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名古屋で詰んで、山へ飛んだ

名古屋で詰んだ

「万策尽きた…。」
師匠と私は途方にくれていた。

師匠(日比野 貴之)とは、30年以上のキャリアのある現代アーティスト。
師匠は「ホログラムズコラージュ」という技法を世界で初めて発明。
長年開発をつづけ、2019年にようやく完成させた。

師匠「自分が死んでも、この技法が継承され続けてほしい。」
そんな思いから、東京と名古屋にアートスクールを立ち上げた。

現代アート作家・日比野 貴之
「ホログラムズコラージュ」の作品。光の流れをコントロールしながら、ホログラムフィルムをコラージュする。

そして、2021年秋、就労支援施設や伝統工芸とタッグを組んで事業をしようという話が舞い込んだ。

これで「ホログラムズコラージュ」が広がっていくぞ!

私たちは、春から事業をスタートさせるべく、着々と準備を進めていた。

ところが、春になって突然、これらの話がおじゃんになってしまったのだ。

追い打ちをかけるように、師匠の恩人が急死してしまった。

とはいえ、悲しみに浸っている場合ではない。

その後も、師匠はあらゆる手を打った。
が、結局上手くいかなかった。

どろ沼にはまったボール

詰んだ…。

お金が入るあても、ツテもなくなった。
最悪なことに、手元のお金もない。
事業のために引っ越しをしたので、貯金のほとんどを使ってしまったのだ。

まさに、八方塞がり。

どうしよう…。
私はため息をついた。

それでも、師匠は諦めない。けんめいに打開策を考えていた。

師匠「お前もなにか考えろ。」

えー。そんな無茶なぁ…。

それでも、私は師匠の弟子。師匠の言うことは絶対だ。
小さい頭をむりやり稼働させた。

私「師匠…やっぱり私、就労支援施設でのワークショップを見て、ホログラムズコラージュの可能性はすごく実感したんですよね…。」

就労支援施設とは、障害や疾患があるひとの就労を支援する施設のこと。

ある日、就労支援施設のオーナーであり、精神科医の先生が師匠にそうだんをしにきた。

先生の施設には、子供から大人までいろんなかたが通っている。

施設を利用する人のほとんどは、「心を病んでしまった」ひと。

先生は、利用者の病んだ心を改善したうえで、きちんと社会復帰をするてつだいをしたいと考えていた。

『Infinity』

先生「何かよい方法がないか考えたのですが、アートがいいんじゃないかと思ったんです。
そこで、日比野さんにたまたまお会いして、お話を聞いたら、『これだ!』って。」

先生は「ホログラムズコラージュ」に興味をもったようだ。

師匠「僕が長年研究してきた『ホログラムズコラージュ』は、才能がなくてもできる技法です。
よく、アートというと『才能がないとできない』と言いますが、僕は才能なんていらないと思う。

そして、アートには"失敗"がない。
全ては"試み"であって、"失敗"なんて概念はありません。

おそらく、利用者さんには自信がない。
それは、何かを達成した経験が少ないからです。

僕は、誰でもできるように簡単なキットを開発しました。
まずは、上手くやろうなんて考えずに、完成させること。
時間はいくらかかっても構いません。

まずは、利用者さんに体験してもらいましょう。」

ということで、私たちは就労支援施設で「ホログラムズコラージュ」のワークショップを行った。

ワークショップのキット。
「フラワー・オブ・ライフ」の模様に合わせてホログラムシートをカットする。

どんな反応になるかな…?

そんな心配をよそに、ワークショップはサクサク進んでいった。

あれ?みんな楽しそうじゃん。

参加者は、心に問題をかかえているとは思えないくらい、すごく楽しそうで生き生きとした表情をしていた。

これには、先生も驚いたとか。

後日、先生からお礼の連絡があった。
利用者さんたちに改善が見られたらしい。

診察室でひとことも話さない子が積極的にはなしをするようになったり、
ワークショップで作った作品をきっかけに、家族とコミュニケーションをとるようになった子もいたとか。

「ホログラムズコラージュ」って、未来があるじゃん!
可能性をおおいに感じたのである。

結局、就労支援施設との事業はとんざしてしまったが、
この可能性を絶やしてしまうのはもったいないと思った。

アートスクールの方向性は間違ってないはずだ。

制作中の師匠

しかし、就労支援施設のワークショップは、あくまでプログラムの一つとして提供されていた。
つまり、やりたい人がワークショップを受けたわけではなかったのである。
進んで参加したひともいれば、半強制的に参加させられた人もいた。

本来、ワークショップは「やりたい!」と思う人がやるべきだ。師匠はその気がないひとに勧めたりしない。

それに、せっかく効果があっても、一度きりで終わっては意味がない。

そして、師匠は施設の方針そのものに疑問をいだいていた。
師匠「施設は、"社会"で壊れて逃げてきたひとを、ふたたび"社会"に戻そうとしている。
当の本人たちは、"社会"復帰を望んでいるわけじゃない。」

確かに…。
「社会復帰」というと聞こえはいいが、
本人たちからすれば、地獄から逃げたのに再び地獄へ戻されるということになる。

とはいえ、ワークショップは施設に私たちがおじゃまするという形だった以上、
施設のやり方に従う必要があった。

しかし、それでは師匠の理想を実現できない。

では、どうすればいいのだろう?

