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大丈夫に見えるわたしは大丈夫に見えているから、大丈夫なんだって思われる

※注意
今日は(今日も?)少しばかり不安定な状態で書いています。
最初に言っておこうと思うのですが、打消し線の部分は【閲覧注意】ででございます。たまにこんな風に言い返したいって思っちゃうなってことで、そうなればいいなんて思ってはいないんですけどね……。

「大丈夫」なわたし

なるべく死にたくはないからと「死ぬつもりはない」と言うとき、その保証はどの程度なんだろう?

どうしてわたしは問題行動を起こさないことを選んでしまうのだろう。
問題を起こせばきっと対応してもらえるのに。
もっとちゃんと狂えばよかったのかな。狂ってしまえばいい?
でも、勿体ないからしたくもない。
でも、もう少し、もうちょっとくらい大丈夫に見えないように振る舞えばいいのかな?
だけど、きっと大丈夫だって思っているし、だから問題を起こしもしないし、希死念慮だってそれほどないし、死ぬつもりもないって宣言しているし、つまりは緊急性のない患者なのだ。

うん、大丈夫だね。よし、このままいい感じに、みたいな。

いつだってわたしはただただ、大丈夫に見えるようにしてるだけ。
でも、大丈夫じゃないとは思わないから、大丈夫にふるまうしかない。

自分でも、緊急性のある患者ではないと思う。
いますぐどうこうしないと!とか感じさせる病状でもない。

わたし自身、そうしていられるだろうって、かなりの確信を持っているし。
同時に急にどうにかして衝動的になにかしてしまうような、恐怖心もある。
それでもどうにかやっていける自信もあって、そう言ってしまえば、治療者はきっと大丈夫だって思うんだろう。

そう思われたことに納得しないでいたら、大丈夫に見られないために、大丈夫じゃなさそうなふりとか、大袈裟に言ってみたりするとかも、できるるようになるのかな?

でも、わたしにとっての大丈夫じゃないときって、
本当の本当に、いますぐにでも死ぬんだ!ってなるくらいのとき。
だから、いまのわたしは大丈夫。

大丈夫だって思えているのは、大丈夫じゃないのハードルが高いのだろうか?
大丈夫じゃないことを、自分で確信できなければ、大丈夫じゃないふりさえできない。
それは妙なプライドとかではなくて、本当にそう考えているから。
死なないって思えているなら、わたしの中では大丈夫でしかないんだもの。

だって、まず、死にたいなって思っていない日なんてもう20年以上ない。
人生で一番死にたい!ってときに、死ぬ方法を奪った治療者たちを本気で憎んだし、死ぬことすら出来ないほどに混乱していたことには、何が何だかわからないうちに死んでしまいそうだった、それすら本当にどうでもいいくらいって言うか、そんなことすら気づけもしなかった。
その頃に比べて、こんなにも大丈夫なんだから、大丈夫って考えることは、わたしとしては、当然ではあるんだけれども。
たまにモヤモヤする。

遠慮せずに、大丈夫じゃないアピールしていられるひとに、ときどき。
え?その程度で?って思ってしまうとき。
自分のことを心底軽蔑する。
馬鹿なんかな、わたし、馬鹿なんかな。

色んなことを考える。
馬鹿みたいに「しにたい」だけを繰り返せば、誰もが緊急性をきっと感じるのにね。
たぶん死なないだろうって確信じみたものがあるから、わたしは「しにたい」とは言わない。
言ってはいけない。
だって、たぶん死なないから。
どうせ死なないから「しにたい」なんて言ったら、周囲に心配と迷惑をかける。
その上に、きっとわたしが「死ななかった」という結果が待っている。

そんなことで「死」を軽々しく使いたくない。

こんな風に言えば、メンタルの不調だろうな、と思ってもらえそうだと狙って、演じることもきっと出来る。
SNSでの投稿を、句読点もなくして、誤字脱字をいっぱいにして、ひらがなだけで書いたり、することくらい、いまだってできるじゃない。

だって、そうすることでそういうアピールになることを知っているし、それをすればいいだけだって、それをすることに大した労力もいらないし、本当にそれしか出来ないってときとは比べ物にならないほど、簡単にできることじゃないのって。
でも、嘘をつくのは嫌だからって理由で言わないあれこれの不調が、あるひとにとっては一大事!っていうことであったりもして。
わたしにとっては、え、普通じゃね?ってことだったなんてこともよくあったけど。

わたしには、普通で、だから大丈夫でしかない。
大丈夫なわたしは、大丈夫であるから、不調であるとは言えない。
大丈夫だから、不調であるこのあれこれだって、大したこともないって考えるし。
言ったとしても、「こうではあるけれども、大丈夫です」
というだけで、ああ大丈夫そうって思われる。
別にそれでいいんだけど。いいんだよね?

