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十二国記から学ぶ組織運営の根幹


1人の思考ですべて決定すると組織は廃れる

会社や組織を運営していくにあたって、大事なことは役割や機能の分化であると考えている。

人体のように四肢や臓器に役割がありそれぞれがそれを果たせるように、そして、一つの意思をもってその機能が活用できるように。

そのような一体となった組織は強く前に進んでいける力があると思っている。

その役割や機能を明確にし、意思を植え付けて方向性を示すのが代表者の役割と考えている。

その方向性を示すこと、そして歩んでいくなかでの判断というのは難しい。
会社や組織が立ち上がった時から正や誤の誤、正や悪の悪の組織は少数だろうしここでは話にあげないが、正であろうと思い立ち上がった会社や組織も、歩む中で道を踏み外すことなんかよくある事である。

その道を踏み外さないためにも、法や倫理や慈愛なんてのは非常に大事だが、それに囚われていては自由な発想は難しく、かといって法や倫理や慈愛なんてのを軽んじると道を踏む外すというジレンマが生じる。

会社や組織の方向性は代表者が示すが、同時にその組織の航行が安定であり安全性が確保されていることにはならないのである

これを1人で解決していくのは非常に難しい。
本当に難しいし頭も手もすべてには回らない。

しかし、1人でなんでもこなしてきてしまった代表者のところには育った役職者はいないし育つ素地がないのももどかしいところである。

だからその役割を担ってくれる人を欲する。欲さないフェーズであったとしてもその後に欲するフェーズに入ってくるのが常である。

十二国記という作品の概略

小野不由美先生の代表作と言ってもいいだろうものに十二国記という作品がある。1992年から今なお続く超大作だ。アニメでは全45話が放送されている。

(アニメは30話あたりから、ちらほらと作画崩壊しているが、内容は面白いので是非!Amazonプライムで観れます!)

十二国記は中国風の異世界を舞台にしたファンタジー小説シリーズであり。その名の通り12の国があり、それぞれの国には王と麒麟がいる。

王はそれぞれの国の統治者であり、年齢、性別に拘らず、天意に従った麒麟によって選ばれる。王はその麒麟と誓約を交わすと、不老不死になり、国の統治を半永久的にすることが可能となる。写真右の男性は500年も国を統治している。しかし、失道といって、天命に背く統治をおこなうと麒麟は病にたおれ、やがて死ぬことになる。麒麟が死ねば、王も死ぬことになる。数年で失道し潰える王もいる。

麒麟は、先程も書いたように、天意に従って王気を備えた人物と誓約を交わし、王を選ぶ役割を持つ。王が玉座に就くと側近として使え運命を共にする。麒麟は非常に慈悲深く、争いや血の匂いを嫌い、王が道を外れると失道の病にかかるというのは前述の通りである。麒麟は王以外には跪けないという特徴もある。

この天意天命というものが曲者である。王にも麒麟にもそれはみえないからだ。自分を王とは少しも思っていない者が、麒麟に跪かれて王になり、いきなり国を統治せざるを得なくなるなかでの王となった者の葛藤や、王気というものが何なのかがわからず、天意という見えないものが果たして今の感覚なのか?と疑問を抱きながらも王を選出してしまった麒麟の苦悩などが、様々な国に舞台を移しながら展開していく物語が十二国記という作品だ。

組織運営方針表明の重要性

この物語が、まさに会社や組織などのマネジメントや、代表とNo2との関係性などを表しているようで、本屋に並べてあるマネジメント書籍や自己啓発書籍の比ではないほどの学びがある。複数の国があるので、それぞれがケーススタディのように機能している点も面白い。

ある国の王は、外様(海客:日本から十二国記の世界に流れてきたもの。半獣:半分人で半分獣のもの。それぞれが王の方針によって差別されたり保護されたりと対応が分かれる者達)なのに急に王に選ばれ、その国の事情が分からぬので既存勢力に圧倒され、実権は握れずアンコントロールになり戸惑い、麒麟は理想を述べるがそうしたいのにどうにもできないもどかしさを克服していく物語となっている。

