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92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(2)「サヨナラ」

#創作大賞2023  

第二話 「サヨナラ」(1992年秋)

 お洒落な戸建て住宅が並ぶ街を抜けると真新しい地下鉄駅のロータリーが現れる。高層アパートとショッピングロードが印象的な新しい街だ。
 夕暮れ時の表通りはきらびやかな灯りに映えて、行き交う人々も若やいだ雰囲気である。名古屋市名東区の藤が丘駅だ。
 地下鉄とはいうものの、二つ前の上社駅からは地上へ出て高架の上を走っている。駅舎も高架の上で少し未来感があった。
 東へ東へと街が拡張してきた名古屋市の一番新しく急成長中の街が藤が丘だった。
 駅前の中京銀行の駐車場に止めた車の中で、久利と山村は今回の回収作戦を練っていた。
 助手席で回収表を見ていた久利が顔を上げると、
「一年半ってのは長いけど、遅れてる理由は何?」と聞いた。
「やっぱり、問い合わせがさっぱりで、腹立ててるんです。もう今は新聞紙じゃない、求人誌の時代だったのに騙されたって」
「信頼度が欲しくてあえて中部新聞だって言ったの社長の方だろう?」
「ええ、当初ウチからは求人誌を提案しました」
「で、結局問い合わせゼロだったんだ」
「一件はあったそうですけど。決まらなかったと」
「じゃあ、社長の言い分はヤクザの難癖とかわらんじゃん」
「そ、そうなんですけど」
「請求書の再発行は?」
「二回出してます」
「一年半で二回は少ないなあ。毎月出すことも圧になるんだぜ」
「それも嫌みっぽくて、ちょっと抵抗がありまして、」と相変わらず山村は弱気だ。
「払わねえ方がよっぽど嫌みだよ」と久利。
 どうも社長が難物らしい。実際、会ってみるのが一番だ。
「まあ、当たってくだけろだね」
 久利はそう言って助手席の背に深々と背を預けると、
「ゴー!」と言った。

 その工場は藤が丘の駅から程近い長久手町にあった。
 造成中の宅地の外れで、宅地以外の三方は畑であった。広々と広がる荒野の中にぽつんと立っているようにも見える。
 自動車部品の孫請け工場らしい。
 部品倉庫の一角が仕切られて事務所になっている。
 久利と山村は、その事務所で社長と対峙していた。
 四十代前半だろうか、髪に白いものが混じり始めた中年である。他には地味な印象の事務の女性がデスクで伝票仕事をしているだけだ。
「すまんね、どうやらウチの検収漏れだったようだ」と社長が薄ら笑いを浮かべて言った。
 年下の久利と山村を、見下すような態度だ。いつも元請けの企業担当からこんな扱いを受けているんだろうなと久利は思った。その反発が自分より格下の広告会社の若い営業に向かうのだ。
「まったく効果のない広告だったから、出したことも忘れていたよ。支払いを忘れるのもしょうがないね」と皮肉たっぷりの物言いだ。
 山村は困ったような笑みを浮かべて、
「社長は毎月そうおっしゃるじゃないですか」と泣き声で言った。
「請求書再発行してくれた?」
「今まで二回出していますよ」
「二回じゃ少ないよ」と言って社長は嘲るように笑った。予想通りの回答だ。
 山村は舐められている、と久利は感じた。
 社長の態度は、自分より小さい動物を玩具のようにいたぶる猫科の獣を思わせた。
「社長、今回は再発行した請求書を持参いたしました」と久利が封筒を渡した。
「判った、じゃあ月末の支払日に予定しておこう」と社長は言った。
「いや今回は、明日お願いします。また来ますので」と久利はきっぱりと言い切った。
「おいおい、ウチの支払日を無視するのかねアドプランニング・遊さんは?」と社長は待ってましたとばかりに言った。
 久利は手にしていたバインダーノートを、目の前の机に力一杯叩きつけるようにして置いた。
 バン!
 事務所中にその音が響く。
 ぎょっとして凍り付く社長。久利の「堪忍袋の緒が切れた」という演技だ。
「社長さんよ、今まで御社の検収漏れで散々待ってきたんですよ。
 しかも私どもは、二回も請求書再発行して辛抱強く待ってきたんだ。
 まともな会社は検収漏れなんてしない!
 ところがお宅はその二回でも検収漏れしてる。
 最後ぐらい、こっちの都合に合わせるのが礼儀ってもんでしょうが」
 久利は立て板に水を流すように啖呵を切った。
 呆然と立ち尽くす社長。
「明日、お支払いください」
 その久利の言葉は「お支払いいただけますか?」という疑問形ではなく要請であり命令であった。
 何か言い返そうとした社長に、
「そうしないと、また月末にはお忘れになってるかもしれないじゃないですか?」と言葉をかぶせ、皮肉たっぷりに満面に笑みを浮かべてみせた。それが返って底知れない。
「じゃ、また明日来ますので」
 久利はそう言うと、山村の方を向くと、顎で「行くぞ」とサインした。

