見出し画像

日本社会で作り上げた罪と罰

真偽を確かめることは悪だったのか?

「責任」と「無責任」と「知らなかった」の言い訳と

わたしが、ジャニーズに性加害の噂があると知ったのは、確か、二十歳の頃だったと思う。
つまりは、というか、わたし個人の問題として、性的な自傷行為に明け暮れていた頃のことだった。
だからという、言い訳ではないのだけれども、「みんなそうやって生きて行くもんなのかな?」ってそう思った。
芸能界と言うことろには、性の搾取が付きまとっているものだった。それが出来ないなら、やっていくこともできなかろう。それを受け入れることが、その世界ってもの。
芸能というその歴史からなのか。当然のようにそう感じた。

性被害者の当事者として、性暴力を軽視する風潮は、世界に広がっていたように思う。
日本にはそれがとくに色濃くあった。
一般人もそれを当然と思っていたのは、遠い昔からの風習だろうか?

たとえば、真偽を確かめようというひとは、いなかったのか?
噂は聞いたことがある。
でも、その噂は、未成年への性加害だ。本当だったなら一大事である、重大な犯罪、虐待、そんな内容の噂でも、噂であるなら噂でしかないのか?
真偽を、確かめられる場所にいても、誰も確かめないでいたことは、罪ではないのか?

大人がすべきこと、子供たちの健やかな成長を守ること、それをしなかったのは、本当に正しかったのか?

日本社会が作り上げた犯罪だって思う。

日本の「人権」は夢物語

日本は、他人の、目上のひとの不利益、自分の不利益になることの、真偽を確かめなければ、「知りませんでした」で通る。
どんなこともそうだ。
エライヒトたちもよく使う常套句だ。
「わたしは知りませんでした」それで済むのだ。
じゃあ、誰なら知っていた?
噂は多くのひとが聞いたことがあった。近くにいらひとなら、本人たちに関り何らかの異変を感じたり、したこともあっただろう。
でも、本人が言ってこないから、聞くことがなかった。

家庭での虐待と同じだ。
周囲の人は言うだろう。
「少し変だなと思ったことはある。でも本人が言わないから、聞けなかった」
どうして、被害者が助けを求めることが、救われることの前提にあるのだろうか?
だから、いつだって、大きな事件となって、ときに被害者がいのちを失って、殺されてしまったり、自ら絶ってしまったり、それで発覚する。

学校でのいじめだって同じ。
気づかなかった。本人が何も言わなかった。

だから
「知らなかった」
ということで、わたしに罪はないのでございます。と言い逃れをするのだ。

知らなかった?
本当に知らなかったのか?

噂を聞いたことがあるなら「真偽を確かめる」ことができたのだ。

「知らないでいたかった」だけではないのか?

みんな、自分以外のことでの面倒なんて背負いたくもない。
だから、噂の真偽なんて確かめるのは損だ。
何かによって発覚するまでは「噂」でいてもらいたい。
「知りませんでした」と言い逃れをするために。

日本社会は、みんなが上手に「知りませんでした」を使う。
知らないことは罪ではないから。
でも「無知の罪」というものだってある。
全くの気配すら本当に「知らなかった」ことと、噂は聞いていたけれども真偽を確かめていないので「知らなかった」というのは、全然違うと思う。

確かめようとしたひと、追求しようとしたひと、告発したひと。
みんなみんな、どこにいってしまったっけ?
そんなひとって、いなかったっけ?
犯罪者として捕まっちゃったひとになっていたりもするけれど、もう亡くなっちゃったひともいて、そういうひとが確かに、いたよね?

人権意識が低い国、この日本では、性暴力はとりわけ、軽視されてきた。
子供の言うことは、取るに足りないこととして。
大人の意見が、大人の利益が重要で、社会の不利益になることは、みんなで知らないふりをしていよう!

人情も何もいまの社会にはない。
他人のことに口を挟まない。
自分に責任の取れないことには関わらない。

だから、自分の手に負えないことは「知らなかった」ことにしておくのだ。

「無責任」という言葉がある。
でも、他人とはいえ、苦しい事態にあることに、薄々気づいているような、そんなときに、「無責任」と言われないために「責任」の取れない事柄に関わらないことは、ある種の「無責任」だと思う。

助けることができないから、助けない。
助けようと頑張ってみたけれど、助けられなかった。

知ることをしないで「知らない」を通した。
真偽を確かめようとしたけれど、確かめることができなくて、事実は不明のままになってしまった。

どっちがより無責任だろうか?

助けようとして、助けたけど、面倒は見切れなかった。
真偽を確かめて、事実だと分かったけれど、どうしようもなかった。

どれが最も無責任だろうか?