また、ある国の王は清廉潔白が故に些細な穢れも許さず、法で縛り破滅する物語である。その国の麒麟は病み、国がすさんで謀反が起き統治が入れ替わる物語となっている。

さらに、ある国の王は、外様の者を忌み嫌い、排除し、近隣国に外様の王が誕生するとなると攻撃し、その攻撃に麒麟を多用したことも相まって自身が死す物語であったりする。

王を経営者や代表者、麒麟をNo2、外様を競合と考えると色々繋がる所がある。私は会社の代表なので、会社の経営という観点からこの物語を読み直しているが非常に納得感がある。

ちなみに、王は即位後、初勅といって今後の統治の方針を国民に打ち出すことが慣例となっている。まさに会社でいうvision・mission・valueの打ち出しと一緒である。

実際にこのmission・vision・valueを打ち出すのに私が何をしたかと言うと、国の方向性の把握と業界全体の把握とリソースの把握と誰に価値提供するかである。十二国記で例えるならば、天意を慮り、国の現状を知り、官職の役割や関係性や力を知り、国民が何を求めているかを知るということだろうか。

会社を運営していくのにvision・mission・valueを打ち出した方がいいと言われるのは、こういった各種の情報を吟味し、自身自組織の「座標」を認識する機会を得て、言語化することで自身自組織に刷り込んでいくことが重要だからだと考えている。

代表者とNo2

さて、これらを打ち出したとて実行しなければ意味がなく、実行するにも様々な障壁があるもので、その障壁は慈悲や慈愛などではどうにもし難いものが多々ある。現状を変えるにはたまにギャンブル的な要素も含まれ、それには何等か失うと痛いものをBETしなければならない時もある。現状を変えるには、排除しなければならない資源や思考や嗜好なんかもある。自身自組織の考えややり方を通す際には時には争わねばならぬ時があったりする。

この判断を代表者1人でおこなっていくと、大局観や倫理観が後手に回り道を誤る可能性は大いにある。その道を踏み外さない為に慈悲深い麒麟のような存在が王の傍にあるというのは十二国記のよくできた設定だなと思うところ。

ただ、麒麟は麒麟で理想論や争わないこと、ルールを守る事を懇々と説いてくるわけで、それに全て従っていても上手くいかないのも明白。それに従い王が官の反感を買い、内乱になり統治が乱れ、麒麟が病み、王が死ぬ国もあった。

何を目指すかを明確にし、何を大切にし、何を捨てるかを日々模索するのが組織運営であり、それをやるには「やるんだ」と決断する者(王や社長や代表)がいて、でも決断するまでに道を外れないように説く者(麒麟やNo2)の存在が不可欠になる。

この麒麟やNo2のような存在が居なくとも舵取りできる人は、自分の中に麒麟やNo2を飼っている天才だなと思う次第で、そんな天才なんてそこらには居ないものだろう。だからこそ世の中には麒麟の位置に類似する役職があるし、No2が欲しいと言っている経営者が多いのだろうし、外部メンターを配置したりするのだと思う。

これが、冒頭に書いた、

その方向性を示すこと、そして歩んでいくなかでの判断というのは難しい。会社や組織が立ち上がった時から正や誤の誤、正や悪の悪の組織は少数だろうしここでは話にあげないが、正であろうと思い立ち上がった会社や組織も、歩む中で道を踏み外すことなんかよくある事である。

というところに繋がるし、

その道を踏み外さないためにも、法や倫理や慈愛なんてのは非常に大事だが、それに囚われていては自由な発想は難しく、かといって法や倫理や慈愛なんてのを軽んじると道を踏む外すというジレンマが生じる。

というところに繋がる。

王や経営者には麒麟のような存在が必要だが、「麒麟に思考の依存はしてはならない。麒麟の言うことは聞くが言いなりにはならない」と雁国の王である延王が言ったように、依存しあわずに相対し常に尊重するよう関係性であることが必須なのである。