 翌日、アドプランニング遊の一階の自販機コーナーである。ここはエレベーターホールの一角で、自販機と灰皿が置かれ、喫煙スペースにもなっていた
 終業間近の夕暮れ時、窓からは日没直前の薄暮の空が覗いている。頻繁にエレベーターのドアが開き退社する連中が降りてくる。
 ベンチに座って缶コーヒーでブレイクしている久利に、内勤の女の子たちが会釈をして帰って行く。
 定時に帰れるのは経理や総務の内勤だけだ。営業は、このベンチでエナジードリンクを飲んでまた夜の街に営業に出る。ご丁寧に自販機の腹には「24時間戦えますか」というリゲインのポスターが貼ってあった。
 ベンチに腰を下ろしている久利の元に山村がやってきた。手にはそのリゲインを持っている。
「先輩、昨日はすっとしましたよ。
 今日、午前中に行ったら、社長の奴すんなり払ってくれました」
 山村の声は弾んでいた。
「あの手の奴は、相手がおどおどしてると図に乗るタイプだからなあ。俺みたいにヤクザになる必要はないけど、堂々としてればいいんだよ」
「それが僕には難しいんです。全然反響なかったといわれたら、すいませんって言っちゃう」
「そういうときは、謝罪はするな」
「すいません以外に、どう言えばいいんですか」
「この場合は、残念です、でいい」
「そうなんですか」
「すいません、と言うと、罪を認めたなと思われて相手は図に乗る。悪いことはしていないんだから、残念です、という気持ちの表明にとどめておくんだよ。クレーム話法ってやつだ」
「先輩、すごいですね」
「普段から隙は見せない。今回のように、追い詰められてから、ヤクザの様に凄んで一発逆転するのは最低の方法さ」
 そう言うと、久利は飲み終えたコーヒー缶をボックスに投げ入れた。

 開店前に撮影を終えることができて久利はほっとした。プレイギャル誌の広告記事用の写真である。
 ここは女子大小路にあるキャバクラ・JJの店内だ。
 女子大小路は、かつてここにあった中京女子短大(現・至学館大学短期大学部のこと)にちなむ名前で、三百メーター弱の距離から小路と呼ばれている。この街が居酒屋、スナック、クラブ、ゲイバー、ホストクラブ、外人パブ、音楽系クラブなど千七百件以上の店が集まる名古屋第一の歓楽街だったせいか、女子大という名前がそこはかとなく性的なアイコンとして通用するせいか、今でも延々と女子大の名が残っている。だが、最近はその名古屋第一の座を錦三丁目、通称錦三(きんさん)に奪われつつあった。
 チーフの黒服と挨拶をしてカメラマンを返した頃、喧しい娘達の声が聞こえてきた。店のキャバ嬢たちがバックヤードから現れ始めたのだ。
 全員、女性らしさは強調しているが全体的に落ち着いているところは、キャバクラがタイム制とはいえクラブに準じるエロのない接客業だからか。
 それでも髪やアクセサリの端々に各人の個性が残っていて、髪を盛ってる娘や、メイクやネイルにギャルの片鱗を漂わせてる娘もいて面白い。
「あら、久利ちゃんじゃない」という声を掛けられ驚いて振り向くと、そこに静香がいた。

