毒親に関わると、人の機嫌ばかり気にしてしまうようになる

浅はかなアドバイスの弊害

家族だからといって、良かれと思ってやったことが悉く(ことごとく)すれ違うことがある。それは、発達障害、境界性人格障害、アドラー心理学の3つで大まかに説明できるところまでやってきた。

私の母親については、詳しく語ることはできないが、ただ、母が感じていただろう不安は予想がつく。まるで生き霊のようにまとわりついている、私の感じる見捨てられ不安が、まるで脳の構造を通じで引き継いでいるかのように思えるのだ。

そして、その不安を解消する方法は、一般人にはもちえない知識による理解が必要であったが、父には母のことが理解できるだけの柔軟性はなかったようだ。

そして、純粋な父は宗教に入ってしまった。能力者は、俗物ではなくて本業を持つ本物ではあったが、専門家も窮する子供の複雑な形成期間へ処置に、説教しかできない親に言って聞かせろとしか助言できないあたりが、能力者としてありがちな悪い予言を加速させる弊害を生み出してしまっていた。正しくは、工夫して伝わるように伝えなさいとすべきだっただろう。もう、私は父とイベント会話をしているだけで死にたい気分になるのだから。

父も神仏の言葉のおかげで説教することが正しいと決め込んで、悩みに直結する教育関係の本も一切読まず、適切な自己研鑽や工夫することもないまま、父自身の劣等感を投影した不毛な説教が延々と続くことになる。よって、私が自分を変えるために一方的に努力することになってしまった。

「見捨てられ不安」引き継がれる呪い

父の持つ劣等感、母の持つ見捨てられ不安という凶悪なファクター。

家族の呪いは複雑に絡み合いながら、私に引き継がれた。父の経済力のおかげで、大学はまぐれで受かって、学歴大卒となったが、自己否定が強く何をやっても自信が持てないのは生まれてこの方変わらなかった。

アルバイトをしていても、周りばかりを気を使ってトロ臭かった。しかし、昔から失敗をカバーしていただくためのコミュニケーションスキルのみで生き残ってきたように感じる。あと、絶対に嫌われるのが怖い。気にしないとかいう問題ではない。緊張のコントロールのつまみが別のところにある。耐えるしかない。

ただ、母がくれた見捨てられ不安は、私が一番最初に気づいた呪いで、こいつとの距離感は一生を通じて勉強させられている。父がよく、それをネックにして不安がらせてコントロールしようとしたおかげだ。

その手口も、この上なく強力だったがワンパターンであったため、苦しみの原因を自分で考えるに至った。どんな子供やねん。

おかげで、何度も死神に追われつつも、サバイバーとなれた。迷惑をかけないように、一人で生きていくことに諦めがつく。

因みに、「見捨てられ不安」は自己愛性パーソナリティーを生み出すファクターであり、自己愛性パーソナリティは私が最も忌避するに力を注いだものだ。専門書に出会う前ですら、それに近しい他人を観察して、用心し、回避しようとした自己像であった。

愛されキャラはアダルトチルドレン

だが、すでに危うい人格が形成されていた。周囲の機嫌をとってしまうブレーキがかけられない、存在するだけでタレントのような仕事している。愛されキャラというやつは、非常に危うい。能力によっては自分の仕事に回すエネルギーが足りなくなる。

私は、自身を発達障害と思っているが、クリニックの先生には、周囲のオモチャになってしまうアダルトチルドレンと認定されている。

最近、私が出会った人の多くは、支配的ではなく、まともで温情があり、私の素の部分で交流できていたと思うのだが、ショックだ。これ以上、偽ると死ぬところで、生き方を変えたつもりだが、出来ていなかったのか。

先生に、自分を下げずに絶対に舐められないようにしないといけないとに言われた。仕事が出来ないのに対等とかは無理があるとおもうが、そこは感謝しながらやっていけば良いだろう。感謝は自分を偽る行為ではない。特に、過去の職場の方々には感謝している。

親のメッセージに含まれる毒

悩みがあっても父と相談しても、毎度毎度、最悪の気分になった。私は、話題を逸らすようになった。落ち込んでいるときに、じっとりとにじり焼くように、最悪の局面で繰り返す他人自慢、こちらは、素直になれだとか、父が言う素直には「お前はダメだけど下手に出るなら許してやるし頑張れよ」の毒となるメッセージが含まれているのである。母がおらず強化された見捨てられ不安、そこへ同級生や従兄弟だけを一方的に褒めてさらに不安がらせ、おとなしくしていても反抗するまで同じ内容で挑発する。書いていて、再認識したが、やばいな。

