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なにかのせいにしてみたくなるだけで、ウジウジしてるのはやっぱり自分なんだ。

古今東西、仕事というものは大きなプロジェクトだろうが慎ましい作業であろうが、何をどうしたってストレスというものが発生する。なぜなら仕事を完遂させるためには否応無しに、ルールというものとの摩擦で燃え尽きてしまわぬよう、抑え込まなければならない「自分」なるものがあるからである。

そんでもってそれは、溜め込みすぎると胸と腹の間くらいで腐りはじめ、しまいにはガスでいっぱいになって爆発してしまう。これが俗に言う、キレル、であるが、そのギリギリ一歩手前でガス抜きにしけこむこともまた仕事のうちである、ということにして全力でサボることを肯定しながら生きていきたい。

とはいっても小洒落たカフェへと抜け出して、結局なんなのかようわからんカタカナの飲み物のうえにのってる生クリーム的なものを澄ました顔してむさぼりながら、日差しに透けた葉っぱの緑の感じに見惚れてみたり、ルンルン気分で散歩してる犬をみて「なんて種類なのかしら」とかやってるような時間的余裕が神から与えられた特権階級ではないために、未だにタバコを吸う以外の方法は見つけられないままでいる。

タバコというものはニコチンがどうとか、さもそれっぽい理由はあるけれど、ようはあれは時間を吸っているのである。だいたいタバコを吸っている人の顔はみんなしてしかめっ面ではあるが、あれは犯された頭の中をいったん空っぽにすることで傷ついた心をカウンセリングして、そこからまた新しい一歩を踏み出そうではないか、なんていう苦悶と快楽との間の表情なのである。

この日は雨で、裏口からしっぽりと抜け出した軒先で、雨宿りしながら吐き出した煙を眺めていると、まるで身体を酷使してようやく辿り着いた山頂から雲を見下ろしているかのように、なんともいえず恍惚として、われを忘れてしまう。

煙が軽い雨に打たれていつもより早く消えていってるような気がした。もしかしたら風がいつもより強く吹いていただけなのかもしれない。こんなどうでもいいようなことを感じる余裕さえない状態では、生きるために仕事をしてるけど、で、結局のところ生きるってなんなんだ?みたいな無限ループに囚われて抜け出せなくなってしまう。

また、タバコの所作と五分という時間の区切りもまた絶妙で、やることのない状態というのは、そりゃぁもう、たいそう長く感じるもので、ただやみくもにボォーっと突っ立ってるだけではこれまた「わたしは何のために生きているのだろう」などと出口のない自問自答をはじめてしまい、その宗教をまるごと背負うような重圧に常人が耐えられるはずもなく、気がつけばちょっとサボるつもりが「あいつ、廃人になって飛んだらしいぜ」みたいな噂がたつような事態にもなりかねない。

それでいよいよ仕事に戻ろうとするのだけれど、それがどうにも気が乗らない。どうしてなのかと考えてみたところ、この五分の間にすでに気分は「解放された」と勘違いをしているようで、まだ終わっていないという事実をどうしても心が受け入れられないようである。チャイムが鳴ったのに終わらない授業の内容がさっぱり頭にはいってこないのと同じように、人というものは、終わったはずのものが続く、ということには耐えられないようにできている、のだと思う。

ということはつまり、逆に考えればいいのである。小汚い机も、ケツが痛い椅子も、誰かが散らかした書類も、なぜかコップが2つある隣の席も、使いづらいフォーマットも、上司のご機嫌をとることも、いつもの愛想笑いも、本来、意味なんてないものにいちいち意味を求めるから、わざわざ複雑にしたものをシンプルに組み立てようとするから発狂するのであって、煙が雨に打たれるがままだとしても素敵なように、ただ風に巻かれているだけなのだとしても素敵なように、ただ流れに身を委ねて、ただ人生は続いている、ということにすればたぶん、なんとか、やっていけそうな気がしないでもない。



こわいけど、新しいことに踏み出すのって、いいよね。