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(短編)『水が氷になるとき』(フ)

水が氷になるとき      フランソワゆみこ 

 頬を撫でる風が冷たくなってきた。やっと仕事がやりやすくなる。私が冷凍倉庫の作業員をしていることを知ると、誰もがみんな「暑い夏はいいね」と言うのだが実際は逆だった。外と内の気温差に体が参ってしまう。寒い季節のほうがかえって楽なのだ。
私が勤めているのは中堅どころの物流会社で、冷凍食肉、冷凍魚介類、冷凍加工食品、冷菓などを扱っている。私の担当は冷菓、わかりやすく言うとアイスクリームやかき氷だ。注文書を確認しながら商品を集め、出荷担当者に渡す。単純だがミスを許されない仕事だった。そのうえ、重たいものを持ち上げる作業が多く、体力も消耗する。たいていの人間が初日の勤務を終えるときついと弱音を吐く。気付いたらその大半がいつの間にか姿を消していた。
しかし、人並み以上の体力があり、一人で黙々と作業するのが好きな自分にはこの仕事が合っていた。三年ほど勤めているが無遅刻無欠席で、大きなミスをしたこともない。おかげで所長にはかわいがられていた。ただのバイトだが在庫管理も任されるようになり、仕事に大きなやりがいを感じている。
ここ最近の私の気がかりは、かき氷の出荷量だ。例年、寒くなるにつれてその量は減っていく。しかし、今年は逆だった。もう十一月というのにかき氷の注文は増え続けている。そのほとんどが「マルビトコオリ」だった。透明の容器に入った何の変哲もないかき氷。無色透明で果物やアイスクリームといったトッピングは何も乗っていない。まったくおいしそうに見えないのに次から次へと注文があるのが不思議だった。それほど人気がある割にはコンビニやスーパーで見かけたことはないし、人々が噂している様子もない。今まで名前を聞いたことがないから新発売の商品なのだろうか。メーカーが躍起になってこれから売り出そうとしている商品なのかもしれない。そう思ってネットで調べてみたが「一致する情報は見つかりませんでした」と表示されるだけで何の情報も得られなかった。
 
マルビトコオリへの疑念は次第に興味へと変わっていった。もしかしたらあんな平凡ななりをしてものすごくおいしいのかもしれない。一つポケットに入れようと考えたこともあったが、それは私の仕事人としてのプライドが許さなかった。
「お疲れ様。今日は追加発注があって大変だったね」
夕方の出荷準備を終えて一息ついていると、所長が微笑みながらこちらへ近づいてきた。私は軽く頭を下げた。そうだ所長に聞いてみよう。彼ならマルビトコオリのことをよく知っているはずだ。
「所長、最近扱いだしたマルビトコオリの件ですが……」
 その名前を出すと、所長は途端に厳しい口調になった。
「あれはね、とても貴重なかき氷なんだ。在庫管理を徹底して、絶対に紛失したらいけないよ」
 マルビトコオリって何ですか、おいしいんですかと聞ける雰囲気ではない。ましてや一つ失敬しようとしたなんてことは口が裂けても言えなかった。
「まあ、君が担当だから安心だよね。信頼しているよ」
 所長は再び口元を緩めてやわらかい笑みを浮かべた。私は思いを自分の胸の内にしまい込み、同じように微笑んで見せた。
仕事を終えて、家に着いたのは二十二時だった。無人のアパートは冷たく冷えている。四畳半だけの古びた一室だが、親の顔を知らず一人で生きてきた私にとっては立派な城だ。シャワーを浴びて一日の汚れをさっと流して寝巻に着替えると、敷きっぱなしの布団の上に寝そべった。今日は疲れすぎて食欲がない。このまま眠ってしまおう。こんなときに喉越しのいいかき氷があったら、疲れも吹き飛ぶのに。
そんなことを考えながら眠りについたせいか、その晩、私はマルビトコオリの夢を見た。氷をスプーンですくって口に入れると、華やかな甘さがポップコーンのように弾ける。喜びのあまり私の頬は薔薇色に染まった。周囲は乳白色の雲で包まれ、天使たちがラッパを吹いている。その光景はかつて自分が育った孤児院に飾られていた宗教画に似ていた。
 
