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再読読書感想文 森村誠一・著『人間の証明』 こんな本だったのか!


森村誠一は、去年の7月に亡くなった。もうじき一年になる。大きな本屋さんで、ほんの少しだけ、追悼コーナーがあったりした。

今も本屋さんにいくと、角川文庫の棚に森村誠一の本が数冊並んでいる。その中に、必ず『人間の証明』がある。今でも読む人がいるのだなと思って、私も読んでみようと思ったのだ。今読んだら、どんな感じなのだろうか? 面白いのだろうか?

『人間の証明』は、高校生の時に一度読んでいるから、40数年ぶり。今回で2回目だ。

あらすじは、大体知っている。というか憶えている。角川映画で松田優作主演の映画を映画館で見たし、小説も読んだし、テレビでも林隆三主演のドラマも見た。映画は、テレビでも見ている気がする。

映画で黒人役で出演していたジョー山中の歌う主題歌も、よく耳にした。だからあらすじといっても映画と小説とテレビドラマがごっちゃになっている。でも大筋は一緒だろう。


東京の大きなホテルのエレベーターで黒人が刺殺体で発見される。黒人はニューヨークのハーレム出身だった。被害者は何しに日本に来たのか、犯人は誰なのか。

刑事が調べていくうちに、西条八十の詩が手掛かりになって、群馬県の霧墨温泉が出てきたりする。終戦直後の日本と、米兵の関係が描かれたりする。

それと並行して、妻を寝取られた男が、妻の行方を探偵みたいに捜すハナシが展開する。

登場する人物たちは、恐ろしく通俗的だ。みんな設定が明確で輪郭が際立っている。単純明快な役割が与えられ、それを忠実になぞっていく。だから、想像というか、期待を裏切らない?展開になる。

例えば、政府与党の大物政治家とその美しい妻。大物政治家っていうのは、大抵、悪い奴だから、本書に登場するのも、世のため人のために政治を行っている人ではなくて、権力を握ってそれを自分の利益になるように行使する人物、みたいな描かれ方をしている。

妻は教育評論家でベストセラーの著書があり、テレビにも引っ張りだこだ。しかし、表の顔と裏の顔が極端に違っている。

その二人の間には二人の子供がいる。大学生の長男は、典型的なバカ息子だ。妹は、思春期真っ只中のうぶな高校生だ。

そして、かつて米兵に父親を殴り殺しにされた過去を持つ天涯孤独な刑事が出てくる。映画では刑事が主人公だったが、小説ではそうでもない。

病弱で働けなくなった夫と、その夫を支えるために高級クラブでホステスになった美人妻も出てくる。この夫は、行方不明になった妻を、素人なのに、私立探偵並みの能力を発揮して、探してゆく。

その美人妻を寝取ったやり手の中年のエリート会社員も出てくる。エリートだから簡単にニューヨークに飛んだりできる。

小説は群像劇のようの展開していく。主人公は、特にいないようだった。

それぞれの人物に、非常に単純でわかりやすいな設定がしてあり、言動もことごとくその範疇にとどまっている。現実の人間は、そんなにシンプルじゃないだろうと思うのだが、作者はどの登場人物もステレオタイプな型に押し込めて、そこから逸脱させないのだ。多分、だからこそ、物語もスムースに展開し、面白さも出ているのだと思う。が、それが私には受け入れがたいのだった。

他にも疑問に思えるところが、多々あった。妻を探す無職の男が、妻の不倫相手を努力して突き止める。そこまではいい。しかし、身元を特定したあと、相手の家族関係なりの個人情報が、結構、具体的に出てくる。

調査活動には縁がなかった無職の男が調べたのだ。素人なのにどうやって調べたのだろうか? 小説では、「調べたところによると」の一言で済まされている。昔も今も、そういった個人情報を得るには、何段階か手続きが必要だと思う。が、この小説では端折ってある。そういった部分に、私はリアリティを感じなかった。

しかし、この小説が発表された1970年代後半には、それでもリアリティがあったのだろうか? その辺がよくわからない。

高校生の私には、この小説が面白く感じられ、それこそ夢中で読んだのだと思う。が、さすがに今は、それはないだろうと思うのだ。この小説には、現在の私には、それはないだろうと思わせる部分が、本当に多々あるのだ。

例えば、ニューヨークという都市やハーレムについて説明する記述が何度も出てくる。それらもまた、恐ろしくステレオタイプな認識だ。

1970年代末の、その当時のステレオタイプだから、今読むと、そのまま古くなっている。当時は、古くなっていなかったと思うが、著者のステレオタイプの連続に、当時だって違和を感じる人がいたのではないだろうか。

人物も、ハナシの展開も、『人間の証明』という小説を構成するすべてのパーツが、ステレオタイプなのだ。これには感嘆した。

いや、皮肉じゃなくて、すごいなあ、と思ったのだ。エンタメ小説って、きっと、こうじゃないと駄目なのだ。今はどうかわからないけど、当時は、そうだったのだ。

このステレオタイプの連射にハナシは盛り上がっていき、それに加えて、現実にはありそうもない偶然が何度も重なり、いともたやすく犯人が特定される。そして事件は、解決すべくして解決する。

これは推理小説なのだろうか? 『人間の証明』って、推理小説だったっけか? と私はよくわからなくなってきた。

考えると、色々な疑問が浮かんでくる。身も蓋もないけれど、そもそも犯人は、殺人を犯す必要があったのだろうか? 常識的に考えて、人を殺すほどの動機にはなっていない気がした。

だって、被害者は犯人と会う前に、何度か連絡を取っていることになっているから、その時にお前なんかに会いたくない、と言えばそれで済んだはずだ。その段階で拒否しておけば、犯人もわざわざ連続殺人なんて犯す必要もないのだ……

私は本当に、いやな読者だなあ……。

この小説のタイトルは『人間の証明』だ。この物語で人間が証明されたのか? 人間の何が証明されたのか? 

こんなステレオタイプな人物造形とステレオタイプな動機づけと、ステレオタイプな展開で、人間の何に迫れたというのだろうか? 私にはよくわからなかった。安っぽすぎやしないか?

「〇〇殺人事件」なんていう別のタイトルだったら気にならなかったと思う。

PS.
私が『人間の証明』を前回に読んだのは1978年の頃だ。その時、私は高校生だ。当時、森村誠一にはまって、10冊前後、読んだ記憶がある。

『高層の死角』『腐食の構造』『青春の証明』『野生の証明』『密閉山脈』『暗黒流砂』『悪しき星座』などだ。不思議なことに題名だけはスラスラと出てくる。(不正確かもしれないけど…)

でも、どの作品も、中身の記憶がない。内容を憶えているのは『野生の証明』だけだ。これも映画とドラマで見ている。だから、憶えているのは、そのせいだ。

映画は、高倉健が主演で薬師丸ひろ子が出ていた。なぜかアメリカの荒野でのロケで、荒唐無稽な映画だった。


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