創作エッセイ(6)物語とその舞台のマッチングに関する考察~「人狼」とケルベロスサーガで考えたこと~

物語とその舞台のマッチングに関する考察
~「人狼」とケルベロスサーガで考えたこと~

(2004年 02月 15日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)

 99年に公開された原作・脚本 押井守の「人狼」をDVDで見た。
これは、「紅い眼鏡」「地獄の番犬ケルベロス」「犬狼伝説」と続く一連のケルベロスサーガと呼ばれるシリーズの最新作である。
決定的な敗戦から十数年――物語は,あり得たかもしれない戦後史としての昭和30年代を舞台に展開する。
 今回は、非常にクオリティの高い作品に仕上がっていて満足した。といおうか、以前の「紅い眼鏡」「地獄の番犬ケルベロス」がひどすぎた(俺的には)ためもある。
 一連のケルベロスで私が感じる「違和感」がいったい何なのかをこの機会にじっくり考えてみた。
 物語には、必ず舞台や世界の設定がある。作者のタイプにもよるだろうが、この物語世界と物語本体はどちらが先でも後でもない。そして、両者には必然性がなければならないと思っている。
 ケルベロスの初期二作において語られるストーリーには、この架空の昭和史でなければならないという必然が感じられなかったのである。極端な話、あのカッコイイ「プロテクトギア」や特機隊という設定は別の物に置き換えても十分だった。ただ、置き換えてしまうと、このシリーズは大変なことになってしまう。「起伏のないストーリーがモノローグの様に続く自主映画」になってしまうのだ。
 私は、このシリーズは「まず設定ありき」(決して悪いことではない)であったのだろうと推測する。ただ、そこに「展開する物語を間違えた」のである。
 他の監督の作品で例えるなら、ウォシャウスキーの「マトリックス」シリーズ。あの作品が「人と人工知能の確執を描いて、現代人の不安を浮き彫りにする」ために企画された作品だと思っているのは一部ボンクラ評論家だけだろう。あの作品の企画意図は「アメリカ人の俳優でカンフー映画と攻殻機動隊がやりたいんだよ俺たち」というところから始まり、「アメリカ人の俳優でカンフー映画」という不自然さを帳消しにするための舞台や世界を構築していった過程で、この世界なら「人と人工知能の確執を描いて、現代人の不安を浮き彫りにできる」じゃないか、となったのである。
 ケルベロスシリーズに関して私が感じる座りの悪さ感はこの「物語世界と物語本体との必然性」だったのだ。
 これは実は「人狼」でも言える。伏と娘の物語も実は本当の昭和史の中で、機動隊員と中核派の娘に置き換えても全然違和感がない。じゃ、なぜ架空の昭和史でなければいけないのか。まあ作者たちがこの世界を描きたかったからだろうし、それだけ魅力的な世界ではあるが、ならばもっと別のストーリーがあるんじゃない、というのが私の感想だ。
 そんな具合に突っ込みどころの多い作品ではあるがクオリティは高い。例えるならば、最高の器に、最高のスープと最高の具で作られたラーメン、でも麺は最高の「うどん」だったという感じ。惜しいなあ。
 ま、一番の突っ込みどころは、なぜアニメじゃなきゃいけなかったのかというところかな。
人狼 JIN-ROH←アマゾンへGO!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?