 内藤静香と初めて会ったのは中学一年の春だった。
 放課後の部活の後、教室へ戻った時のことだ。扉を開けた途端、きゃあという悲鳴に振り向くと、着替えている最中の静香が脱いだ体操服で前を隠して叫んでいる。
 慌てて教室を出た。当時、久利の通う田舎の中学には部活用の部室がなかったのだ。
 着替えの終わった頃、教室に入ったのだが、なんとも気まずい。
 慌てて詫びる久利に、静香と一緒にいた女生徒が大爆笑をした。マンガみたいな出会いだと。それが二人の救いになった。
 それがきっかけで静香と友達になったのだ。冗談が言い合える異性の友達。
 彼女を異性として本当に意識し始めたのは三年生になってから。それでも表面は友達のままだ。
 卒業式を翌日に控えた朝。朝礼に際してのフォークダンスの時間に、静香と初めて手を握り合った。
 その別れ際、静香は久利の手を離す寸前に、ぎゅっと握って来た。
 はっとして顔を見ると、なんとも不思議な表情で見つめている。
 これは、告白なのか?
 手を離してペアを換わり遠ざかる靜香の背中を目で追った。
 彼女の気持ちを確認することなく二人は卒業して別れ別れになった。
 いや違う。夢いっぱいで都会の高校に進学するあの春、久利は田舎の中学の思い出と一緒に静香を過去に封印したのだ。

「卒業以来じゃん」という静香の声。
「静香、キレイになったねえ」という久利の声もうわずり気味だ。
 大人の化粧をした内藤静香は、少女の頃の面影をかすかに残しているからこそ、とても美しく感じられた。
「シズカです、よろしく」と言って静香は名刺を渡す。
「店ではカタカナなのね」と頷く久利。
 その時、黒服のチーフが声を上げて開店前の儀式が始まった。
 久利は会釈をすると店を出た。
 彼女は今、どう暮らしているんだろうか。今度はじっくり話してみようと思った。ここへは仕事で何度も来る予定だしな。
 この年になると、愛した女より、愛してくれる女の方がずっと大切なのだということが判ってくる。
 久利の頬に浮かんだ笑みには、珍しく皮肉も悲しみもなかった。

 ☆

「さあ、今朝のお買い得情報は、本日から発売のフレークアイス、フミちゃんどうぞー」
 元気いっぱいの女性MCのアナウンスで、カメラが切り替わり、ピラミッド型に紙パックの積まれたテーブルの前の娘に切り替わる。
 ここは、中区大須二丁目の名城テレビのスタジオだった。
 久利はスタジオの隅でクライアントとオンエアの様子を見ている。
 クライアントは名城牛乳の専務だ。広告扱いは別代理店なのだが、商品プロモーションの案として持ち込んだ「試供品頒布当日のテレビモーニングショーでの告知」を採用されて今日に至っているのだ。
 アドプランニング遊のような弱小広告会社は利益を上げるために何でもやる。
 久利自身、キャラのぬいぐるみに入ったことも珍しくないし、大須のイベントでは信長になり、名城公園を舞台にしたイベントでは加藤清正にも扮したことがある。
 今回は着ぐるみやコスプレがないだけ、まともな仕事だよな、と思っている間にオンエアは無事終了した。
「専務、では視聴者プレゼント用に後日送り先の住所FAXしますんで」という久利に、
「ありがとう、商品プレゼントで、こんなプロモできるとは助かるよ」と専務。
「てっきり、もうご存じかとおもってましたよ」と笑いながら、暗に、現在お取引中の広告会社さんは、この企画を教えてくれなかったんですね、というビームを浴びせ続けた。
「自分、少し後片付けがありますので」と言って、専務がスタジオを出るまで頭を下げて見送る久利に、
「商売上手やねえ」と言う声。
 D(ディレクター)の長谷川だった。今回の話を振ってくれた本人だ。
「また同じようなネタがあったら教えてください。新規クライアント開拓のええネタになりますんで」
「ところで、最近、書いてる?」
「いや仕事が忙しくてそっちには手が回りません」
「惜しいなあ。佳作まで獲ってるのに」と長谷川。
 佳作というのは、東京にある名城テレビのキー局が主催した「ビジネスドラマ原作大賞」のことで、昨年の第二回で久利の応募作品は佳作四編の一つに入っていたのだ。
 好景気を反映してか、佳作四編の賞金が各50万円、大賞ならば300万円という賞金総額500万円が売り文句の大盤振る舞いだった。
「広告の仕事も小説と同じぐらい面白いもんでして」と久利は苦笑いした。
 本音を言えば、まだ才能に自信がなく、名古屋から東京の出版社まで営業には行く勇気も金もなかったのだ。当然、会社を辞めるわけにもいかない。
「久利さん、実は相談があるんだけど」と長谷川が声を落として言った。そして、指でスタジオの外を指し示す。「場所を変えて」というサインだった。