役職と組織図の重要性

さて、十二国記の素晴らしいところは王・麒麟・国の関係性や描写のみでなく、行政官の配置のすばらしさにもある。

まぁそこの腐敗の描写もあるのだが、それにしても役職配置が非常にきれい。

そして、行政区分の配置も綺麗。行政区分は確かすべての国で一緒のはず。

この2つがまさに国の統治の根幹になる。

会社でいうなれば、役職者の役割と組織図とチーム編成といったところだろうか。

国府における行政官の配置について

役職者にはどれだけ明確に役を割り当てるか、そしてそれを取りまとめる者を配置するかである。役を割り当てるだけではまだ足りない。それを取りまとめる役を配置しなければ大局観は失われる。そして、それぞれには明確に役割があるため、同時に実行するため権限も付与されている。権限が付与されているのだ。名ばかりの役職者ではなく、役割が明確にある。これが大事である。

恣意的にその権利を奪い行使した王の麒麟は失道の病にかかっている。これぞまさにという感じ。

そして、麒麟をはじめとした黒枠の役職者たちには実権がない。王の教育、諫言・助言が役割であり、王にとってのある種の壁打ち役であり、ある種のメンターであり、ある種の友であり、ある種の先生でもある。そうあるために三公があり、三狐がある。

会社組織としてこの麒麟のような人を配置できれば非常に強い。会社組織内にいなくても社外メンターみたいな形で配置しているところもあるかもしれない。

また、三公や三狐のにはそれぞれ3名含まれているが、その3名の役割もずらしてるのがまたよい。

やはり実権がないにしても、分権することで王を誰か個人の支配に陥りにくい状態になっている。

王や経営者は実は弱い存在である。

500年も統治が続く雁国の王、延王が、即位してまだ20年の頃に、内乱が起きたことがある。そこで麒麟が攫われてしまうのだが、攫った者が、苦が亡くなる唯一の方法は自分ら国民が滅ぶことみたいな趣旨の発言をする。そこで、延王が「民がいなくて国の器だけあってどないすんねん」的な発言をする。

国も会社も国民や役職者がいてくれるから走れるのである。国民や役職者がいない組織は箱だけであり、箱だけあっても意味がなのである。

弊社でいま役職者が全員辞めたとしたら、、、会社には事務所が3か所、車が7台もあり、PCやスマホやタブレットが何台もある、、、それを使い動いてくれる人を動かすための素地を整えてくれる人がいなくなるのである。。

どうやって会社走らせんねんこれ、状態である。特に日本は従業員に与えられた権限は非常に強い。社畜や奴隷みたいな言い方をする人もいるが、カイジって漫画のEカードってゲームの皇帝と奴隷の関係性に近いのだ…

役職者が居なければ確実にスケールできないし、側近が1人であれば容易に支配されるのである。

行政区分について

さて、役職はどのような役をとるかとして配置されるわけだが、統治や組織運営には必ずその役に使役されるものやそこに居るものが存在する。

それらの人に方向性を示し動いてもらわねば、国も会社も成り立たないのである。

ただ、人はどれだけ賢くとも、多くの場合、頭は1つで、目は2つで、手は2つなので、マネジメントできる量というものはあまり多くない。

そこで、セグメントに分けて、それをその長がマネジメントし、そのセグメントを階層に分け、管理することでより大きな範囲のマネジメントが可能になっていくのである。

これが行政区分であったりする。
画像の行政区分は8つの戸が集まることで1つの盧(むろ)としている。

ここのサイトがすごくわかりやすいので見て欲しいです。

どれくらのセグメントをどれくらいのセグメントで管理するか。

病院で例えると、病棟を思い浮かべた時に、
AチームとBチームがあり、それが盧。
それが合わさり病棟となり、それが里。里には休憩室が一個ある。
そういった病棟がこの棟には4つあり、それを族と呼ぶ。
棟は5棟あり、それが党(わかりにくくてごめんw)。
他の診療科とその病棟を合わせて1つの病院となり、それが県。
県である病棟が大阪に5つあり、関西支部としてある。それが群。



みたいな感じ。

関西支部を統括している人が、1つの病院の1つの病棟の1つのチームのリーダーとなって管理をするってことを想像したら、明らかに場違いでやることが全然違うだろうとなる。

