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性被害の先で知った幸福なセックス

※注意・タイトルの部分は、最後に少しあるだけです。

男女で性的なことに関しての視点の違いによる、すれ違いについて


性的なことを語るとき、どうしても男性と話が合わない。

性を売ることについてもそうだし、AVについてのそう。性産業、性風俗についても、どうも意見が交差する瞬間すらない。

射精についての責任について語るにしても、避妊について語るにしても、性的なことを話すときにどうも違和感が残る。

その正体にようやく気がついた。
それは、男性と女性という違いに他ならなかった。

セックスにおいて男性のすることは、射精をすることだ。
女性は、そのための穴になるだけだ。

射精のとき、男性は快楽を手にする。そのとき女性が得るものは「ああ、イッてくれた」という安堵。もしくは、ふたりで手に入れた成果として、男性の射精の瞬間を迎える。

セックスに負う負担は、男性は、性感染症と、あとは相手の女性が妊娠する可能性。
女性が負っているのは、性感染症以外に、リアルに「妊娠したら自分はどうなるだろうか」という不安だ。

妊娠をすることが前提にある性交渉なら、そんな不安はない。

けれど、婚前の交渉であれば、女性はいつだってその不安が付きまとう。
では、しなければいいのでは?
そう簡単に言ってのけるのは、大抵男性だ。
女性の多くは、求められてすることに応じている(女性から望むことももちろんあるけれど)。

男性にとって、避妊に対する意識はそれほど高く見えない。
それこそ「絶対に妊娠しないように」をいう取り決めをお互いにしていない限り。

避妊に失敗した、または避妊をすっ飛ばした経験のある男性はどの程度いるだろう?
恋人に「避妊して」と言われても、しなかった経験のある男性。
「ごめん。我慢できない」などと、なあなあにしたことのある男性。

女性は「避妊しなくていい」と自ら口にするとき、大抵、妊娠しても自分で片をつける覚悟でいる(少なくともわたしはそうだった)。

避妊を徹底できなかったことを責めるのは、大抵、男性だ。
アフターピルを飲めばいいだけ。妊娠しても中絶すればいいだけ。
自身の身体にすることでもないのに、軽く語ってくれるなあと。

そして、それをしなかった(できなかった)ことで困難に陥った女性を嘲る。

そのとき、その女性に対する責任を負わなかった男性の存在は、どこかに消えてしまう。

無責任に射精した男より、股を開いた女を責めて、社会福祉が関わることにすら拒否反応を示す。

妊娠したのは女性の身体であって、負担を背負うのは女性のみ。
中絶するとして男性は負うのは金銭的負担しかないのに、男性は世界の終わりであるかのような「失敗」と語る。

(妊娠・出産・育児に対しても、男性は親としてではなく、子供というモノを手に入れたと言う反応で、ひとを「いのち」を育てているという自覚に足りないパパの行動は、世の中にあふれている。が、これをいまは語らない)

性産業についての考えをまとめる中で、ようやく気付いたのが、男性にとって背負っているリスクの少なさが、性行為に対する気軽さに繋がるのだろうということ。
その感覚で、女性に性的なことを語るから、女性にとって違和感があるのだろう。

性産業についても、男性が持っているのは、大抵、「買う側」の視点のみ。女性は「売る側」の視点として話す。
最初から買う側として話し出す女性はたぶんいない(いても少数)。

性被害を語るとき、女性は「被害者」の視点で語る。
男性の多くは「加害者」の視点で語る。

セックスをするとき、女性は圧倒的に弱者になる。
そして男性が圧倒的強者になる。
それが密室で行われることであること。
男性には体格と腕力の優位性があること。
その行為で負うリスクは圧倒的に女性の方が多いこと。
行為の最中にどちらが受けで攻めであったかなんてことは関係ない。
女性は射精を受け入れる側にしかならない。
男性は射精を女性に受け入れさせる側にしかならない。

「避妊してほしい」女性が頼んだとして「断られた」女性が「それならしない」と言って行為をやめてくれる男性はどれだけいるのか?
いままさに挿入しようと言う瞬間に「避妊しないならしない」を受け入れる男性が、そんなにいるようには思えない。

これは、わたしが性被害者であり、性行為では男性にいいように扱われるしかないと認識しているからかもしれない。

性行為の中で、女性はあまりに立場が弱いことを身をもって知っている。
男性が「絶対にしたい」なら、女性は死に物狂いで抵抗したことろで、それを阻止できないのだ。

性犯罪、性暴力に関する何かを見たときも男女で視点が違う。
少し前にTwitter(現X)で、アニメのレイプシーンが話題になったが、女性にとってあれを見るとき、被害者の心情に寄っていく。
しかし、男性は、加害者の視点、もしくは、えろコンテンツとして消費する視線で見ることになる。
心情が被害者よりの女性にとって、未遂であることは論点ではない。
が、男性の表現の自由戦士は、未遂なのに!とそこに拘った。

AVに関してもそうだ。
たとえ、快感を想像するにしても、男性と女性で、全く違う受け方をする。
入れられる方に寄っていくか、入れる方に寄っていくか。
犯罪系、凌辱系を見るとしても、女性は犯される側の心情に、男性は犯す側の心情でそれを見ることになる。

