創作エッセイ(1)小説のための舞台設定、ロケハンなど

小説のための舞台設定、ロケハンなど

 ロケハンとはロケーション・ハンティングの略で、映画の撮影やドラマの収録の前に、撮影舞台や背景となる場所を探したり下見をしたりすることである。
 実は小説の執筆に当たっても、同様のことが必要になってくる。
 映像を撮るわけではなく、文字で語る作品なのに何故? という疑問も抱かれよう。
 私の場合の執筆は、「脳内のイメージを文字で描写」している感覚がある。そのため、脳内イメージを撮影する作業のために、「現地」へ行く行為が必要になるのだ。

実際のロケハン

 過去の作品では、その舞台になる場所は、営業担当先の岐阜県東濃地区(「尋ね人」)だったり、学生時代を過ごした豊橋市(「自転車の夏」)だったりという具合に、新たなロケが必要ない場合が多かった。
 完全なフィクションである「不死の宴 第一部終戦編」の場合も、舞台となる上諏訪は、三十年来の我が家の避暑地で、毎年訪問していて地理にも明るい。改めてのロケハンはほぼ不要だった。

ロケハンできない場合もある

「不死の宴 第二部北米編」の場合は、1956年の北米が舞台で少し困った。
 私は1958年生まれで渡米経験もないため、イメージ作りのために1950~60年代の映画やドラマを観まくったのだ。当時のコカコーラのポスターの図案や、大統領選の様子、その年のヒット曲や、東海岸と西海岸のラジオ局や人気番組まで調べた。
 また、架空の街アイルズベリーを舞台として構築する際には、中心部の駅やバスデポ、公園などの配置や、近隣のボストンとの位置関係、主要産業やその歴史など、直接物語には関係しない部分まで構築した。
 おかげで時間はかかったが、「リアリティがある」との評価をいただいている。

小説のロケハンで必要になること

 今執筆中の「不死の宴 第三部沖縄編」では、舞台となる沖縄本島と岐阜県高山市に取材に行った。必要だったのは「距離感」だ。
 具体的には、那覇市の中心部からコザ市(現・沖縄市)までの距離や移動時間などを体感することだった。頭の中で、自分の住んでいる愛知県と沖縄を重ねて、この距離は愛知県の名古屋市と豊田市の位置関係だなと脳に刻むわけだ。ついでに現地の書店で現地新聞社の出している戦後史系の写真集なども手に入れることが出来た。

舞台設定の構築で気づくこともある

 昨年執筆した「92'ナゴヤ・アンダーグラウンド」では92年の名古屋を思い出すために、改めて個人的な「聖地巡礼」をした。錦三丁目~丸の内三丁目の界隈や、千種区今池のかつて地下街があったあたりである。これもまたロケハンだ。
 脳内に、舞台となる三十年前の世界を再構築する作業である。この作業の途中で、当時の作者の抱いていた気持ちや葛藤等が、情景と一緒に蘇り、
「この光景に、~って気持ちを反映させられるやん」と気づいたりする。

 自分のとっては、脳内にあった曖昧なテーマを顕在化させる「気づき」こそが、執筆における重要な準備になるのである。


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