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なぜ人間は「死にたい」と思うようになったのかを考察してみた


前提

“419万人”

突然だが、貴方はこの数字が日本の何を表しているかご存じだろうか。

そうだ。これは日本における精神疾患にかかっている人達の数である。

厚生労働省によると、2017年時点での日本の精神疾患全体数は419万人にも上るそうだ。また鬱病の患者に絞ってみても、2020年時点で172万人ほどいるとされている。

また同年、WHOからは、我が国日本では506万人、大雑把に人口の4%ほどが精神疾患である、という報告がなされた。

これを多いか少ないか見るのは勿論その人次第だが、少なくとも私は異常な数だと認識する。

それはなぜか。何故ならそもそも精神疾患というものは非常に曖昧なもので、予備軍などとも俗に云われる潜在的な精神疾患の患者も勘定に入れると、この419万人という数は大きく膨れ上がるからだ。

また、精神疾患というものは、多くの場合自己申告によって発覚する。このため、国民性という面で考えた場合、必然的に欧米の国々では、日本と比較して精神疾患の患者の割合も増加するだろう。その一方で、我が国日本においては、その我慢を良しとする国民性や、周りへの迷惑をも鑑みる社会性などが関係し、精神疾患の患者の割合はそこまで増えないと考えられる。

だが現実はそう甘くない。その割合は、確かに欧米の国々の方が多少多いものの、日本のそれも全く引けを取っていないものとなっており、実際、日本は、アジア・太平洋地域において中国に次いで第二位の鬱病患者数を誇っている。また、自殺率に至っては、OECD加盟国の中で四位と非常に高い値となっている。

なぜ人は希死念慮を抱くのか - 情報化社会

さて、、、
こんな壮大な前置きはさておき、今回はこの精神疾患という大きな括りの中で、私も何回か考えたことがある現代の人間にとって身近な話題、「なぜ人は希死念慮を抱いてしまうのか」について考えてみる。

そもそも、人間がこんな感情を抱きはじめたのはごく最近だということは、阿呆でもよくよく知っているだろう。我々の近縁種であるゴリラやチンパンジーはこんな意味不明なことを考えたりはしない。これらの考えは彼等の生殖の邪魔となるだけである。

古代文明の人達や我々の先祖も同様にそんなことは考えなかったであろう。もしそんなことを考えてたなら、我々は地球上に存在せず、自身をHomo Sapiens、知恵のある人などとほざく生物が跋扈し、支配している現在の地球という惑星は、他の動物たちの楽園となっていたかもしれない。では何故ゆえにここ十数年でそのような意味不明なことを考え始める輩が擡頭してきてしまったのか。

それは紛れもなく先進国をはじめとした情報化社会の進展が主要因であると私は考える。その理由は以下の3点にある。

自身の無能さ、無力さの認識

まず、特に東洋では顕著であるが、高度な学歴社会によって幼少期からの健全な自己愛の形成が困難になることは容易に想像できる。何故なら、人々は試験の点数という画一的な指標によってその技量を測られ、そして比較されるからである。このような社会では、殆どの場合、この指標において自身より良い結果を残している人が自分の周りに居る。このことは、彼等の自信を喪失させるということに直結し、また「他の人間は価値がない自分と関係を築きたくないのではないか」などの感情を覚え始めることにも繋がりかねない。このような社会において、この思考に陥ってしまった輩はどんどんどんどんその孤立を深めていくのである。

ここまでは、まだ少し昔でもあり得た、高度社会で引きこもりになる人の過程の話である。然し乍ら現代はそう簡単にはいかない。先程述べた情報化社会がここで襲いかかってくるのである。現代のように高度に情報化した社会では、少し検索をすれば、自身よりいくらでも上位の存在がわんさかヒットする。この情報化社会におけるインプットの量は、情報化前の社会のそれとは譬えん方なく、まさに月と鼈ほどの差がある。現代社会では自分というちっぽけな存在の無力さを毎日、毎分毎秒のように痛感することになるのだ。

日本には井の蛙大海を知らずという諺があるが、まさにその通りで、もし自分と比較する対象がいないのであれば、自分の無力さは全く感じないだろう。それが今や小学生や幾らかの幼稚園生までもが持っている携帯一つで簡単に検索してその無力さをいとも簡単に認識できるような世界となってしまった。それは生きづらいのも当然だろう。

そのように自身の小ささを幼少期から知っていながらも、自分というアイデンティティを構築されることを求められるのが現代社会である。私も経験したことがあるが、受験や就職における「自分はどういう者でどういうことができるのか」という問いは現代社会を生きる若者にとって苦痛以外の何物でもない。

情報化される前の社会、また現在の所謂後進国などでの自分の周りという閉鎖的で矮小なコミュニティにおいては、何かしらのこと、雑多な物事の中から一つくらいは自分が他人より優れている点を見つけることができるだろう。然し、情報化社会においては、その経験が幼少期にまったくといっていいほどできないのだ。この経験ができないということは、前述した自己愛の形成の失敗にも繋がり、「自分のような周りと比べて何も出来ない存在が生きている意味などない」という思考を形成し、ひいては「自分という存在は世界が回っていくにあたって無用の長物だった」ということを悟ることにさえも繋がる。そしてそんな思考のスパイラルに陥った彼等は、最終的に生きている意味が見い出せなくなり、希死念慮を抱くようになってしまうと考えられる。

自分の曖昧さの認識

加えて、世の中にある程度存在する考えの為、本稿では詳述こそしないが、情報化した社会によって、自分自身がよくわからなくなってしまうことも希死念慮を抱く原因として考えられる。と言うのも、情報化社会においては、自分が進むことのできる道が多くなり過ぎてしまうからである。