たとえば。
「大丈夫ですか?」
と聞かれても、どんなに意地悪に答えるとしても。
「大丈夫に見えるなら、きっとそうですよ」
くらいが精一杯。

死ぬことと死なないことについて、よく考えること

死ねるけど死なない。
死にたいけど死ねない。
死にたいけど死なない。
「死にたい」と言えば「死なないで」と返ってくることがうれしいってひと。
死にたくないけど死ぬしかないひともいて。

助かりたい意思だとか、死にたい気持ちは、この中の誰が最も強いだろう?
誰が一番死にたい思いが強くて、誰が一番死にたくないって思っているのだろうか?
比べようもない思いを、遠くから眺めてみたりする。

ここ最近の中で一番マズイなって思っている、現在のメンタルの状態。
一般論的に、いつもの自分の考えることを支持します!って、Twitter(現X)で、いいね!をしたり、引用しての発信もする。

けど、自分でしていてすごく感じるのだ。
表情を変えようとして変えているし、必要以上の何かを現実ではしないでいる。
必要なことも必要ないこととして、自分の認識にある。
たとえば、食事についてや、睡眠について。

それに、振る舞おうとすれば、いつも通りの自分をしていられるって自信もある。
こっそり泣いたりしつつ、いつも通りを出来てしまえているんだから、大丈夫って思うのだ。

性被害者の無料相談はいつも大混雑している

何度か、ボランンティアで成り立っているという24時間対応しているチャットに書き込みをしたのだ。
答えは返ってこないままに、独り言を書き込み続けることになった。
書いては自分で否定した。誰にも答えようがないことを延々と書いていた。

2時間をそう過ごして、疲れた疲れた疲れた、と何度も書き込んで、更に2時間が経って。
ボランティアさんは忙しいんだなあ、本当に大変だなあ。
わたしの順番は来ないままに、愚痴を書き込ませてくれてありがとう。意味もなく愚痴を書くだけの利用をしてごめんなさい。
午前1時頃に書き込み始めて、6時前にお礼を言ってチャットルームを退出した。
わたしは何がしたかったのかな。
そう思ったりしつつ、朝だなって窓の外を見たりする。

わたしには、緊急性などないだろう。
AIの最初の質問に、死にたいとも孤独とも感じていないと答えたわたしに、緊急性なんてないよ。

最近、被害時のことが頭の中にずっと在り続けている。
性被害のこと、ジャニーズのことで不安定になったとき、性被害の相談をメールでできるらしいと書き殴って送りつけたら、ワンストップセンターに相談すれば支援がもらえるかも知らないから、と県内のものを紹介された。

そこにも絶望を感じたりもした。
わたしは、電話が大嫌いだ。
でも、電話をしたくないとか言っていたら、支援も受けられなくて当然なのが、どうやらわたしの県での当然であるようで。
どうにかこうにか、かけてみたって、そうそうつながりもしない。
どういうことか、わかりますか?
性被害について相談したいってひとが、ものすごくたくさんいて、無料の相談先の電話は常時パンク状態なんです。

チャットルームを退出したあとに、対応できなくてごめんなさい、なんて返答のメッセに気づいたりしてさ。

ああ、みどりはどうしたらいいのかなあ……。そんな風に思う。
わたしが、みどりと名付けられた部屋の中、その世界はやさしかったことを思ってしまうんだよ。

性被害のワンストップセンターは言った。
現在通っている病院があるなら、その主治医にしっかり話をすればいいのだと。
どこかの性被害者の相談のチャットで、画面の向こうのカウンセラーさんは言った。
本当に、治療を受けていらっしゃいますか? 専門的な治療を受けるべき事案だと感じます。

簡単に言ってのけてくれるもんだ。

お金は、それにいくらかかりますか?
金銭を出し惜しみして治りたいと言うのは、治りたい気持ちが少ないって思われますか?
まず、どこでなら、その治療を受けられますか?
少なくとも、わたしの通院できる範囲にはないのです。
それとも、都会まで、あるいは数時間の電車移動は続けられないとか、自家用車がないし、運転免許も持っていないのに、タクシーの利用も渋っているから、治療意欲が薄いって思いますか?
治療のしやすい環境に転居もしないでいることが、治療する気もない証明になるんでしょうか?