 名城テレビの一階ロビーには喫茶ルームがある。部外者は入れない場所で、タレントやマネージャーが打ち合わせに使っていたりもする。窓の外には若宮大通りが走っている。幅広い歩道に植えられている銀杏が黄色く色づき始めていた。
 その窓際のテーブルに長谷川と向かい合って座った。
「相談ってなんですか」
「ちょっと固めのドキュメンタリー作りたいんだ」
「珍しいですね」と久利が驚いたように言った。
 名城テレビは名古屋の民放では最後発で、10年前の1983年に開局していた。CM料も他局より一桁安く、局の営業が「同じ予算でうちなら10倍の本数出稿できます」とやけ気味に豪語するほどだった。
 確かに他局のタイムテーブルで数カ所に線が引かれる程度の予算でも、名城テレビのタイムテーブルだと全面が赤線で真っ赤になっていた。
 クライアントからも「大砲と言うよりマシンガンだね」と褒めているのか笑っているのかわからない評価が出ていた。
 ドキュメンタリーを作る、そんな冒険じみたことをやれるようになったのかと感慨深く感じた。
「ウチはゲリラみたいな戦い方してる局だけど、やる時はやりまっせ、って感じだよ」
「その意気やよし、ですかねえ」と久利。
「うちでもさ、ATPのテレビグランプリドキュメンタリー部門に挑戦しようってことになってね。社会問題や裏社会に関して切り込めるネタ探してるんだよ」
「そういうことを知ってそうな相手というのが俺ってことですか?」
「そのとおり!」と長谷川。
「あまり嬉しく感じないのはなぜだろう」と久利、苦笑い。
「それって卑下することじゃないよ。ジャーナリズム的には」
「俺はジャーナリズムにも一抹の懐疑心を持ってまして」
「あら、聞き捨てならない」
「第四の権力・マスメディアって、政府や体制だけでなく、個人にも牙むいてる側面ありますからね」と言った後、ニヤリと笑って、
「とインテリ気取ってみました」と続けた。
 長谷川は、
「深夜帯でニュース番組のコーナーの拡張のような形で企画したいな」と言った。
 久利の目を見つめると、
「何かネタあったら耳打ちしてよ、お願いね」と言った。目は笑っていない。真剣だった。
 長谷川はレシートを取ると、
「ゆっくりしてってね」と言って立ち上がった。
 まあ、長谷川のようなDに頼られるのも悪くはない。特に弱小代理店の営業としては。

