言う。

母の怒りは、20分くらい続くのだそうだ。20分くらい黙って聞いていると、とりあえず収まるのだそうだ。それが今のところ週に2、3回はあるなあ、と言う。

「ありゃあ、老人鬱ってやつだな。いよいよあいつもボケてきたよ。回数が増えてきたら、どうにかしなきゃならないな」と電話の向こうの父が言う。

「スキャナーはプリンターと一緒になった複合機ってやつだけど、安物のわりに、これがなかなか使えるぞ」と父は言う。母の戦前のモノクロの家族写真を取り込んで、ソフトで修正すると、とてもクリアになったのだそうだ。それらを拡大プリントして、額に入れて飾っていると自慢気だった。

父は母より少し年下の昭和9年生まれだ。1月が誕生日なので、年が明けると、90歳になる。まだ軽自動車を運転している。

うーん……。



一番上にも貼り付けたこの写真は、母の一家が何かの記念で撮った家族写真だ。昭和14、5年の頃だ。父によると、母に聞いても何の記念だったか、忘れてしまったそうだ。私の父も、何の記念だったか聞いて、昔は憶えていた気がするが、もう忘れてしまって、よくわからないそうだ。

実物の写真はハガキの半分くらいの大きさだ。それを父がスキャンして、週刊誌くらいの大きさにプリントアウトして、額に入れて、実家の仏壇の脇に飾っているのだそうだ。

こういった写真が十数枚あるというので、父に一枚送ってくれと言ったら、データではなく、額縁の写真をスマホで撮って、メールしてきた。そっちの方が簡単だと言われた。それを切りだしたのが、この写真だ。

左から母(昭和6年生まれ)、祖父、叔父(昭和9年生まれ)、伯父(昭和4年生まれ)、叔母(昭和12年生まれ)、祖母。祖父も祖母も、長兄である伯父も、私が生まれた昭和36年には、もう亡くなっていて、会ったことがない。

次女の叔母も2007年に亡くなっているし、次男の叔父も去年、亡くなった。母の家族でまだ健在なのは、母だけになってしまった。




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