「絶歌 / 著・少年A」を読んでみた感想
かなーり前に話題だったけど、ハココは、今日、今さっき、読んだんだな。
なんて言うか、まあ、本ってさあ、紙とインクとのりと使うじゃん?
その成分は愛おしいものよね。だって、それらが本ってものを構成しているのだもの。内容は何であれ、彼らに罪はないわ。
彼は、少年Aであることすら利用して、生きることにした
のだろう。わたしはそう感じた。
人間という生き物が、どれほど勝手であるのか。それを思い知った。そして、わたしもきっと、彼っと似たようなものであろうこと、尚且つ彼とわたしは明らかに違うということを知った。
要するに、彼は、社会に馴染めず、生きていくことが大変だから、本を出版したのだろう。
仕事をすることも、社会に溶け込むことも、過去や自分を受け入れることも、環境や境遇をいなすことも、不満や苦痛との共存も、贖罪も、自分を受け入れない社会も、何もかもが辛くて嫌で仕方ないのだろう。
辛いというより、こんなにも頑張っているのに報われないの、ちゃんと矯正プログラムも終えた自分なのに、受け入れてくれない社会が納得いかないといった感じなのではないかと感じた。
でも、生きていたいから、生活しなければならないから、すべてをかなぐり捨てて、それでも捨てることすら叶わないもの。「少年A」であったこと。
「少年A」という自分にある、たったひとつの変えようのない事実すら利用して、生きようとしたのだろう。
むしろ、隠しようのない自分を隠すことはやめて、自由を求めたのだ。誰になんと言われようが、これが自分で、儲かりそうだし、今度は上手に使おう。こんなに有名なブランドの持ち主は、自分なのだから。
失うものはない。彼はそう書いた。しかし、何もかも失ったようにも思っている彼が、唯一どう頑張っても失うことができないものであり、何もかも失くしたとしても自分に残る自分を表す言葉。
かつて社会を震撼させた自分「少年A」という過去にすがりついたのだ。
すがりついた? いや、ずっとそこに在り続けていたから、解放しただけか。
彼が本を出版することには、賛否両論の意見が、ほぼほぼ否定の意見ばかりがあった。しかし、彼にとってはどうでもいいことなのかもしれない。自分自身が生き残ることに最も焦点を置いた行為なのだから。縛られず、自由に生きて行くことに。
自分自身が生きるために「少年A」として出版した。本名では駄目なのだ。卑怯だなんだと言われようと、それでは意味がない。
なぜなら、現実を生きる自分の妨げになっては困るから。自分の生活のために「少年Aというブランド」を使っただけであって、現在の自分の生活には少年Aは入り込んできてはいけないものだから。
せっかくのこの自分の生活、人生。大切な大切な自分を邪魔する「少年A」は、自分の生活の一部ではいけないのだ。
うっかりすると、なかなかのいい商売にもなるかも知れない。自分の持つ「少年A」というブランドに可能性を見出し、そこで自由にふるまえば、楽しいし金も入る、最高じゃん!って感じ。
贖罪の気持ちやら、更生したとかしないとか、そんなものすらどうでもよかったのだろう。
わたしはこの通り更生しましたから、本当に反省していますから、後悔していますから、この世界に存在させてください。そんな許しを乞うためのものではないのだ。
少年Aというブランドを使った、明らかなる商売。それが「絶歌」なのだろう。
第一章は、世にいう「中二病」としか思えない稚拙な表現が目につき、それらが詩的だという感想もネットにはあったが、わたしはどうにもその表現がいちいち癪に障った。
しかしながら、ここまで恥ずかしい表現で自らの幼さを丸出しに過去を書いていることには、なんと言うか、すごいと思った。そこを彼が狙っていたのなら、彼はなかなか文章が書けるのかもしれないし、そうではなくて、いまもその表現を好んでいるような、この生き方がカッコイイものだと信じているなら、なんてことない現在進行中に中二病のガキでしかない。
自己顕示欲にまみれた、恥ずかしい時期をいつまでも、延々と。黒歴史が過去の黒い歴史として人に語るのもはばかれるものになることがない、思春期の中で生き続けているだけの、幼稚な人間。
ただ、あの本で、多くの人が語るように「更生したとは思えない」のは、仕方ないだろう。彼は更生をアピールしたかったのではないのだろうから。