わたしは傍観者というものが一番残酷に思う。
関係ないからなんとでも言える。
被害者のことも加害者のことも、責める事ができて、擁護することも出来る。
傍観者は、何にもしらないままで、それをする。
加害者が言い訳をすることを責めることも擁護することも出来る。
被害者の矛盾を指摘したり、被害者の落ち度について語ったり、被害者を助けるべきだと主張したり。
でも、傍観者は、関係ないひとでしかないのに、まるで当事者であるかのような物言いをしたりする。

加害者と被害者は間違いなく、自分について語り、相手について何か言うことができるだろう。
傍観者の身勝手を、わたしは性被害の当事者となって強く強く感じた。
何も知らないひとたちが、想像で語ることがらに、いちいち怒り悲しみ虚しさを、ときに強い憎しみを感じた。

誰が一番悪いのかは、もちろん加害者が悪い。

でも、見ない振りをしてきたことも、噂は知っていても、真偽を確かめもしなかったことだって、被害者にとっては似たようなものだ。
加害者とはまた違う、敵なのだ。

虐待も、いじめも、いじめなら子供の社会でも大人の社会でも、そういうものを、みんなで作ってしまったって、そんなことは自分に関係ないのだと責任逃れをすることは、とてもラクだろう。
けれど、それでは、この社会は何も変わらない。

人権というものを、尊重しているなんて口ばっかりの、見せかけでしかない、張りぼての、平和もどきがこの国にある。

「無責任」を問う権利

自分とは関係ないことだし、手に負えないことだし、下手に手を出して「無責任」と言われないために関わらないでいても、結局それが発覚したのなら、それについて何か言って「責任」の所在を問う。それは、誰の正義なのだろうか? 正義なんかがどこにあるというだろうか?

この社会は、平和なのか?
表立った争いは少ないかもしれない。
食べるものも、仕事も、まあまあに行き渡って。
でも貧困は、一般からは想像もできないほどに深刻で、社会の端っこで見ない振りをされている。
虐待される子供たちは、犠牲になり続けている。
弱者の生きる道なんて、社会にとって邪魔な存在だっていわれている。

日本に「人権」なんて、あるだろうか?
夢物語でしかないのは、途上国と変わらない。
どころか、先進国のふりをして、虚勢を張ってばかりで、意志のない国に、心のない国に、思考のしない国であることは、先進国と名乗るに相応しいところなんてないだろうに。

自分の頭で考える。
自分で決める。
自分のことのように、他人のとこと考える。
想像で語らない。憶測で語らない。決めつけない。
他人の意思を、意見を、考えを、聞く。尊重する。
その是非は自分で考えて決める。
他人と同じである自分に安心していては、本当の安心も自信も持てやしない。
それは物事を知ることをしなければ、できない。
知りもしないで語ることは、想像での決めつけで、憶測でしかない。

知ることもせずに、憶測で語る「無責任」を正義であるかのように振りかざすヒトが嫌いだ。
せめて「無責任」を自覚してほしい。正義のない、根拠のない、それを事実であるかのように振りかざして、最低だ。

「責任」が取れないからと見なかったことの「責任」は、加害者だけにあるのかを、よく考えるべきだ。

わたしは、逃げたくない。
考えることから逃げたくない。
責任は取れないかもしれない。
けど「責任」を取りたくないからと関わらずにいて、あとで誰かの「無責任」を問い質すような人間には、この先、そういう人間として生きていくことは、したくない。
「知りませんでした」という言い訳が、大嫌い。
知ろうとしたことがあったのか?
それすらしなかったひとに「無責任」を問う資格があると思えないよ。

せっかく生きているのがらか、諦めるだけの人生で終わりたくない。
生きることは、考えることだ。
責任の所在なんか、生きているなら、全員にある。
誰も彼もが無責任だ。
自分は関係ないと考えることが、無責任だと思う。
生きることの、狭い自分の世界だけの責任はその本人にあることだろうけれど、社会の一員なのだから、その社会にあることは、関係ないことなんかひとつもない。

どうぞ、関係ないと言い放つあなた、無責任に生きて、無責任な正義を振りかざし、他人を責めるだけで生きてください。
その虚しい心地よさしか知らない、無知である自覚もしないで、責任も無い、他人を責めるだけの暮らしは、きっと心地よいことでしょう。

滅びゆく世界をも、誰かを責めて迎えることは、きっときっと心地よいでしょう。

どうか、間違えてはいけない。
ジャニーズの性加害問題は、性暴力や芸能界のことだけを問うているわけではない。芸能界が特殊なわけではない。
この日本の、あまりに低い人権意識を、
あまりにも人権という概念と程遠いこの社会を、
問うているのだから。
考えて。あなたにその責任はないの?
なら誰に、あなたはその責任を問うの?
人権は、みんながしっかり意識して、はじめて存在するものなんだよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?