そうだ、田舎に行こう

師匠は、「(一番)弟子に聞いてみよう。」と言って、電話をかけ始めた。

一番弟子は、私の兄弟子にあたるひとだ。

兄弟子は一度、就労支援施設のワークショップを手伝いに名古屋まで来てくれていた。だから、事情はある程度わかっている。

兄弟子は師匠のはなしを受けて、こう切り出した。

兄弟子「話を聞いていて思ったんですけど、アートスクールをやるなら都会よりも自然豊かなところがいいと思います。
都会で心が壊れたひとは、自然豊かなところで回復したほうがいい。

それに、僕、さいきん第一次産業に興味があって、農業やってみたいんですよ。僕は東京に住んでますが、災害が起こったら、都会は壊滅します。
だったら、農業ができる場所でアート活動をやりたい。

師匠「それだ!」

師匠は他のひとに電話をつないだ。

私「だれに連絡するんですか?」
師匠「伊賀の知り合い。」

師匠は2008年から2011年のあいだ、三重県伊賀市の阿山というところでアート活動をしていたことがある。
師匠は当時からの知り合いに電話をした。

師匠「カクカクしかじかで、こんなことやりたいんだけど、伊賀でできるかな?」

ところが、伊賀に移住したひとは「伊賀はおすすめしない」と言った。
「阿山は保守的なところだから、もっと開放的なところのほうが良いと思う。例えば…岐阜とか。」

師匠「岐阜か………そういえば!」
師匠はとっさに、ある知り合いを思いだした。

それは、師匠が名古屋でアート活動を始めたころ。飲み屋でたまたま知り合ってから、ずっと付き合いのあるひとだ。(以降Aさんと呼ぶ。)

Aさんは夫婦で名古屋から岐阜県恵那市飯地町に移住し、キャンプ場をいとなんでいた。

早速、Aさんに電話を繋いだ。
話が弾んだらしく、なにやら楽しげなようす。

電話を切るやいなや、師匠は笑顔で言った。
「飯地町にいくぞ。」

飯地町へ飛んだ

飯地町からみた景色

数日後、私たちは岐阜県恵那市飯地町へ飛んだ。

岐阜県恵那市飯地町は、標高600メートルの高原のまち。コンビニも、信号すらもない正真正銘の田舎だ。

さっそく、Aさん夫妻と会って話を聞いた。

当時の記録が残っていたので、そのままご紹介する。

「飯地町は山奥の限界集落。田舎のなかの田舎である。人口は600人ほどの小さな村で、小さなコミュニティの中で人々が生きている。私の故郷とも、私が今住む名古屋とも全く異なる世界である。

先日の飯地町訪問にて、美しい自然に心打たれた。山道をぐんぐん進んださきに、にパッと開けた高原。空と緑以外何もない、穏やかな里であった。
当日、キャンプ場に泊まらせて頂いたので、より自然を肌で感じることができた。夜は薪ストーブで寒さをしのぎ、即席の鍋料理を囲んでご夫妻と酒を交わした。

朝は窓の外を覗けば、木々がのんびりと陽を浴びている。耳をすませば、鳥のさえずりが聞こえ、清々しい気分になった。そんななかで、ご飯を頬張った時、たまらなく幸せだった。

私はこの見知らぬ里を好きになった。こんな場所で作品をつくり、自分と人と生き物と向き合えたら、どんなに素晴らしいことか!」

当時の私はたいへん満足したようだ。
師匠も、いちどの訪問ですっかり飯地町が気に入った。


それから、二週間もたたないころ。師匠が「もう、飯地町に行く!」と言い出した。

Aさん「ちょっと待って!車も家も仕事もないじゃない!」
ごもっもだ。
とはいえ、師匠は行くと決めたら、行く人だ。

さらに一週間後、ふたたび飯地町へ行った。
師匠のことばを受けて、あわててAさん夫妻と飯地町のひとたちが、空き家を探してくれた。
候補は三件。

空き家といっても、なんでもいいという訳ではない。師匠はアート活動ができる物件かどうか吟味していた。

一件目。師匠「うーん…。」

二件目。師匠「違うなあ…。」

三件目。師匠「ここだ!ここにする!」

最後の家にビビッとときたらしい。そこは、少し奥まったところにあって、周囲が木で囲まれた静かな場所だった。
そして、家が広いうえに、離れつき。大きな倉庫もあって、ギャラリーをするにも適していた。

