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川治湯元へ行った話

 電車はぐんぐんと景色を追い越し、山野がどこまでも続く世界へ分け入っていった。今朝までいたはずの都会の面影はすっかり消え、この旅の行く末に期待が膨らんだ。

 今週は本当にひどかった。会社の配置換えで、残業が当たり前の部署に異動になってしまった。はじめての業務に慣れないのは当然としても、周りの誰も彼もが忙しそうで、同じ空間にいるだけで息苦しかった。「週末はどこか気の紛れるところへ行こう。」という夫の気の利いた提案に乗り、郊外の温泉地へ出向くこととなった。夫と私は温泉好きで、遠出をする際はもちろん、普段から近所の温泉施設によく出かけている。お風呂は男女別だから、服を着たまま入れる岩盤浴などを推している施設もあるが(当然のように何組ものカップルで混雑している)、私たちは岩盤浴よりも温泉に浸かることを好んだ。それぞれ一人で温泉に浸かり、思い思いにゆっくりと過ごす。お風呂から出ると、あの浴槽はどうだったとか、何回サウナに入ったとか、お互いがどう過ごしたのか話す時間も癒される。誰に気を遣うこともなく、ゆっくりと体を湯に沈める時間が私には必要だった。

 電車をいくつも乗り継いで、山間の無人駅にたどり着いた。山との距離が近い。空気は少し標高が高いせいか、ひんやりと澄んでいた。深呼吸をして、リュックで凝った肩を軽くほぐした。まだ桜が咲いているのか、としみじみしながら、宿までの道を歩いた。

 その宿はバブル期に作られたらしく、そこかしこにノスタルジーを感じさせる佇まいだ。低い天井、全面に敷き詰められたカーペット、最近張り替えたと思われる壁紙。施設案内を見ると大きな宴会場があるようだ。フロントではスタッフが一人、宿泊客の相手をしている。他に案内人がいないので、ロビーのソファに腰掛けて待つことにした。このソファも、どっしりとして古めかしい感じがする。夫は近辺の観光案内チラシを眺めている。この辺りは有名な温泉地に隣接してはいるものの、さらに山奥深くへ入ったところにあり、さしずめ秘境のようなところだ。私たちの他に観光客は数えるほどしかおらず、その観光客が乗ってきた電車も日に数本しか走っていない。コンビニもなければめぼしい飲食店もないため、必然的に食事は宿でとることになる。夫の見ているチラシの行楽施設も、ここからは電車を乗り継いで行かなければならない。
「お客様、ご案内いたします。」
 先客の案内を終えたフロントマンがこちらへ来て言った。カウンターへ移動して手続きをする。
「今いらっしゃるここは、実は2階にあたりまして、お部屋はあちらのエレベーターを降りた1階でございます。大浴場はさらに下のB1階にございます。」
 なるほどと、外から見たホテルの外観を思い出した。すぐ横を川が流れており、ホテル自体はかなり急な坂に切り立つように立っていた。坂の途中に入り口があるというわけか。
 それから食事会場など諸々の説明を受けたあと、部屋へ向かうことにした。部屋へ着くまでの間にも、カラオケルームやゲームコーナーなど、最近は備えている宿の方が少ないような懐かしい設備を見つけられた。ただし利用者はおらず、賑やかな音楽がかえって寂しさを際立たせていた。
 肝心の部屋はというと、値段に不釣り合いなほど広くゆったりとした空間が広がっていた。リフォームの甲斐あってか、古めかしさはかなり軽減されている。フローリングのベッドルームに和室の居間、最近は見なくなってしまった広縁まで、清潔に整っている。壁一面の窓からは、冬枯れの山々を背景に、ホテルの横を流れる川がよく見える。窓を開ければ立春の少し冷たい風とせせらぎの音、鳥の声が飛び込んできた。ぼーっと眺めていると、頭が整理されたせいか、仕事のことを思い出した。せっかく忘れに来ているのに…。振り払おうと温泉に入る準備を始めた。
 大浴場へは部屋のタオルを持っていく方式らしい。どうせ何度も入るだろうからと、タオルと館内着だけ持って行くことにした。大浴場へは一つ階を降りる必要があるが、エレベーターを使うほどではないだろう。それらしい階段を探し、降りていく。

