記述式導入への大逆風は、入試そのものを見直すチャンス

 文部科学省が計画している記述式の入試問題の導入をめぐって、公平な採点が困難だとの理由から批判の声が高まっている。図らずも入試制度の矛盾や限界を露呈したといえよう。

 詰め込んだ知識や正解の決まっている問題を解く能力よりも、自分の頭で論理的に考え、表現する能力を重視する。時代を見すえたその認識は正しい。ところが、決まった正解がないだけに客観的な評価、とりわけ点数化することが難しい。かりに客観的に評価し、点数化できるような問題をつくろうとすれば、従来のマークシート式や短答式の問題と大差がなくなってしまう。

 この矛盾こそ、入試制度そのものが内包している大きな問題の正体である。それは入試という制度のなかで重要な能力を判定し、選別することが正しいか、否かである。

 そもそも大学入試の目的は、受験者に大学教育を受ける能力が備わっているか否か、あるいは大学教育の効果が期待できるかどうかを判定するところにあるはずだ。その意味では資格試験に近い性格のものであるべきだといえよう。いずれにしても、より高い得点をめざして競争させる性質のものではないはずだ。

 もっとも、より「優秀」な者を入れるという考え方も理解できないわけではない。しかし今回の入試改革の前提になっているとおり、決まった正解がない、すなわちあらかじめ客観的に評価することが困難な能力がますます重要になっていることを忘れてはいけない。

 そしてもう一つ大事な点は、競争が激しいほど受験勉強に大きな時間とエネルギーをとられるということである。勝つか負けるかの受験勉強が勤勉性や達成能力などを育てるといった理由で、現状を肯定する意見もあるが、それは一種の随伴的な効果であり、必ずしも受験勉強でなくてもよいはずだ。頭が柔らかく可塑性に富んだ若い時期に、自分の得意なものを伸ばしたり、ゆとりをもって生活したりするほうが将来のためになるかもしれない。ちなみに、いっとき酷評された「ゆとり教育」だが、その「ゆとり世代」から近年、スポーツ、芸術、IT関係などで世界に羽ばたく若手が続々と誕生している。

 要するに、学教育を受ける能力があるか否か、あるいは大学教育の効果が期待できるかどうかを判定するという入試目的の原点に返れば、1点でも高い得点をめざして競争させる必要はない。大学側の受け入れ可能な人数に絞るには、他の方法もある。

 一つの方法として、私は一定水準に達した者を抽選で選ぶようにしてはどうかと提案している。「抽選」というとあまりにも無責任で荒唐無稽な印象を与えるかもしれないが、いくつかの条件をつけ、かつ工夫すれば導入が可能だし、長期的にはより大きな効果が得られると信じている(拙著『個人を幸福にしない日本の組織』新潮新書、第5章)。

 かりにその趣旨には賛同しても、推薦入試やAO入試と同じではないかという人がいるかもしれない。しかし推薦入試にしてもAO入試にしても、人が「選ぶ」というプロセスが存在する以上、上述したような弊害を排除することはできない。しかも競争が激しくなるほど、一般入試と同様の弊害が表面化してくるだろう。

 「人の手」による選別と、「神の手」による選別とは根本的に違う。大学入試は社会的な関門になっているゆえに存在感が肥大化し、自己目的化している。それを本来のあるべき姿に戻すには、いわば必要悪としての選別を「人の手」から「神の手」に移譲することが望ましい。国立大学において、定員の一部だけでも入試に「抽選」を取り入れてもらえないものだろうか。

「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。