「自分は確かに罪を犯した。でも、生きていたい。自分は社会の中でうまく生きられていなくて、生活するのも大変で、不器用だ。でも、本当に勝手だけれども、生きていたいし、生活をしなきゃいけない。住む場所も、安らぎも、幸福も、欲しい。なにより自由がほしいんだ。わがままだと言われても、欲しくてたまらない」
「手記を出版するのは、手っ取り早く稼げる、自分にしかできないこと。少年Aになり、少年Aのしたこと、経験、考えたこと、それらは自分しか語る事ができない。何もかも失くしても、自分は少年Aだ。それをいい感じに利用してでも、自分は生きていたいのだ。たとえ、誰に認められることはなくとも、誰に貶されても。僕だって、したくない苦労はしたくない。ラクして生きられるならそうしたい。なにより、少年Aであった自分の自由。あの頃のように生きたい。だから、少年Aとして本を出した」
「犯罪者は償いのために生きていくことしか許されないなんて、嫌だ。息苦しい。こんなに苦しんだし、こんなに辛いのに、辛いと言っちゃいけないなんて、どうなのだ? 僕だって、人間なのに、人権が欲しい。自由が欲しい」
「ラクしてて生きようなんて、あんなことをしておいて何を言い出すのだ! きっと、社会はそう言うだろう。それでもか構わない。なにがなんでも、僕は生きていたいのだ。自分が生き残ることが大切なのだ。誰にになにを言われようと、そんな自分は変えられないし、それでもいいから生きていたい。それでいて、僕として、自由を満喫していたい」
わたしは、この本からこれらを感じた。
それは、覚悟に似ている気がした。人間というものは本当にどこまで勝手なものなのだろう。そう思った。
もう、責任だとか、そんなものもどうでもいいから、とにかく、なんでもいいから、生活するために使ってやる。自由に生きてやる。
彼は、そんなすがすがしいまでの、自分勝手を披露したもだと思う。
死刑囚や、犯罪を起こした人間の非情な笑顔を、絶望の果ての顔だと言うかのような、未来への希望に「死」しか見えなくなって、死刑を望む彼らに同情すら感じる彼。犯罪者が罪を犯したことに同情する彼。
彼にしてみれば、犯罪者だって人間であり、確実に辛いことがあるのに、それを言うことを許さない社会が憎いのかもしれない。罪を犯した人間は償いに生きなければならない、という社会が憎いのかもしれない。
その彼の態度はまるで「たかが罪を犯しただけで」とでもいうような、そのせいで苦しいと訴えてはいけなくなった自分たちを憐れむようで。
彼の強い「生」へのこだわりも、それゆえの出版も、とかく社会にしてみれば勝手極まりないことだろう。
作中、「社会が思う自分」と「心理学が導いた自分」への反論がある。はっきり言って、わたしにはどうでもいいことだった。少年A自身が思う本来の自分と、他人の思う彼への印象は違って当たり前で、そこへ反論してみせて、精神鑑定にも反抗してみせたカッコイイ俺だとか、自分が作った映画のような事件の全貌、ここにこんな描写があったら盛り上がるだろうと、少年Aの映画を作っていった過去の自分を、まるで不幸な自分の半生として書き上げた彼の、あまりにも勝手な文章は、シンプルにすれば「自由に生きたい」という欲に忠実なものだった。
これらがすべて、フィクションだったら、なかなか良い小説だったと思えたかもしれない。「人間の愚かなまでの生への執着とサディズムや自己愛」がテーマのフィクションだったのなら。
彼の人生は、いまも丸ごとフィクションだ。少年Aという映画の続きを、現在の彼が脚本兼監督権主演で続けている。そうしていなければ生きていられない。でも、それでもいいから生きていたいのだ。
自分を正当化してみたりなんだり、こんなに頑張ってる、こんなにマトモな精神をしているんだ、こんなにいろんなことを知っているんだと、読んだ本の一部を引用したりする。
僕も皆さんと同じ人間ですよ、と。
そして、他のみんなと同じように「僕だってラクをして生きていたいんだ」と。彼は少年Aになってしまった自分の運命を憎み、自分自身のことは甘やかすことにしたのだ。
罪を憎んで人を憎まず、ということか。
彼にとっての最終兵器、自らの罪「少年A」を使ってでも生きることをする。憎むべき罪を売り物にし、憎むべきことではない自分自身を守っている。
彼が手に出来る現在最もイージーなモードが少年Aのブランドの再立ち上げ、だった。