ガチレイプ系をどう思うか?
わたしはこの質問を心理士の男性にした。
その前の段階で、わたしは自身のレイプ動画を隠し撮りされ、ネットで流すと脅されていたこと、それを十年以上ネットで探し続けていることを話していた。
しかし、その心理士の答えは「自分は見たいとは思わない。虚構と現実の区別がつかない人にはよくない影響を与えると思う」だったことに、わたしは愕然とした。そして幻滅もした。
彼はわたしの話を聞いていただろうか?
リアルに犯罪のシチュエーションを「えろコンテンツ」にすることを肯定的に捉えていることはもちろんだが。
本当のガチものがあったとしたらそこには被害者がいるということは見えないのか?
本物のガチでない演技であったとしても、自分に行われたことを男性が性的に消費することを肯定する発言は、レイプという性被害者の心理療法に当たっているのに適当なのか?
そんなにも気が回らないこともあるのが、男性なのだろうか。

こんな風に、男女で性的なことを語るとき、視点がいつも真逆にある。
だから話がかみ合わない。

性産業に対して話すとき、買う側の視点でしかものを言えない男性が、まるですべてを変われるかのように話すこと、性産業に従事する側のことすら語ることに大きな違和感がある。
売る側を、買う側でしかない男性が、なぜ語れるのだろうか?
男性にからだを売って来てから語ってくれないか?
そう言ったところで、現実味を帯びた「からだを売る」話を一般男性から聞くことはできない。
売ってこいに、女とやれるの?と思うような男性では。
何を言ってるんだ。男性に性的に消費されてこいと言ってるんだ。
自らの穴と棒を使って、客の男性を抜いて差し上げてこい、と。

たとえば、奴隷を買いますか?と聞かれた男性が、文化なら買う。とわたしのアカウントで当然のように答えた。
彼には、奴隷を買う視点があった。
しかし、自分が奴隷として売られる視点はそのときにはなかった。
奴隷であるなら売られても文句は言わない。もしかしたら、その彼はそういうかもしれない。
でも、そう言えるのは、奴隷として売られたことがないからだ。
本当に急にお前はいまから奴隷だ、と言われても簡単にそう言えるのだろうか。

こんな風に、男女であまりに違うことに、どうやって話をすり合わせればいいのか、対話の方向性すら見えない。

トランス女性が陰茎を失くしても女性と見ることに抵抗がある、一緒に風呂に入るのは嫌だ、という女性の発言に男性が驚いている場面を見た。
これぞまさに男女の思考の違いだ。

視点が違うから、気持ちすら想像できずに、大したことがないと言ってのけるのが、男性の性的な会話の軸にある。
男性が「女は大袈裟だ」と発言するのを、女性はいつも憤りと共に聞いてきた。
男性には想像できないのだ。
違う世界を見て生きてきたから、女性が「どうして性暴力を怖れるのか」すら、男性にとっては理解できない。

こんな風に、いちいち、男性に突っかかっていたら、きっと疲れる。
いちいち、男性と女性の見る世界の違いを、男性に説明しては「大袈裟」と女性は言われてきた。

それでも、女性はそれを説明しなければ「自身の置かれている状況」を理解しない男性と「対等」に「ひと」として向かい合おうとしてきた。「ひと」としての「対等」を得るために。

それでも男性は「女性を性的に消費する」ことに関して、女性への加害性を認めはしないし、性産業の中での関係はWIN-WINと主張する。

男性の根底にはどうしてか「女は馬鹿」「女は大袈裟」という意識があり、常に女性の立場や心理を理解することの邪魔をする。

理解しないことは「男性にとって優位性を保つこと」に繋がるからではないか?
女性を対等とすることは、不都合なことなのではないか?
そんなことさえ考えてしまう。

たとえば、女性が背負っている困難を理解しないでいることが、男性にとっては「楽」であるなら。
女性は「楽」だとすることが、男性にとって「都合がいい」のであれば。
本当は「女性も大変である」「女性であるだけで大変なことがある」ということは、男性にとって都合が悪いのではないか?

と、男性と女性の非対称性について散々述べたのだけれども、それでもわたしは、男性を心底憎むようなことにはなっていない。
それは偏に、男性も「ひと」であると知っているからに過ぎない。

たとえば、傷ついた時に慰めをくれた男友達の言葉だったり。
一緒に過ごした時間の積み重ねだったり。



最後に、タイトルにある幸福なセックスについて。

わたしには、この人が最後になるだろう、この人で最後だとした元恋人がいたのだ。
今年のはじめに別れてしまった。

三十の半ばを過ぎてお付き合いをした、同い年の男性だった。
このお付き合いで、わたしははじめて、恋をしたのだと思う。

わたしにとって、初体験だと思っているその行為から、性行為、セックスは自傷行為でしかなかった。
初めての相手を、全く知らない他人にして、自傷行為としてわたしは「した」のだ。
どうして、性行為=自傷という図式が最初からあったのかは、現在も謎のまま(ここに解離性障害になった理由があるのかもしれないとも思っている)。

そんなわたしが、はじめてセックスをすることの幸福を感じたのが、その元恋人である。

わたしにとって、ずっと行為そのものが憎たらしいもので、快楽も全て自分を傷つけるためのものでしかなかった。

けれど、その人と行為をすることは、わたしにとってほっとすると感じたのだ。
肌を触れ合わせること、ぬくもりを直に感じること、そういう幸福を覚えたのだ。

女性の多くは、セックスにそんな幸福を求めているのではないか?
性的な快感ではなく、安心がほしい。
深いつながりで得られる安心。

こっぱずかしいので、あまり語れない。

けれども、女性と男性の性的な価値観は、ここにも表れるのではないか?


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