創作エッセイ(49)作家にとってのインプットとは

近年では、作品を書くことをアウトプット(出力)と呼んでいるようだ。そしてそのためには知識や情報のインプット(入力)も重要であるなどとも言われている。今回は、この作家にとってのインプットについて、日ごろから考えていること。

インプットは書物や知識だけじゃない

 作品のアイデアや物語の筋、キャラクター造形などで必要となる情報は、まず「過去作品をどれだけ知っているか」である。商業作家で専業でやってきた人たちの話を伝え聞くに、その読書量は尋常ではない。「中学校の図書室の本を全部読んだ」とか、「毎日、文庫本を~冊読み終えていた」とかのエピソードが語られていて驚かされる。
 だが、そのインプットの内容は書物や知識などの情報だけではない。同じ程度に重要なのは各種の体験なのだ。

体験で得られる情報

 体験で得られる情報は、知識情報に加えて「心に湧いた感情」や、「受けた印象」さらには「目で見た色や、匂いや手触りなど」の細部にわたり、なおかつ記憶の奥に刻まれる。これが大きいのだ。
 私の場合だと、営業職やディレクター職に就いた時の体験が、実際の社会の動きや、対人関係の心の動きなど、作品を書く上でのリアリティ演出に大きく影響を与えている。特に営業経験とコールセンターでの苦情電話対応では、人の心の動きなどを学ぶことができた。本来、孤独好きで人間関係を煩わしく感じるタイプなので、この業務を担当しなければ、まともな作品書けなかっただろうなと感じる。

普段から思っていることがテーマになる

 実際の社会問題など、報道や書物で得た知見に対して常に疑問や意見を考えることも重要である。
 自分の中に気づいたことなどがあれば、作品のアイデアを得て構想を練る際に、「この~の物語に、常々思っている~に関する問題提起ができるんじゃないか?」というテーマの発見につながるのだ。
 これも重要なインプットである。

作家としてのモノの見方につながる

 以前も書いた「相対化」というものの見方もインプットの中で出てきた気づきである。
 例を挙げると軍歌がある。かつて団塊の世代が若者だった時代、戦中世代の愛好する軍歌を「戦争に対する反省がない」と彼らは嫌悪してきたのだが、その彼らが年老いた今、その軍歌と同じように「全共闘世代を美化して、テロリストを英雄視している」と非難されているのが、団塊世代の愛唱歌「友よ」とかのフォークソングである。
 イデオロギーの左右の向きは違えども、過去の時代を象徴して、若い世代から呆れられているのは全く同じである。
 このような皮肉な見方が相対化である。「黒か白」か「1か0か」という見方の拒否でもある。
 嫌っていたあの人が、実は自分とまったく同じような挫折体験を持っていて、その体験から心を拗らせてああなっていた、という経験がある。
「俺もあの体験で暗黒面に落ちていたら、彼のようになっていたかも」と気づくと、怒りも収まってしまった。

街へ出よう

 かつて「書を捨てよ街に出よう」という寺山修司の評論が世間を席巻した。1967年のことである(私は小学生・苦笑)。後には戯曲・映画にもなっている。
「家出」を通してアイデンティティの獲得系の話が書かれている。
 作家として物語を書きたい人は、書を捨てる必要はないが、街へは出るといい。いろいろな体験をインプットした方がいいのだ。体験は書物と同じぐらい「気づき」に満ちているからだ。
 体験とは「気づき」のインプットなのである

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