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嫌われるのも悪くない

嫌われるのは嫌だ。
できることなら嫌われたくない。

だから、私は嫌われることを漠然と避けていた。

学生時代も目立たなかったし、校則も破ったことはない。
地味に、普通に、常識的に生きてきた。

だが、師匠について現代アート作家になってからは、そうはいかなかった。

人から急に好かれたかと思えば、急に嫌われたりする。

初めてあからさまに悪態をつかれたときはショックだった。

なにかをした覚えはない。

それでも、いつも「なんだコイツ」みたいな目で見られるし、
自分のいないところでもチクチク言われる。

そして、師匠との対応の差!

師匠の質問にはきちんと回答するのに、
私が聞くとまったく答えてもらえない。

私のやることなすことが気に入らないらしい。

それでも、仕事はしなくてはいけないし、客対応はしなくてないけない。

辛い…。

訳が分からぬまま、会うたび悪態をつかれるばかりだった。

とうとう困り果てて、私は師匠に相談した。
すると、師匠は「これは嫉妬だ」と言った。

その人はアーティストに憧れていた。

確かに、現代アート作家は一見すると、身勝手でわがままで、自分の好きなことをして、大金を稼いでいるように見えるかもしれない。
(実際はそんなことないのだが…。)

だから、その人は私のことを「若くして、俺の欲しいものを苦労せず取りやがって、良い生活もできて、生意気!!」だと、思ったらしい。

…なるほど、理由は分かった。

でも、結局、私は悪くないじゃん!?
ますます不愉快になった。


師匠は「現代アート作家は、嫌われてなんぼだ」という。

確かに、何も知らないひとからすれば、
アーティストは常に非常識で、わがままで、好きなことをしていて、理解ができない存在に思える。
嫌われるのはあたり前だ。

だから、「嫌われるのも当然よね」と言って、流せばいい。

でも、いざとなったら、それができなかった。

辛いものは辛い。
直接会っているときもストレスだが、その人と会うことが決まっただけで憂鬱な気分になる。

どうしてよいか分からないでいるとき、師匠がヒントをくれた。

師匠「言いたいことがあるなら、作品で示せばいい。それがアーティストだ。」

そうか…。私はアーティストとして、「作品」という正当な反抗手段があるのか。

こうなったら、やるっきゃない。


私は制作をはじめ、日頃言えずにためていた思いを形にしていった。

そして、数々の作品ができあがった。

いざ、本人に作品を見せる機会が訪れたとき、
もし、難癖をつけられたら、全て回答しきろうと腹に決めた。

その場で答えられるものは答えて、
できなかったら、作品で答える。

とことんまで付き合ってやる。


そんな気持ちで久しぶりに当人に会った。

さあ、かかってこい。

すると、私が聞かなくとも、向こうから口を開いた。

「あなたの作品、良いとおもったよ」

ふぁ?

全くの予想外の反応だった。
いつも通り、チクチク言ってくるかと思ったのに…。

後から師匠に聞くと、「自分はアーティストじゃないし、アーティストになれないと気づいんたんじゃない?」と言った。

実は、師匠が私の作品を見る前に、現代アートとは、アーティストとは、どういうものかを詳しく話したらしい。

そこで誤解が解けて、同時に嫉妬心もなくなったのかもしれない。

さらに、師匠が私の作品を褒めてくださったらしく、恐らく、その人は師匠の言葉に迎合したのだろう。

それ以降、私は悪態をつかれることは無くなった。

それによって、ストレスは確実に減ったが、
私の中で燃えていた炎がスンっと消えてしまった。


今になって冷静に考えてみると、嫌な態度をとられていたときは、それなりに張り合いがあったのかもしれない。

もちろん、辛いし憂鬱。ストレスも溜まる。
ただ、現代アート作家としては、勝負どころだった。


師匠によると、現代アートは「そもさん(什麼生)、せっぱ(説破)」だという。

「そもさん(什麼生)」「せっぱ(説破)」とは、おもに禅問答の際にかける言葉である。

「そもさん」は、問題を出題する側が用いる表現で、「さあどうだ」といった意味合い。

その「そもさん」に対し、問題を出題される側は、「せっぱ」と応える。
「せっぱ」で説き伏せるということだ。

これを現代アートに置き換えると、
アーティストが作品で問題定義、つまり「そもさん」をして、
それを見た鑑賞者が考え、説破「せっぱ」する。

また、鑑賞者が質問というかたちで「そもさん」してきた場合は、アーティストは「せっぱ」で答えなくてはいけない。

私は嫌な人から思わぬ質問を投げ返されたとき、言葉に詰まってしまったことがある。

師匠「言葉につまったらアウトだよ。とにかく、返さないと。」

相手が意地悪で言ってきたのに…。

と、言いたいところだが、そこで、間髪入れずに言葉を返すのがアーティスト。

相手にどんな意図があろうと、「そもさん」されたら、必ず「せっぱ」する。

それなら、「そもさん」が飛び交う場面は、アーティストにとって勝負所といえる。


また、師匠は「難癖を付けてくる人は、必ず次の展示に来る」という。
逆に、作品を褒めてくれた人はあまりこないらしい。

岡本太郎氏も面白いことを言っていた。

「あら、いいわね」
「しゃれてるじゃない」
「まことに結構なお作品」
なんて言われたら、がっかりだ。」

岡本太郎,『自分の中に毒を持て』,青春出版社,p.198

見て、通りすぎたとたんに忘れてしまう。「いいわね」というのは、つまり「どうでもいいわね」というのと同じことだ。

岡本太郎,『自分の中に毒を持て』,青春出版社,p.203


「いいわね」は「どうでもいい」ということ。
作品をちゃんと見てくれているわけではない。

一方、最初から私自身をよく思っていないひとは、見方はゆがんでいるかもしれないが、
なにかケチをつけてやろうと思う人ほど、作品をじっくり見る。

だから、アーティストにとっては、ひとに嫌われることが悪い状況ではない。

師匠こと、現代アート作家・日比野貴之の作品

とはいえ、現代アート作家でない多くの人たちによっては、
他人から急に嫌われるなんて経験はあまりしないかもしれない。

私も人からあからさまに悪態をつかれたことが無かったうちは、
「嫌われる」ということに対して、ナイーブになりすぎていたような気がする。

これに対しても、岡本太郎氏の鋭い指摘がある。

自分を大事にしているから、いろいろと思い悩む。そんなに大事にしないで、よしそれなら今度から、好かれなくていいと決心して、自分を投げ出してしまうのだ。

岡本太郎、『自分の中に毒を持て』、青春出版社、p.94


そういえば、人から嫌われた経験がないときは、
漠然と「嫌われる」ことを恐れていたように思う。

逆に悪態をつかれる経験をした後は、少しずつ気にならなくなっていた。

経験をするからこそ、「嫌われる」ことにも、案外メリットもあることに気づく。

そして、「好かれる」ことが必ずしも良いことばかりでないことも。


それなら、岡本太郎氏の言う通り、いっそのこと嫌われたり孤立してもいいと思って、自分を投げ出してみるのもアリ。

何事も経験だ。
いざ嫌われてこそ、新たな発見があるのかもしれない。


現代アート作家・日比野貴之が運営する「サバイバルと創造」を追求する場。

現代アート作家・日比野貴之のnoteはこちら。










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