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IBDPの嫌いなところ

突然だが、私は現在、とある高校で国際バカロレアのディプロマ過程を受講している。入学してから一年強ほどこのIBという教育を経験してきて、些か可笑しい点があることにも気がついた。そこで、いつもとは打って変わって、今回は現役のIB生がIBの好きになれないところをいくつか挙げ、その理由を説明していこうと思う。

宿題

IBに入学する方やその親御さんが良く聞くのは、宿題が以上に多いという点だろう。日本の教育やアメリカ式カリキュラムを実際に経験してきた私からしてみても、IBの宿題の量は他のカリキュラムと比較しても多く、ストレスも溜まりやすいと言わざるを得ない。例として去年の冬休み(2週間弱)の宿題を挙げると、国語の一教科に絞っても450ページにも及ぶ小説を読み、その小説に対する2000文字を超える分析批評をしなければならなかった。このレベルは長期休暇以外はあまり出されないが、千字を超える小論文を書く宿題や、実験への10ページをゆうに超える振り返りなどが各教科からしばしば出されるので、IB生は慢性的に寝不足になっている。事実、私のクラスの半分以上の人たちは、はっきり言ってまともに授業を受けられる状況にはない。朝起きられず遅刻するクラスメート、体調を崩してほぼ不登校同然となった生徒をたった24人しかいない我が高校のクラスで一体何人見たことか。こんな凄惨な状況の中、たった2年弱の勉強による希薄だが膨大な知識をたった一回の最終試験というその場発揮しなければならないのがIBの教育だ。酷なものである。

CAS

続いては、CASだ。CASとは、Creativity(創造性), Activity(活動性), そしてService(奉仕)の頭文字をそれぞれとったもので、日本における課外活動のようなものである。日本語版の指導の手引き、いわゆるIBを教える教師に向けたハンドブックには以下のように書かれている。

「創造性・活動・奉仕」(CAS:creativity, action, service)は、DPの中核です。「IBの 使命」や「IBの学習者像」の倫理原則に沿って、生徒が自分自身のアイデンティティー を構築するのを後押しします。CASでは、DPの期間を通じて、アカデミックな学習と 同時並行して多岐にわたる活動を行います。

「知の理論」(TOK)指導の手引き(2015)

CASでは、このCreativity(創造性), Activity(活動性), そしてService(奉仕)の三つに当てはまる事柄をバランスよく18ヶ月間連続で行う必要があり、毎月自身が行った事柄についての振り返りをしなければならないとされている。また、CASの活動を通して7つのLO(Learning Outcomes), 主要な学習成果を達成する必要がある。

CASでは、一応自身の好きなことも活動として行うことができ、例えばActivityでは自身が幼少期から続けてきたスポーツをする人が一定数いる。このようにCASは自分の興味関心を深めることができるという利点もあるが、一方で一ヶ月も休むことなく行わなければならない点や、短期的な成功のみを是とするように助長している点もあり、此れには強く反対し非難する。特にCASのS、Serviceにおいては、事実上IBが望んでいるような慈善活動ではなく、言うならば“偽善活動”と化していることは否めない。要するに、多くのIB生たちは自身が周りやIBから良く見られるためだけにCASを行っているということだ。実際、私が通っている高校の多くのIB生は、老人ホームの手伝いなどのボランティア活動を忙しい学校生活や部活動などと鼎立することを強いられている。本来の社会奉仕というものは、恵まれない人や助けを必要としている人をIB の署名が入ったくだらない紙切れを手に入れるためや、自身が世界を変えているという誤認識による自己満足を得るためではなく、むしろ真の連帯感を以て行われるべきである。

また前述したように、CASにおいては、毎月自身が行った事柄に対しての振り返りをしなければならない。しかも、行ったこと及びそれに自分がどのように感じたか、失敗したこととそれを次どのように克服するかなどと、かなり詳細に書かなければならない。このことは上記した大量の宿題を片付けることを大いに阻害しIB生たちのストレスをより増大している。以上のことから、CASはIB生の中で嫌われている科目の一つとなっている。

CASの本質は生徒が人として成長し、新たなことを実現することであるといえる。このIBの考え方には大いに賛同できる。然しながら、IBが推進しているCASでは、ただ生徒に自身の望まないことを強要させるだけでは飽き足らず、振り返りによって彼らのストレスを肥大化させているだけなのだ。