民事裁判でも起こして、加害者から金をぶんどって治療費やらなんやら出させればいいだろ。
他人の男性に言われたけど、それが可能な世界線はどこでしょう?
二十歳やそこらまでに、先の二十年分くらいの生活費+治療費の貯金をしていなかった、わたしが悪いのでしょうか?
そんな責められてもいない内容まで、勝手に発展させてしまいますが「被害者を盾にしている」って言われたらときに、わたしは望んでこの生活をしているんだって言いたいんだと思ってしまう。
それはつまり、上記のことも含まれているって思うんです。

トラウマは、すごくしぶとい。
そういう、被害者の看板みたいなのを責め立ててくるのは男性ばかり。
だから思ってしまうの。

お前も5日間くらい、ケツの穴に問答無用でぶち込まれて、泣き叫んでもやめてもらえずに、そいつのモノをしゃぶって、喉の奥を突かれて呼吸すらままならずに、出てきたものは飲み干して、自分のモノをしごかれて、不本意にイカされ続けろ。その異常さに晒されろ。
いい感じに、トラウマになるよ。いい感じに認知が歪んで、いい感じに病めると思う。

でもね、経験していないことは、実際に経験するまで、自分なら耐えられるとか信じていられることだから、それがどんなにも自分にダメージを与えることなのかすら、その瞬間まで理解できもしない。

だからこそ、自分ならこうするけどね!とか、上から目線で言って、ひとを見下していられるんだよ。
安全な場所にいるから、見下していられるんだよ。
でも、そんなお前でも、きっと、上に書かれたことをされただけで、いい感じに、メンタルをやられるって、思うよ。
それのあとで言ってくれたら、まさにリアルなのにね。

ジオラマの街のミニチュアのおうちには人形が住んでいる

外に出て、歩いたり自転車で走ったり、バスや電車に乗って周囲を眺めていると不思議に思う。

街の中、おうちをみても、すごく小さなミニチュアに見える。
そこに住んでいるひとのことも、人形か何かなんだろうなって、そんな風に見えるの。

でも、ミニチュアでもなんでもなくて、その家に招かれたりしたら、部屋の中はかなり広く感じるだろうし、生活のにおいが、そこかしこからしてくるんだろう。
住んでいるのは人間で、家族で、その家庭の物語がそこに息づいている。

けれども、街全体のすべてがジオラマの世界。おもちゃみたいに見える。
ひとが生きてきたその証であることは理解しているんだけれども。

それでも、それが現実になるのは。
玄関を開けて住んでいるひとを目の当たりにしたその瞬間。
圧倒的に見えて、聞こえて、そのリアルに触れるんだよ。

でも、そうするまでは、どんな事柄も、脳内で想像するだけのこと。
本物、本当、事実っていうより、どれもこれもが仮定でしかないんだよ。
知識って、たかが、そんなもん。想像なんてその程度。
データを見て、文献を読んで、知った気になってそれを語るひとを見ると、いつもそう感じる。

どうして、あなたの方が、わたしのことすらわたしより知っているって、そんな話し方をするんだろう?

ミクロの話、ミクロレベルの実例なんてもので決めつるとか、その目線からの意見で議論されても困る。
それを全体の話をする場に持ち込むな。
客観的なデータとか、世間一般のこと、常識的なことで判断すべきだ。
個の話なんて無駄。
全体を俯瞰して見て話すことも出来ない、お前は馬鹿だ。

そんなようなことで揉めたりしたり。

でも、わたしは、見たものと聞いたものがすべてなんて言っていない。
ただ、わたしが知っていると、胸を張って言えることがそのことってだけ。

客観的事実と、信用しても良いのかを疑いもしないあなたのそのデータの、なにを理解して、あなたはそう話せるのかと、わたしには本当にわからない。

見てもいない、聞いてもいない、その場の空気に触れてもいない、知識と想像は、わたしにとっては仮定の話と変わらない。
だって、明らかに、あなたにとっての現実ではないから。
あなたの中では想像でしかないじゃない。

そんな風に、そういうヒトと話していると、現実の話をしたいのに、フィクションで返されたように感じる。

だって、あなたにあるその知識を、あなたは微塵も疑っていないんだもの。
そのデータは誰がどうやって、どんな意図で集めたものか?
その文献はどのような経緯から書かれたものか?
書いた人間の知識や経験に、詐称や偽りや、この文献を読んだ者を意図的にその考えに誘導し、洗脳しようとはしていないか?

たとえば、それらを学問の既に証明されたものにまで広げたら、生きて行くことは不可能になるし、ある程度の寛容さは必要だと思う。

でも、現在のことを話すのなら、自分の言葉で語ろうよ。
現在に生きる自分たちの言葉で語ろうよ。
過去の知らない誰かの言葉や、そのひとの経験だったり、そのひとの研究結果は、参考程度にして、自分のリアルで話をするべきだって思う。

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