月見風呂奇譚

僕は風呂が長い。
だから、家族みんなが風呂を済ませてから、
僕が最後に入る。そうしないと、邪魔になる。

今日もそうして、最後に風呂に入る。
すっかり夜遅くなってしまった。
でも、こうしないと、邪魔になる。
しょうがないことだ。風呂が長い僕が悪い。

ふと、湯船の底が光っているのが見えた。
何か沈んでるのか?と思ったけど、
不思議なことに、お湯の底よりもっと深くで、
遠くから光っているように見えた。

夢かな。
夜中だから、風呂場で寝てしまったのだろうか。
そう思ったけど、寝ている感覚も、目覚める気配もない。
なら、あの光はなんだろう。

下のほうにある光に手を伸ばしてみる。
届かない。
お湯の中にもぐって、もっと伸ばしてみる。
まだ届かない。

どこまで行けば届くんだろう。
そう思って、光のほうへ進んでみる。
すると、光に届く前に、水面が見えた。
下に向かっていたのに、水面だ。そんなことってあるのか。

水面の上に顔が出た。
さっきまで居た風呂場とは違う水面だ。
屋外だ。広い。いわゆる露天風呂ってやつだ。
立っていると、お湯に浸かってない上半身が寒い。

見上げてみると、夜空があった。
「あの光は、月の光だったか。」
とりあえず、肩までお湯に浸かった。

「こんばんは。」と、先客に声をかけられた。
「どうも、こんばんは。」と、見上げたままで答えた。
「よそから来たにしては、落ち着いてるね。」
「よそからですか。いや、これでもビックリしてるんですよ。」

なんというか、一周まわって冷静になってしまった。
マンガとかなら驚いたり怖がったりするんだろうけど、
いざ自分で体験してみると、案外落ち着いていられるもんだ。

目を見て喋らないと失礼か、と思い直して、
声がしたほうを見ると、その人も月を見ていた。
髪が白い。
すごく長生きしているような、そんな雰囲気がする。
でも、顔立ちを見ると、10代かそこらの若者のようでもあった。

「せっかく来たんだ。泊まっていくかい。」と、
銀髪の彼がこっちを見て言った。
答える前に、下を見た。
底より深くの、遠いところに、電灯の明かりが見えた。

よかった。
どうやら、来たほうに戻れば帰れそうだ。
「いや、月見に飽きたら帰ります。」
「そうかい。」

ところが、その日は結局泊めてもらうことになった。
うちの風呂場の明かりが消えて、
帰り道が無くなってしまったからだ。
誰も居ないのに点けっぱなしだったから、
たぶん、家族の誰かが消したのだろう。

困ったことになった。
でもまあ、困ってばかりいてもしょうがない。
浴衣を一着借りて、銀髪さんの家にお邪魔させてもらった。

その家にはテレビが無かった。
だから、食事の時には、雑談する以外にやることが無かった。
風呂の前に夕食を済ませて来てしまったから、
飲み物だけ少しもらって、あとはただ喋っていた。

懐かしい感じがした。
我が家にはテレビがあるから、
家族はみんな、僕に構うより、テレビのほうに興味がある。
もしくは、スマホをいじっているか。そのどっちかだ。

僕も僕で、ゆっくり食事をするよりも、
パソコンに向かう時間のほうが大事だった。
別に、実のある話をしたわけじゃない。
正直なところ、何を喋ったかもよく覚えていない。
でも、この夜は楽しかった。

翌朝。
風呂に入って下を見てみると、
底より深くの、遠いところに、四角い光が見えた。

「一晩お世話になりました。」と、
一緒に朝風呂に来た銀髪さんに挨拶した。
「達者でな。」という返事に笑顔を返して、
お湯にもぐって、光に向かって進んでいった。

浴槽のフタに頭をぶつけた。
半開きになったフタの隙間から、
洗濯機に繋がるポンプが垂れている。
お湯はすっかり冷めていて、寒い。
水面には、窓からの日差しが四角く映っていた。

あの露天風呂、あの家。どこだったんだろう。
あの銀髪さん。誰だったんだろう。
あっさり帰ってきちゃったけど、
名前くらい聞いておけばよかったな。

風呂を出て、スマホを見ると、一晩ぶんの通知が溜まっていた。

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