その後、大家さんとすぐに話がついて、2022年8月から住むことになった。

今日まで生きのびた

それから、一年が経った。

いや、一年が「経った」のではない。
一年「生きのびた」。

名古屋で計画していた事業が全てとんざしたあげく、恩人の不幸も重なり、
お金もツテもなにもかもが絶えた一年前。

そこから、飯地町へ飛んで、家を見つけ、生活をつづけたことを思うと、
「生きのびた」という表現がピッタリだ。

とはいえ、100%自力で生きてこれたワケではない。

飯地町に来てから今日までのあいだ、飯地町のひとたちに何度も助けられた。

ほんとうに困ったとき、実際に助けてくれたのはいつだって飯地町のひとだった。

正直、飯地町に来るまえは、いろんな心配事があった。

田舎の人は保守的だと聞くけど、飯地町のひとたちはアーティストである私たちを受け入れてくれるだろうか…。

ところが、それは杞憂にすぎなかった。

飯地町の方たちはとても寛容で、温かく私たちを迎えいれてくれた。
そして、好奇心も旺盛。私たちのウワサをききつけ、すでに20名以上のひとがギャラリーに来てくれた。

私たちは大して何もしていないのに、
「飯地町にきてくれてありがとう。」となんど言われたことか。

そして、豊かな自然にも救われた。

本当に辛くて、涙がちょちょぎれたこともあったが、
ひょこっと現れたニホンカモシカやホタル、夜空と月明かりに心癒され、
ときには山菜で命をつないだこともあった。

おかげで、夏が過ぎ、秋が来て、厳しい冬を越え、春を迎えることができた。

アートスクールのほうも、ようやく成果がでてきた。
まったく宣伝をしていないのに、ワークショップを受けたひとの口コミで、
一人また一人とアートスクールに来てくれるようになった。

敷地内にやってくるニホンカモシカの親子

あのまま名古屋にいたら、私たちは完全に「終わっていた」だろう。

今年5月、一年半ぶりに展覧会のため銀座にいった。せっかくなので、ギャラリーを見にいこうと思ったのだが、いざ行ったらことごとくギャラリーが潰れていた。

コロナパンデミック後の打撃をうけたのだろうか。
とはいえ、もともと「ギャラリー巡りをするなら銀座」といわれている場所だ。こんな短期間でギャラリーが潰れるなんて…。

「銀座」ですらこんな状況だ。あのまま東京と名古屋でアートスクールをやっていたら、惨事をみたかもしれない。
そう思うと、ゾッとする。

「飯地町に行く」という選択をしてなかったら、私たちはほんとうの意味で「詰んでいた」に違いない。

一年生きのびられたのも、アートスクールが軌道にのってきたのも、
すべて飯地町に来たおかげだ。

間違いなく「飯地町に来た」ことは、大きな転機であった。

柿の木を選定する師匠

とはいえ、「飯地町に来る」という選択をしただけで「終わり。」ではない。

肝心なのは、その後だ。

まず、師匠は「なんとなく」で選択をしない。
師匠はいつだって「明るい未来がある」ほうを選択する。

飯地町への移転もそう。
一見突飛な行動にみえるが、師匠は勢いだけで決断するひとじゃない。

「これからの世の中はどうなるのか」
「自分たちの未来をより良くするにはどうしたらいいのか」
「それのために何ができるか」
師匠はこれらのことを考えたうえで、選択をした。

そして、その選択肢は「正解」にしなければいけない。


だから、師匠は「飯地町に来た」だけで終わらなかった。
「明るい未来をつくれる」と思って飯地町に来て、
それを実現すべく今日まで選択をしつづけた。

飯地町でアートスクールを展開するにはどうすればいいか?

師匠は、思いつくかぎりのことをした。
これまで、たくさんの企画を立て、実行してきた。

思ったとおりにいかないことが大半だが、
そこで得た結果や、たまたま知り合ったご縁を繋げて、少しずつカタチになってきた。

誰しも、長い人生のなかで、大きな「選択」をすることがあるだろう。

しかし、大きな「選択」を一度やっただけでは意味がない。
たとえ、それが良い選択だと思っても。

小さくても、その後も「選択」を重ねていくこと。
それでこそ、「大きな選択」が意味をもつのだ
と、師匠をみて実感した。

私は一年前、名古屋で詰んで、飯地町へ飛んだ。
それは「明るい未来」のための選択だった。
そう思えたのは、今日までの小さな「選択」のおかげだ。

飯地町に来たあとも、挫けそうになったことが何度もある。それでも、「飯地町にいつづける」ことを選んだ。

そのおかげで、人の優しさや自然の素晴らしさに気づけた。

そして、これからも「明るい未来」に繋ぐべく選択をしつづける。

一年後、今より「飯地町に来てよかった!」と思える日を私は楽しみにしている。

日比野 貴之『Hearts』



私の師匠のnoteです。

こちらは、アートスクールのホームページ「KAMOSHIKA MURA」。

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