欲望に忠実な彼は、生きるために、生活のために「罪」を売り物にしたのだ。「少年A」というブランドで、生き残ろうとしたのだ。そして、自由を手に入れようとした。
それが成功したのかどうかは、わからない。
そして、本当の彼が当時どう思っていたのか、現在なにを考えているのかはさっぱりわからない。
けれど、こんなに勝手な人間でも、生きているのだし、生きていたいと願ってしまうし、そう口にしている。その図々しさを前面に押し出している彼は、不自由だという自分の境遇でも、あまりに自由である。
こんなにも、自由で勝手な人間は、フィクションでしかわたしは見たことがない。
というのが、ハココの感想であります。
印税が彼に入っちゃうのは嫌だなあ、と人並みに考えましたハココは、図書館で借りたのだけれど、読み始めてすぐ、中二病表現にイライラすることになりました。
これが彼の正体だったら救いようがないし、最後までこうならもう、マジでどうしようもないなって思いながら、結局読んだ。最後までイライラしながら、読め! 読むんだ、ハココ! と自分を励ましながら。
読むと決めたのは最近で、それまでは読みたいと思うことすらなかった。
彼が罪で稼ぐのはどうも嫌であった。しかし最近、凶悪な事件について調べてみたりしている中では避けられないものになって、読んでみようと思い至った。
何より、紙とインクとのり。わたしが愛してやまない、本を構成する成分もためにも、印刷されてしまった本の、その子たちに罪はないじゃないか! と、その子たちのために読むのだ! と紙の本であったからして、読むこととができたとかなんてかなりどうでもいいね。
自分勝手なことを書き連ねた、この彼は、誰よりも自由にものを言っただろう。たくさんの制限の中で出版して、本当に書きたいことが書けたかどうかもわからない。そもそも、出版ということそのものが許されないことかも知らないのに、それをさせてもらえたことは、彼が不自由の中で自由である証拠だ。
少年Aになり、少年Aを憎み、少年Aとの決別を図り、少年Aであることにすがった。少年Aに自由を見た。
彼は、どうしていても、きっと、少年Aであることから逃げられない。
少年Aとして本を出版し、少年Aを利用した。本名での出版ではなかったこと、つまり彼はいつまでも少年Aのままいることしかできなかったのだろう。
過去との対峙、過去との決別、過去の自分を受け入れるため、だとかなんとか書かれていたけれど、この本を出版することによって、彼は一生少年Aでいるしかなくなった。
意図したのかどうかはわからない。少年Aの続きを生きる覚悟ができたということかもしれない。
しかし、出版までの医療少年院での矯正や社会での経験は、彼に少年Aを自分のブランドとして扱うという、姑息な人間させただけだった。
暴挙ともいえるそれは、開設したブログも、社会によって結局排除された。それでも、書籍はいまだ絶版にはなっていない。
絶えた歌が歌われ続けている、とはなんということだろう。
ちなみに、人を殺してはいけない理由を探したい。みたいなことが書かれていたけれど、そんなもの、とても簡単だ。
人を殺してはいけない理由はない。ただ、人を殺したら、人間社会では裁きを受けることになる。虫を普通の人が殺すことを非道としないのは、法律で禁止されていないから。人間社会においてそれは許されている行為だから。殺人は許されていない。それだけだ。
これ以外になにがあるだろう。戦争なら英雄行為、肯定されるのだから。
人を殺してはいけない理由を問う者に、のちに自分が苦しむから。と彼は言った。
しかし、自分が望んで犯した罪で、のちに自分が苦しむのは自業自得。そんなことを説いてやめるようなら、誰も罪は犯さない。
それも、罪を売り物にする人物に説かれたって、説得力なんかない。君たちもこうすれば、その後の人生でいい感じに稼げるよ、とも説いたも同然なのだから。
こんなふうに言われても、出版しようと決めた少年Aは、たくさんの社会の反応に、ほくそ笑んでいるのか、結局排除され理解されない自分を不憫に思うのか。それとも、もうどうでもいいのか。もしかしたら、詩的な文章、と言われたことに小さく満足したかもしれない。見たか、俺様の素敵な表現! とか。
まあ、どうでもいいか。ってくらいだよ、少年Aの文学性はさ!
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