「空気を読める」ということ

 学生の就職活動を見ていて強く感じることがある。早々に内定をもらってくる学生に共通する特徴は、彼らが「空気を読める」というところだ。企業の中でも高い地位に就いている人たちも、たいていが人並み外れて空気を読める。

 ひところ「KY」(空気が読めない)が流行語になり、逆に空気を読みすぎる社会に疑問の目が向けられた。しかし空気を読むことと、それに従うこととは別であり、「空気を読んでも従わない」ことが大切だと私はたびたび説いてきた(拙著『「不良」社員が会社を伸ばす』東洋経済、2010年、同『認められる力』朝日新書、2009年など)。「読んでも従わない」ためにも、場の空気を正確に読み、自分の行動が周囲にどんな影響を与え、周囲の人がどう反応するかを予測する力を必要とする。

 そもそも日本のように本音と建前の乖離が大きく、目にみえない本音で動いている社会では、本音の集合である空気を読めなければ正しい判断ができない。

 そして、空気が読めるということはきわめて高度な知的能力である。なぜなら、空気を読むプロセスでは無限に近い情報が高速で処理されているからである。少なくとも、受験で問われるような知識や限られた情報の処理力とは比較にならないほど高度な能力だといえる。

 AIの発達により人間の能力はつぎつぎと代替されていく。専門知識や論理的思考力などもAIの得意とするところであり、知識や論理展開とその応用だけに頼っているようでは専門職の仕事も不要になる。逆に最後まで淘汰されない能力の一つが「空気を読む」能力ではないだろうか。

 部下・同僚や取引相手の隠れた本音、自分が社内で置かれている立場、社内の空気、消費者心理に影響する社会環境の変化、等々を正しく読めるかどうかは決定的に重要な能力である。

 冒頭で述べたように現在でも社員を採用するとき、社内でリーダーを決めるときなどには「空気が読める」かどうかが問われ、それによって評価されている。にもかかわらず教育現場ではそれを意識的に鍛えようとはしてこなかったし、社会でも表だって評価しなかった。つかみどころがないので評価しづらいという理由もあるだろう。しかしAIによる能力の代替、淘汰がいよいよ本格的に進もうとしているいま、「空気が読める」ということの価値を真正面から評価せずにはいられないだろう。

 

「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。