TOK

次に挙げるのは、TOK(Theory of Knowledge)、日本語では知の理論とも呼ばれる科目だ。この授業は、正直のところ私の学年のほぼ全ての生徒に忌み嫌われている唯一の必修科目と言っても過言ではない。

TOKは日本語版の指導の手引きにはこのように書かれている。

「知の理論」(TOK)の全体的なねらいは、「あなたはどのようにして知るのか」(How do you know?)という問いに対する答えを生徒がさまざまな文脈において考え、この問い の価値を認識するよう促すことにあります。

「知の理論」(TOK)指導の手引き(2015)

TOKは、単刀直入に言うと「知る」とは何かどのようにして「知る」のかなどについてを批判的に考える、哲学的な科目である。指導の手引きにもあるように、TOKの要旨は様々なものの見方を身につけることや、知識領域を批判的に考察することにある。このIB特有の必修科目であるTOKでは、プレゼンテーションなどを通してその理解を深めていき、最終的に小論文をIBに提出することでEE(課題論文)の評価と合算されて最大3点満点のボーナスポイントが最終的なIBスコア(45点満点)に付与される。

IB未履修の人間の大部分は、ここに何ら問題はないと考えるだろう。実際私もIBコースを始めた当初はそのように考えていた。然し、私が提起するTOKにおける問題はそのTOKの根本にある。TOKでは、ある物事(Object)を12個のTOKの鍵となる概念(Key Concept)及び35のIAプロンプトの何れかと結びつけて思考する必要がある。ここで批判したいのは、TOKでは物事をただ小さく出鱈目な枠組みに分類することに多くの時間を消費し、眼前のアイデアを実際に議論したり、または問題について考えさせたりすることは全くと言っていいほど無いということである。正直、このような授業を展開しているTOKの時間の無駄であり、この授業には生産性は欠片もない。実際、多くの生徒がこの問題を認識しており、上述したような膨大な量の宿題を終わらせるために本授業を使ってたびたび内職をしている姿が見られる。

また、大嫌いだと云う生徒がとても多い本科目は一見哲学的な要素が含まれているものの、その実態は哲学とは大きくかけ離れている。TOKは、哲学のように抽象的な概念についてを分析することは殆どなく、寧ろ具体的な物事にどのような抽象的な概念が当てはまるかについてを生徒に考えさせることに終始している。このTOKが哲学的なものと誤認されていることは、皮肉にも多くの生徒たちを混乱させることに成功している。そもそも、TOKに依って混乱する人たちは大まかに二つに分類することができる。一つ目は哲学は好きだけれども、TOKにおける知識を獲得する方法やその知識をどう活用するかを理解することの意味を見出せない人たちだ。もう一つは、そもそもTOKのような日常生活に関係のない、全く干渉してこない物事に全く関心を持てない人たちである。正直後者の人たちには、TED TALKをずっと視聴させられる授業は退屈で仕方ないだろう。しかし、前者の本来哲学的な議論が好きな筈の著者のような人間すらも、TOKは敵に回しているのだ。また、TOKでは、既述したように「知」とはなにかについてを考える学問だが、その問いを解決することが授業内では全く出来ず、なんなら先生でさえもTOKにおける「知」についての理解が不十分であることが殆どだ。なんなら大元のIBですらTOKのカリキュラムをコロコロ変更させていることからも、このTOKが如何に巫山戯た科目であるかがわかるだろう。

他にも、TOKには批判すべき点がある。お分かりの通りTOKはとても一概には言語化できないような抽象的な物事に足を踏み入れている。だが、それをIBは生徒が抽象的なコンセプトに基づいて書いた小論文を用いて点数という具体的なものに落とし込めようとしているのだ。IBや学校側は、非常に曖昧な採点基準を以て正解・不正解という型に嵌め込もうとしている、これは失策以外の何物でもない。

加えて、考えても何の意味もない問いを数時間に渡って延々とディスカッションすることもある。実例を挙げるならば、「ダダイズムは絵画といえるのだろうか」や「数学は抽象的か」などが挙がるだろう。考えたとこで何になるんだよ。少しはTOKが如何程に無益な科目であるかがお分かりいただけただろうか。