戦後すぐの日本では社会に出てからも、ある程度自分のやるべきことのレールが敷かれていた。よって時代背景も相俟って、そこまで「自分とは何か」という疑問を抱くことはなかったであろう。然し乍ら、ここ最近では急激な情報化やテクノロジーの進歩によって、その敷かれていたレールがヒュドラの頭かのように指数関数的に増加してしまったのだ。

選択肢が多すぎるとなると、その中から自分が本当にやりたいことが選べず、結局自分のしたいことが明確に決まっていない殆どの人間はは露頭に迷うことになる。これは選択のパラドックスとも呼ばれるものだ。そして畢竟するに自分のやりたいことがわからず、自身の生きる意味が見いだせなくなる。以上の理由から、既述した内容とはまた違う情報化社会による弊害で希死念慮を抱くようになるのだ。

また、ネットのない情報化する前の社会においては、孤独を紛らわせるために自分が嫌いな人や話が合わない人と話すということが往々にしてある。然し乍ら、現代の先進国においては、いくらでも自分と性格や趣味嗜好が合う人と容易にネットで繋がることができるようになった。このことから、自分の嫌いな人や話が合わない人と付き合う必要がなくなってくるのだ。一見すると、これは孤独とは全くの無縁かのようにも思えるが、これでは社会的な絆や自身のストレスとなる事柄への耐性を形成できないため、特に若年層を中心に孤独や孤立が深まってしまうと考えられる。

自身の無価値感の認識

他にも、情報化社会では、加工され編集された他人の情報が飛び交っている。それ故に、現実の社会で自分が面している現状に劣等感や孤立感を感じ易くなる。そうなると、「孤独の中で自身の価値がない」などという考えが頭の中で幾度も反響してきて孤独という負のループに陥ってしまい、そこからなんとなく死にたいという思いが増幅されると考えられる。

その他の要因(立場別)

これに加えて、若者は思春期時における強烈な思い込みやジェットコースターなどにも喩えられる感情の乱高下、そして「学校」などという問題を解決するには程遠い閉鎖的且つ極度に均質化された環境も相俟って、具体的な死に方を模索し始めるようになり、最終的に死に至るのだ。

一方の社会人は若者とは全く異なる。彼等は、殆どの場合会社という短期的な利益を得るがために社員を奴隷の如く湯水のように扱う組織に属している。この為、社会人は毎日のように仕事に追われ、「眼前のタスクを直ぐになんとかしなければならない」などという焦燥感に駆られることになる。これだけでもストレスを溜めやすいのに、この仕事を、生きていくために何年も続けていかなければならないという現実に直面すると、より苦痛を感じるだろう。また、苦手な仕事があると、上や同僚からお前は無能だという烙印を押されることになるが、これは自分は誰からも助けてもらえない、無価値な人間だと認識してしまうことを更に助長する。

もし、上の立場の人間になったとしても、そこには責任が付き纏う。上の立場の人は、弱みを見せず、強くあることが求められる為、平社員以上に他人に頼りづらい雰囲気となる。これは、日本の自殺率の統計を見れば自明で、実際、40-50代の男性、つまり責任を持つようになった人々の自殺率が高い。このように、焦燥感、無価値感、責任の増大等の要因は、希死念慮、ひいては自殺念慮を抱く事をを後押ししていると云えるだろう。

以上のような理由から、情報化社会とは、自分を痛めつけるような思考の醸成を大いに手助けしてくれる素晴らしい社会の事である。勿論、情報化社会以外の問題も人間が希死念慮を抱くことに多少は寄与しているだろう。その例を挙げるとするならば、先述したように責任が増えていることや、日本人の殆どが無宗教或いは仏教を信仰していることなどだろうか(無宗教ではキリスト教やイスラム教の様に自殺が禁じられておらず、仏教では輪廻転生や極楽浄土などの考え方がある)。だが、此れ等は情報化社会ほどの主要因とまではなり得ないと思われる。そもそも、昨今、人間が死にたいという考えを持つようになった理由を先進国を端とする問題ではないまた別の要因であるとするならば、自身をHomo Sapiens などとぬかす生物の人口は2058年に100億人を突破するなどとは想定されていない筈だ。

感想

素晴らしいことではないか、死ぬというのは。嫌いな自分や社会と一瞬でおさらばできるのだから。本筋から少しズレるが、この際死ぬ人に周りの人が困るなどといった綺麗事は通用しない。ここまで私のnoteを読んでくれた諸君ならわかりきっているであろう。此れ等の言葉を送られる人々は自己愛の形成の失敗により、自身は無価値な人間だという認識を保有しているため、彼等にもし貴方が死んだら周りの人が困ってしまう/悲しんでしまうなどと訓導することなぞ全くの無意味である。残念ながら完全な裏目になってしまうことになるので、全くオススメはできない。

このような場面において重要なのは、彼等を止めないということだ。ただ彼等が悩んだ末にルビコン川を渡ろうとすることを肯定してあげることが肝要だ。正直、卑屈者の私にとっては肯定されている自分にさえ、素晴らしい情報化社会の恩恵により嫌悪感を抱くが、死ぬ前にはそんなことを考える暇もなかろう。


結論

人間は、最近の情報化社会により何もかもすぐに調べられる世界が擡頭してきたことによって自分の無力さを痛感し、生きる意味を感じられなくなり、死にたくなるようである。

こんな一介の高校生による稚拙な文章を最後の方まで読んでいる忍耐力のある読者一同に、誠に不遜ながらささやかな助言をしておこう。まず死にたいなら死ね。もし死ねないなら生きろ。そして死にたい奴を止めるな。まずは肯定しやがれ。私からは以上だ。

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