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一番やりたいことを選ぶ力を身につける
中学3年生の娘が、進学先の高校を決めた。住んでいる地域の特徴で、私立高校を志望する場合、高校が指定する内申点を満たしていれば願書を出した時点で合格は保証されている。
娘は進路説明会で「合格保証」の事情を知り、迷いなく志望高を決めた。
「これまで合格しなかったときのことを考えて迷っていたけど、絶対に行けるのならS高校しか選択肢はない」
と強い表情で私に意志を表明した。私は「迷いが吹っ切れてよかったね」と言ったものの、なんだか気持ちが急にそわそわした。
一番欲しかったものが手に入る娘を前に、急に不安になったのだ。娘の夢が叶うまたとない機会なのに、なぜ私はこんなにも不安になってしまうのだろう。
私は娘に聞いた。
「一番行きたかった学校に行くと決めて、怖くはないの?」
娘「全然」
「そうか。S高校に行けそうでよかったね」と答えながら、私の胸はざわついていた。私立高校の学費の問題は一旦、置いといて、だ。
娘のあっけらかんとした返事を聞いて気がついた。私は一番行きたい学校に行けたとしても、そこで自分が力を発揮できるだろうか、たぶんできないかもしれないと想像して、勝手に怖くなっていたのだ。
行きたい高校に行けたとしても、やりたいように力を発揮できなかったらどうしよう、がんばったのにコンクールメンバーに選ばれなかったらどうしよう、自分の力の限界を思い知ることになったらどうしよう。
私の頭によぎったのは、「できなかったときの失望」だ。娘が行く学校なのに、主人公を自分に置きかえて想像で不安になる私。なんだ、これ。
思い起こしてみると、私はずっと「一番欲しい」を選ばずに今まで来てしまったのかもしれない。なんということか…
やりたいと思っていたのにやらなかったことに「外資系企業に勤める」があった。異なる文化を持つ人と仕事をするのは楽しそうだし、実力主義の職場で自分の力を試してみたいと思ったから。そう思いながらも、私は外資系企業に履歴書を送ったことはない。ずっと「いつかやりたいことリスト」に「外資系企業に勤める」があっただけ。
本当に外資系企業に勤めてみたいと思うのなら、まずは履歴書を送ってみたらいいだけだ。採用になれば夢が叶う。もし採用されなければ、自分の力不足を受けとめ、採用されるように逆算してスキルを磨けばよいと思う。
でも、私が履歴書を送らないのは、本当に採用されたときのことを想像したからだ。思い浮かんだのは、採用されて喜ぶ自分の姿ではなく、自分の力が及ばないことを思い知ったときの失望とか、企業のムードに馴染めなかったらどうしようという恐れだった。
「挑戦してもどうせうまくはいかない」と失敗の怖さが先立ち、はじめから手に入れようとはしなかった。この考えは、家の外には危険がいっぱいだからどこにも出かけないのと同義では?
そのくらい極端な話だし、うまくいかなければリカバリしたらいいだけなのは頭ではわかる。でも怖さが先立ち、行動はおこさず、ただやったのは天に向かって「やりたいな~」と願うだけ。
そもそも私、本当に外資系企業に勤めたかったのだろうか?自分では願っていたつもりだけど…と、自分で自分がわからなくなる。
「これがやりたいんだ」といいながら、結婚とか出産とか時間のなさを言い訳に挑戦することを選んでこなかった私。
毎日の暮らしの中でも、「やりたい気持ち」をどこかに置き忘れてしまっていた。レストランでメニューを選ぶときも、一番食べたいものではなく300円安い方を選んでいたりとか、本屋で読みたい本を見つけて心がきらっとしたのに「また今度」と流してしまうとか。
ひとつひとつは小さい選択だとしても、雑に選んできたことで、いつの間にか自分の本当の気持ちが迷子になっていた。そんな選択をし続ける人生、楽しいだろうか。
これまでは無意識に行動していたけれど、娘が華麗に志望校を決めてくれたことで、自分の思考のクセにはっとなった。
一番やりたいことを、まっすぐ選ぶ娘を尊敬する。彼女の垂直な決断を見て、「わたしも生き方を変えなきゃ」と思った。一番欲しいものを手に入れる喜びを知らないままで時間が過ぎていくと思うと、ぞっとする。
2024年のカレンダーは100円ショップで選ぶいつものではなく、大好きなアーティストのカレンダーにした。
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