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馬鹿にされる覚悟。

 別に誘う相手がいないわけじゃない。なのに、何かと理由をつけて、ひとりで街に出向く。
 もし一人になったとき、一人で行動するのが苦じゃないように、怖くならないように、この感覚を無くしてしまわないように定期的に慣らしておかないといけない。一人じゃ何もできなようなクソ女に成り下がりたくないって思ってんだと思う。
 私の行動のほとんどの理由は、こうなりたくないっていう誰かを下げて自分を肯定するためのものだ。
 素直に私に友達が少ないだけと言ってしまえば、それまで。それを友達とつるまないと何もできない女どもと一緒にされたくないとか私とは違った感覚を持つ子を下げて、自分を肯定してる。
 実は、この友達が少ないってのも私の中では一種の同じものなんだけどね。友達が多けりゃそれだけで自分に価値があると勘違いしてる奴っているじゃん。あー無意識。また、意図せずに人を下げてる。
 最近も、父方の祖母の車の中で、母親と高校の友達の話してたときに、「泣けば済むと思ってるような低俗で甘えた考えを持った人間にだけはなりたくない、あれは親の育て方が悪かったんだろうな」と言ってしまった。なんか空気がピリッとしたから、少し考えたら、父親の姉は泣いて誤魔化して生きてきたタイプの人間だった。全員があの場で伯母を想像したのだろう。無意識に人を傷つけに行ってしまう。いや、伯母のことは心底馬鹿にしているので、「出ちゃった」くらいの感覚だけど。
 こんなことはよくある。私にとっては、やけにまとまってしまっている凶器が不意に口をついて出てしまうことは日常の一部。それでも直せないのは、嫌なことを思うのをやめられないのと、ちょっとだけネタになると思ってしまう悪い心があるからだ。
 こうやって不特定多数の人を切る感覚が好きなのだ。自分の中ではいつだって明確な批判の対象となる人物が存在しているが、それを発言するときには敢えてシルエットとして出す。そうすると、相手は自分が持つ批判の対象と重ねて乗ってくるのだ。

 みんなどこかで誰かを小馬鹿にして生きてる。あいつよりはマシだとか、あぁはなりたくないとか。
 でも、その生き方をするには覚悟が必要である。自分も同じように卑下される対象になる覚悟。誰かを馬鹿にしたような薄っぺらいブログを書いてる大人として、責任がある。批判される可能性は誰かを批判するときに必ずついてくる。しかし、ここでいう覚悟が必要な傷は誰かを叩いた代償として与えられた傷は含まない。それとは全く別のところで負うことになる傷をいう。叩いたことで別のボロを探され、叩かれる。そのスパイラル。
 だから、いつだって自分の言葉には責任と傷つく覚悟を持たなければならない。まぁ、これと人を傷つけるような発言をしていいかというのは別問題だ。ただ、自分を正当化するために意図せず傷つけてしまうことがあるかもしれない。ネット上の発言なんてのは特にスクショでもされようもんなら一生残ってしまう。それはお互いのためによくない。で、私は同級生の愚痴ストーリーとか、恋人であろう相手とのラブラブストーリーとか、「えー、絶対その先輩、〇〇のこと狙ってるよ」のカツアゲ承認欲求ストーリーとかを携帯の容量パンパンに溜め込んでる。別に、今後それを公開する予定はないし、その子自体に興味があるわけではないけど、人を分類分けするときにすごく役に立つんだ。ある程度溜まれば、「あー、私ってこういう人とは仲良くなれなかった傾向にあるからこの人とは距離とって接してみよ。」とかね。基本メンヘラ気質の恋愛体質で「私の髪型、ボブとロングどっちがいいですか」とか芸能人でもないのにストーリーにあげちゃうような奴が嫌い。
 まぁ、私も含めたデジタルタトゥーオタクが世の中には蔓延ってんだから、気をつけろよってだけの話でした。


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