あと単純に教え方が致命的に下手なのだ。運動でもなんでも。教えたくないのではないかと思うくらい。

僕は親から受けた毒のため、素直と言う名の自主性ゼロの操り人形、自分の生き方を封印せざるを得なかった。生きていくためにチカラを発揮するには、僕が一番認めたくない個性を発揮しないといけないことが、遅ればせながらわかってきた。

すべての人が、当たり前のアドバイスを受けても、同じようにはいかない。それが明白である以上、アタリマエは人の数だけある。

僕は、自分を出しても、父の言うように嫌われることはそうそうない。これといった悪意がないからだ。媚びることもない。

はき違えた素直さで、支配的な人間に全折れしても、エスカレートしてくるので、砂をかけてやるぐらいはしよう。そいつから共依存されないように。

自己愛性パーソナリティの見捨てられ不安、合わせ鏡に気付いている側として、鏡からは離れるのだ。

父に運悪く電話をかけざるを得ないとき、また土日がつぶれるほどの心的疲労が重なる可能性がある。自分にも、怒りで反応してしまうことがあるし、知識を検証して証明を終えて、それで不快にさせることもある。自分も莫迦だ。

最初からトラブルの可能性はあることに留意して、一線を引こう。お互いに絶対にパーフェクトコミュニケーションを期待してはいけない。そのままを受け入れることができて、大海のごとく生きるならば多少の毒は問題でないはずだが、如何に。出来る人はチャレンジしてみてください。

人に嫌われるのはしょうがない

親が子供を不安がらせてコントロールして、社会的な弱者、アダルトチルドレンを作り出して野に放ってしまう構図。もう、ウンザリです。

じゃあ、アダルトチルドレンを作らないために本当に必要なアドバイスは何かというと、

「人に嫌われることはしょうがない」ということ。

そう思うと嫌われないし、共依存をふっかけられることもないから、自分のやるべきことに集中して幸せになれる確率が高くなるということ。

人が語る怖い世間

支配的な人間が語るに都合のいい世間という幻想に従うより、関わる人間を選びなさい。「危ない人には近づくな」の危ない人も世間様の一部です。

世間様とは、ルールや法律、個人の良心や仕事で成り立つ健全な相互扶助関係に、ケモノに内在する暴力や過剰なエゴイズムに対応する面倒臭さを加えた状態だと思います。常に吉凶をはらみ、怖がられている。だから、時折、さん、様が付く。

「世間のなかから関わる人間を選びなさい」ということ。

すこやかな幸せが存続させるには、実際には関わる人間を選ぶ以外に方法はないでしょう。

世間は、どうしても自分でカスタマイズ出来ない部分がありますが、スルーしましょう。

あと世間の代表を気取っているのは大概モンスターです。だから、〇〇さん、あなたがそう思っているだけですよと言ってあげましょう。大概、まともな論拠すら用意してないから話にならない。それでも押し切ろうとする人は、ご愁傷さまです。

世間を盾にして命令するのではなく、あなたの要望として素直にお話しなさい。それならば、検討しましょう。それが敗北でないことを理解してください。

悪を為さない、苦しみを産まないという意味で、世間を語っていいのは、穏やかに人を諭せる人格者のみです。一般論だからね悪気はないよって、心が向き合っていることが感じられる。

自分以外は他人、だから与えられる

支配的なことに自覚のない親に育てられた多くの人は、いつ世間には弾かれるんだろうと死んだように生きている気分だと思います。

今度、機会があればその気分になってしまう原因が私や貴方の心にあること伝えようと思います。勿体ぶらないで言えば、人に期待している心です。自分以外は他人です。肝に命じましょう。悪い意味ではありません。与えることが出来るのは他人だからです。貢献できるのは他人がいるからです。

私の様々な解釈が、せめて、毒を中和できる勇気になることを祈ります。まあ、釈迦がいうように話題にせず忘れ去ることが一番でしょうが、現代社会において、釈迦の生き方はただのニートです。教えは古くなったんでしょうか。



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