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、出荷担当者が段ボールを重そうに抱えてやってきた。側面には特徴的なロゴが刻まれている。あれはマルビトコオリの箱だ。
「不具合があって返品されたから廃棄処分してくれ」
 それだけ告げると段ボール箱を私に押し付け、担当者は足早に去っていった。もうちょっと早く持ってきてくれればよかったのに。ため息をつきながらも、私は言われるままにそれを廃棄品の保管場所に運んだ。すでに他のみんなは休憩に入ったのか誰もいない。そこである考えが浮かんだ。どうせ捨てるのであれば、一つくらい貰っても問題ないだろう。それは天使からの贈り物のように思えた。箱のガムテープをそっとはがすと、綺麗に整列したマルビトコオリが顔を出した。その中から一つを抜き取り、防寒着の右ポケットに忍ばせた。それから再びガムテープをきれいに張り付けて元の状態に戻し、何事もなかったようにその場を立ち去った。
 私はロッカーからカバンを取り出し、通勤に使っている自転車に乗った。目的地は、橋の向こう側にある河川敷だ。今日はいい天気だから外でお弁当を食べよう。食後のデザートはマルビトコオリだ。なんだかうきうきしてペダルが軽く感じる。しかし、高揚感が収まってくると、後悔の念が頭によぎった。本当に良かったのか。これは盗んだのと同じではないだろうか。膨らんだ右ポケットが石のように重たく感じる。川べりまで来ると私はポケットの中身を水の中に投げ入れ、来た道をそのまま戻った。
 
 その日の夕方、私は所長室に呼ばれた。マルビトコオリのことかもしれない。私の心臓はドラムを打つかのように激しく鼓動し、その音は耳の中に響き渡った。
「失礼します」
 部屋に入ると、部長は手を後ろに組んで外を眺めていた。テーブルの上には缶コーヒーが置いてある。私の好きな銘柄だ。
「まあ、座ってコーヒーでも飲みなさい」
 その口調は穏やかだったが、その奥に失望の色を滲ませている。私はうながされるままソファに腰掛けてコーヒーの缶を開け、おずおずと口をつけた。静まり返った室内にコーヒーを啜る音だけが響き渡った。
「なぜ呼ばれたかわかるね」
 しばらくすると、所長は悲しげな表情で私に問うた。
「君は今日、マルビトコオリを捨てただろう」
「は、はい。廃棄処分にしてくれと頼まれたので」
「私が言っているのは、川に捨てたマルビトコオリのことだよ」
 私は観念した。
「すみません。ゴミになるのはもったいないと思って、一つ頂いたんです。だけど怖くなって川に投げ捨ててしまいました。申し訳ありません。弁償しますからクビにするのだけは勘弁してください」
 私のような学歴のないものはなかなか就職できない。なんとしても仕事を失うのは避けたかった。深く頭を垂れるも、所長の声のトーンは変わらない。
「君がこっそりマルビトコオリを食べ、容器を廃棄場で処理する。それだったら何も問題はなかったさ。しかし、君は外の世界にマルビトコオリの存在を示してしまった。決してこの世にあるはずのないかき氷を」
「この世にあるはずのないかき氷って?」
「……人間は体のほとんどが水でできている」
 所長は、私の問いに答える代わりにまったく関係のない話をし始めた。予期しないことに面食らいながらも相槌を打った。 
「およそ七割が水分と聞いたことがあります」
「そのとおり。すなわち我々は水なのだ。水は氷になる。知っているかね。人間はアルカリ性の液体につけると容易に溶けて水になることを。それを凍らせれば何になると思う?」
 そこでようやく私は気づく。マルビトコオリの名前が意味するところを。
「もしかしてマルビトコオリの成分は……」
「広い宇宙にはいろいろな嗜好がある。マルビトコオリは『あの方々』の大好物だ。我々が彼らにつつがなくかき氷を供給するからこそ、地球の平和と秩序が保たれているのだよ」
 突拍子もない話を聞いたせいか頭の奥が鈍く痛んだ。体もなんとなくだるい。所長の声がゆがんで聞こえる。
「あの方々は今回の騒動にお怒りだ。詫びにマルビトコオリをいつもの倍よこさないと、業者を変えると言ってきた。冗談じゃない。権利を取得するためにこっちがどれだけ苦労したと思っているんだ。とはいえ、いくらかは上乗せしなければならないだろう。ただでさえ原料の確保が難しいのに厄介なことだ」
 所長はぶつぶつ言いながら私のほうを向き、じっと私の目を見つめてきた。
「こんなことになって残念だよ。君はよく働いてくれたのに。しかし、身寄りがいないのは何よりだった。君が氷になっても取り立てて騒ぐものはいないだろう。今まで消えていった者たちのように」
 私は体を支えきれずソファに倒れ込んだ。そういえばさっき飲んだコーヒーはいつもより苦かったことを思い出す。もはや目を開けておくことはできない。薄れゆく意識の中で、天使がラッパを吹く音が鳴り響いた。

                              終
(フランソワゆみこ) 2021KGB vol,2録

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