それは何をもって違うと判断するのか。それは見るべき視点であり、取り組むべき課題であり、求めらる能力である。これがあまりにもかけ離れているのである。

会社では小さなセグメントほど顧客に近く、大きなセグメントほど経営層に近い。セグメントの役割は大小でなく、顧客との距離である。そして、過大になった組織の末端にまで会社の意思を伝え行動を統一するには大きなセグメントから小さなセグメントへ伝達していく他ない。個々人の伝言ゲームには頼れないし、無秩序を恐怖やルールで縛っても限界がある。もちろん伝言ゲームにも限界はあるが、セグメントの長に対し要求もできれば、その長を評価することもできる。これが肝心なのである。

弊社は訪問看護事業をおこなっているので、経営層や役職が臨床にいつまでも出続けることを良しとしていないのはここからきている。あなたたちは臨床を回るプレイヤーのセグメントの一員か?ちがう、それを管理し、またはその管理している者を管理する立場にあるからである。

この十二国記の行政区分の最小単位である戸を人数に置き換えると、8という数字は非常に訪問看護事業と相性が良い。

この8人の最小セグメントをチームとし、そのうち1人がリーダーとなる。
残り7人のうち5人を常勤(看護師3人、リハ2人)、常勤時短/非常勤看護師2名とすると、スケジュールの組みやすさや欠員が出た時の補填など非常に融通がききやすい。これより多ければマネジメントが効きにくくなる。ほんとに程よい配置なのだ。

そしてこれが3チーム結成し一つの事業所となる。みたいな感じで考えると組織の構造を頭のなかで組み立てやすい。

開業前は色々と組織運用について空想したが、結局この十二国記の行政区分に戻ってきた。

まとめ

経営者になって3年の新参者ですが、新参者が故に色々悩む部分もあります。そんな時に支えてもらってるのは職員ですし、悩める時間を捻出してくれているのも職員です。

弊社の組織作りは組織図の上から順に作っています。
これは意図的におこなっています。

それは何故か?

訪問看護事業は1人の代表者とその他プレイヤーで成り立つ事業です。

この形が一番手っ取り早く黒字になります。

しかし、十二国記でいうところの「戸」が集まった「盧」にすぎません。
この「盧」から次のセグメントである「里」に移行するには「里長」を立てねばなりません。

プレイヤーと長では役割と責任が全く違います。
プレイヤーで評価されていた人が長となり評価されるとは限りませんし、プレイヤーも必ずしも長になりたいと思っているわけではありません。

「戸」から組織を作るという事は、役割の違いを認識してもらいながら、本人に納得してもらい行政区分の1つ上、もう1つ上へと昇って行ってもらわないとどうにもならないという事情があります。

「戸」のままでいることが最適という学習をされるとその時点で組織の成長は止まります。だから私は訪問看護のインセンティブ制度に反対の立場にあります。

プレイヤーは活気付くが、マネージャーにはなりたくないとなるからです。

では、里を沢山作ろうぜとなることもあろうかと思います。
8戸を集めて里を作り、リーダークラスを抜擢して里長にする。
これをひたすら繰り返す。
しかし族は作れないとなると、先程の問題がただ、場所を変えただけになります。

このような場所を変えるだけの問題、しも場所が変われば変わるほどにクリアしにくくなるような問題を抱えるのであれば、いっそのこと、王・麒麟・三公・冢宰・六官から作る方がよいと考えました。

ただ、そんなことしていたらキャッシュがいくらあってもたりませんので、これらとプレイヤーを兼任してもらいながら進行し、現在では人員増加に伴い、徐々にその官の任のみで動けるようにシフトしていってる段階です。

私には麒麟がいます。三公もいます。冢宰もいます。

そのおかげで、プレイヤーは大いに臨床に注力できるようになっており、明らかに忙しいはずなのに書類も多い月末にもほぼ残業なく、そしてレセプトも月初2日くらいで終えており、診療報酬改定の情報把握や契約書等の改定も順調にすすんでいます。これを他社の力を借りる事なくできているのは、本当に誇れることだと思います。

これが組織運営の成功かどうかはわかりません。しかし、現時点では上手くいっている感触を得ています。

この運用をする考えに至ったのは十二国記を愛読していたからと思っています。なにせマネジメントやビジネス関連書籍なんて読み切れないほど飽き性ですので。

小野不由美先生に感謝

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