ここまでTOKを否定してきた私だが、TOKにおける「物事を複数の側面から見る」能力を育成しようとする理念には賛同できる。なぜなら、社会に出てからもある物事を多角的に捉えるられるようになることで、物事をよりフラットな視点から見ることができるからだ。だが、TOKの教育では一貫して抽象的な概念と具体的な概念を同時に考えさせることに注力しており、それが何につながるのかの説明も全くなされずに淡々と授業が進行していくのみとなっている。これが問題である。

更に、これはEE(Extended Essay, 課題論文)やIA(Internal Assessment、内部評価)などにも同様のことが謂えるが、文章で述する出来事は全て赤ちゃんにもわかるように手取り足取り書かなければならない。まあIBの言いたいこともわからなくはない。特にTOKでは我々生徒が設定したお題について教師が全く知らないことが殆どだし、ある程度の説明が必要なのは間違いない。だが、如何せんそこまで書いてると文字数が足りなくなるのにそれを先公にチンタラ文句を垂らされるのはかなりストレスが溜まる。帰ってきた文章に「why」とか「how」などの単語が羅列してあることは、どんなに気をつけたとしてもほぼ必ず起こる事象なのもそれに拍車をかけている。

科目選択

最後に紹介するのは、科目選択である。日本にある多くのIBDPを採用している高校では、高校一年生の後期にこれから二年間勉強する科目を決める科目選択という一大行事がある。この科目選択では、HL(Higher Level)及びSL(Standard Level)で合計6科目(基本的にはHL3つ、SL3つ)を選択しなければならない。その6科目はそれぞれグループ1(母国語)、グループ2(外国語)、グループ3(社会科学)、グループ4(自然科学)、グループ5(数学)、グループ6(芸術またはグループ3、4からもう一つ)の中から一つずつ選択する決まりとなっている。確かに、日本と比較すれば受講しなければならない科目数は少ないが、それ以外のCAS、EE、TOKなどの授業及び課外活動もあり、生徒の負担は総じて大きい。また、このような幅広い科目を生徒に学ばせることは、一方では総合的な能力の高い人材を作ることには非常に有効であると捉えられるものの、他方では一点特化型人材を潰すような教育をしているとも謂える。例えば、私は根っからの文系人間だが、IBでは歴史や経済といった文系に寄った文系科目以外にも、グループ4及び5の物理や数学などといった理系に寄った科目も学ぶ必要があるのだ。逆の理系に寄った人たちも然りで、彼らは文系科目も選択する必要がある。これらは旧態依然とした日本や中国、韓国、フランス、ドイツなどでの一発勝負の共通テストでは、生徒が受験する科目を絞ったり強制したりすることでテストにおける点数の正確性が保証されるため、よく採用されている。しかしながら、国際バカロレアという「より良い、より平和な世界を築くことに貢献する、探究心、知識、思い やりに富んだ若者の育成」と謂う目標を掲げているプログラムとこの生徒に幅広い科目を学ばせることは矛盾していると謂えるだろう。何故なら、より良い世界を築くための人材を本当に育てたいのあれば、生徒自身の好きな/得意な分野に特化した教員がその分野に特化した人材を作る方がもっと効率的だからだ。もしもIBが点数の正確性を保証し、より多くの大学に入試形態として採用してもらい、生徒や認定校により多くの阿堵物を落としてもらいたいのなら話は別だが。まあ、そもそも他の科目と比較して物理や数学のIBディプロマ取得率は低いなど科目によって難易度に差があるため、正確性という点には疑問符が残るんですがね。

結論

カリキュラムを受けている私からすると、IBは基本的には素晴らしい理想を掲げている立派な教育プログラムの一つであるといえるだろう。もし違うのならここまで世界的に普及している筈がない。だが、その理想を達成するために行っているカリキュラムには、若干の矛盾点や非効率的な点が散見され、またIBという非営利団体(笑)が利益を上げる工夫が数多く見受けられる。以上のような点に数多のIB生たちは多かれ少なかれ不満を抱いているということはお含み置き頂きたい。

この記事が少しでも自身の進路を決断することに寄与したり、国際バカロレア教育における労苦が和らぐものとなったら幸いだ。

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