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深淵をのぞく時 〜「子どもを狙う盗撮・児童ポルノの闇」

雨の日は、いつも自転車で帰る駅からの道のりをバスに乗って帰ることにしていた。私が生まれた年にできたというショッピングセンターを少しブラブラして、薄暗く雨に曇った国道を流れるヘッドライトを眺めながらバスを待っていると、背後から制服のスカートが捲られてフラッシュが光った。驚いて振り返ると、カメラをぶら下げた男が「ごめんね、ごめんね」と謝りながら走り去っていく。突然のことで事態がつかめず、「えっ?」と思わず笑ってしまった。

「子どもを狙う盗撮・児童ポルノの闇」という調査報道番組を観ていて、子どもの頃に受けたいくつかの被害の記憶がフラッシュバックする。最後まで見通すのはなかなか気合が必要だった。

モザイクで守られた匿名の男たちの欲望の対象として身勝手に消費される子どもたちの盗撮画像や動画は、どこに流れ着くか分からないネットの海に晒されている。

こっそり撮影して個人的に楽しむだけにとどまらず、SNSコミュニティで共有して称賛されたいという承認欲求の問題が被害をより深刻なものにしている。一方で、コミュニティのつながりはマイナーなセクシュアリティの当事者が孤独や生きづらさから救われる場でもあるのだろう。

ならば、加害行為には及ばない小児性愛者を子どもを傷つける性加害者と区別して受容していくことは可能だろうか。

「小児性愛者であることが問題なのではなく、性加害をしたことが問題」というように問題を切り分けて、小児性愛を多様な性のあり方のひとつとして受けいれることができるかどうか。 

不可能ではないかもしれない。しかし容易ではないだろう。番組でも「子どもを性的に見ることを許容してきた社会が、加害者たちに少なからぬ影響を与えている現実」を共有しようとしている。

身体に障害がありいじめにあっていたことで植えつけられた「自分は男性としても人間としても劣っている」という劣等感が小児への性加害へと向かわせたと語る男性の告白が印象的だった。

「怖い」って言われるのは力がある、自分に男としての力があることの証明みたいな感じになってうれしかったことを覚えています

加害者は社会でつくられる。

かつて女子高生の着用した下着やルーズソックスなどを売って、女子高生を商品として性的に消費させるような商売が社会問題になった時代があったが、いまや性的な欲望だけでなく承認欲求を満たすための道具としてモノ化され、野放図にばら撒かれる時代なのだ。

あの日、スカートを捲って下着を盗撮して逃げた男を追いかけていってくれたのは、スーパールーズソックスを履いた他校のギャルだった。

「笑ってたから、友達同士でふざけてんのかと思った」

戻ってきた彼女は「大丈夫?」と声をかけてくれた後、そう続けた。彼女がいてくれなければ何がなんだか分からないまま、私はもっとずっと……どうだったのだろう。傷ついたのだろうか。

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