 ソファと自動販売機が置かれた簡単な休憩スペースを抜けると、脱衣所がある。ロッカーではなく、籠に衣類を入れる形式らしい。脱衣所に人はいないものの、壁に並んだ籠のいくつかにバスタオルが覗いている。それほど混んではいないようだ。角の中段の籠を使うことに決め、服を脱いで入れた。上から目隠しにバスタオルをかけ、浴室用のタオルを持ってお風呂へと向かう。
 浴室の扉を引くと、もわりとした湯気に満たされていた。視界が効かないが、広い内湯に先客がいた。すぐにでも浸かりたい気持ちを抑え、洗い場へ向かう。他に誰もいないので、選び放題だ。誰も使っていなさそうな椅子を選んで座り、全身をすっかり洗った。お湯に浸からないよう髪を結い、よし。先客は私が洗っているうちに上がったらしい。誰もいない湯船に足を浸ける。あたたかい。あつい。でも気持ちがいい。ゆっくり肩まで沈め、一息つく。あつめのお湯から立ち昇る湯気で、浴槽の隅々までは見えない。でもそれがかえって良い。何も考えず、ぼんやりとするには、世界が曖昧な方がいい。湯気が思考までも覆ってしまったかのような心地よさに包まれ、しばらくぼーっとしていた。
 すると、ガラガラという音がして、裸の女が浴室を横切った。露天風呂だ。少しのぼせた体を湯から揚げ、人が来た方へ行ってみると、露天風呂へと続くガラス戸が現れた。ガラガラと音を立てて戸を引き、外へ出た。ひんやりとした空気が火照った体に心地よい。外には二つの風呂があった。まずは川へ迫り出している方の浴槽にしよう。少し冷えた体を湯に浸けると、内湯よりさらに熱い湯で、体がビリビリとしびれた。身震いをして耐え、慣れてくるとすぐに心地良くなった。野外なので湯気は霧散し、川向こうの山々がよく見える。熱い湯と涼しい風のコントラストを味わいながら、川の方へ移動する。迫り出した位置から下を覗き込むと、浅い川が流れるのが見えた。こちらから見えるということは、向こうからも見えるのではないか。幸い人はおらず、欲望のままに景色を堪能した。
 熱さに耐えかねて、一度風呂から上がる。もう一つの露天が気になる。川とは反対の、奥まったところにひっそりとしている。風で体を冷ましながら、そちらに向かう。警戒しつつ湯に入ると、ぬるい。ぬる湯だった。これはちょうどいい。熱すぎず、寒いほどでもない。顔を風に当てながらなら、いくらでも入ったいられそうだ。少し浅いところがある。そこで体をぐっと伸ばし、体の疲れが溶けていくのを感じた。改めて、泉質がいい。透明なお湯。体に染み込んでいくようだ。このお湯に溶けてしまいたい。重い体を背負って風呂から出た。

 夫はとっくに上がっていたらしい。部屋でテレビを見ていた。
「どうだった?」
「気持ちよかったね」
「少しゆっくりしたら、ご飯に行こう」
 夕食は会場でのバイキングだ。客室と同じ会に宴会場がある。着くとすでに何組かが鍋をしていた。スタッフに案内され、席を適当に選び、食事を取りに行く。お刺身、天ぷら、中華風の炒め物、パスタ…。悩みながら少しずつ皿に取り、席に戻ると、鍋があった。どうやら全ての客に出しているようだ。しまった。すでに十分な量を盛ってきたのに。夫も同じく、少し困惑していたが、ホテルなりのおもてなしだと思い、ふうふう言って食べた。
 翌朝もバイキングだった。しかし、流石に鍋はなく、ソーセージやら卵やらおかゆなんかを程よく食べた。
 満たされた気持ちで宿を後にし、また長い長い道のりをゆっくりと帰っていく。家へと続く線路の上を、どんぶらこどんぶらこと電車に揺られ、少しほぐれた気持ちを抱えて、同じ日常へと戻るのだ。

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