 ☆

 若宮大通りとクロスする久屋大通りは、名古屋の中心部を南北に走り栄町、矢場町という繁華街を繋いでいる。
 隣接するエリアには名古屋市役所を始め県庁などの庁舎が集まる官庁街、百貨店の集まる栄町などがある。
 六年前に東急ハンズをテナントとするアネックスビルが建ってからは、若い客が集まる街になっていた。
 最近ではバドワイザーの協賛するビアガーデンが評判になり、その会場を闊歩するバドガールが話題になった。
 週末の土曜日だけあって、人通りは多い。その賑わいを横目に、久利は表通りを一本裏に引っ込んだビルの地下一階にいた。
 個室ビデオ・ドリーマーの栄店だった。広告掲載誌(例のプレイギャルだ)を届けに来たところだった。
 この店は平日のサラリーマン客がメインの客層なので土曜日の客は少ない。
 暇そうな店長は、
「菊池えりさんのサインもらったんですよ」と壁に貼った色紙を誇らしげに示していた。
 店内には個室ビデオに来る淋しい客達の孤独感が漂っている。
 早々に仕事を終えると、階段を上がった。昼下がりの陽光が眩しい。休日出勤の久利にとっては、週末の華やいだ喧噪もまた眩しさの対象だ。
 歩道のそこここで露店が出ている。外国人が目立った。手製のクラフトっぽいアクセサリーや偽ブランド品の店が多い。以前は、この手の店はイスラエル人が多かったそうだが、五年前のイラン・イラク戦争以来、難民として流入したイラン人も多かった。
 県警の都倉に言わせれば、裏で変造テレカや違法薬物なども売っているらしい。もっとも匂わせるだけで、詳しくは語らなかったので、彼にとっては裏取り中のホットな案件なのだろう。
 夜までタイトな予定もなかったので噴水広場に足を向けた。
 ギターの音と歌が聞こえてきたからだ。
 噴水を背にしてギターを抱えた青年が歌っている。アップテンポのパンクっぽい歌で、歌詞に少し文学性を感じた。ブルーハーツから火が付いたJパンクってやつか。
 髪は短めでユニクロっぽいコーデは地味目だが、それが歌で勝負してる感あった。何よりメロディラインにオリジナリティがある。
 傍らにはギターケースが置いてあり、そのケースが投げ銭の受け皿を兼ねているのだろう。白いコインと数枚の紙幣が入っていた。
 その傍らにはシングルCDが積んであり、「シゲル」というミュージシャン名を書いたPOPが置いてある。
 少し離れた所に折りたたみ椅子を置き、恋人と思しき娘が座っている。曲に合わせて楽しげに体を揺すっている。
 内藤静香だった。すっぴんに近い薄い化粧は、JJの店内で見た時よりずっと学生時代の彼女を思わせた。
 そうか、今の彼女の心をつかんでいるのは彼なのか。
 彼らの前に半円を書くようにして聴衆がいる。まだそれほど多くはないが、それでも足を止めて聴いているのだ。
 一曲歌い終えるとシゲルは頭を下げた。拍手が湧く。
 静香も聴衆を煽るように大仰な動きで手を叩いていた。
 オリジナルの曲と併せて、「夏の魔物」などスピッツの曲も歌っていた。悪くない。

「彼女こそが、僕のファン第一号だったんです」とシゲルが言った。
 静香はその横で嬉しそうに微笑んでいる。
 久屋大通りの東にある喫茶店のテラス席だった。
「彼女の人を見る目は間違いないぜ」と言いながら久利は笑った。その笑いに自嘲が混じっているのは久利しかわからない。
「CD、今ちょっと話題なのよ」と静香。
 インディペンデント、要は自費プレスなのだが、それが天白区にある本屋の店頭で話題になっているという。
「あの店か」と久利は呟いた。
 ヴィレッジヴァンガードという尖った本屋で、店頭に飾ってある英国車MGミジェットが話題になり、お洒落系タウン誌でも頻繁に記事になっていた。置いてある本もこだわりがうかがえて、特にサブカル系の本が多かった。
「おかげで、名古屋のミュージシャンからお声も掛かるようになって、いよいよ前座でライブハウスに出れるようになったの」
「でも気がかりなことが一つ」とシゲル。
 静香もその言葉に顔を曇らせた。
「音楽業界って、薬系の事件少なくないのよね」
「覚醒剤か?」
「ううん、葉っぱの方。アーチスト界隈は葉っぱなのよ」
「大麻か。ダウン系なのね」
「そう、でも大麻から入ってシャブへ行く人もいて」
 その話は県警の都倉からも聞いたことがあった。大麻でダウンさせた後、覚醒剤でアップさせるのが効くらしい。そこまで行くともう重症だと。
「まさか君たちやってるの?」
「シゲちゃんはやってないけど、」
「お世話になってるジョージ先輩がどっぷり浸かってて、それが見てて苦しいんです」とシゲル。
「おまえもアーチストならやれよ的な圧もあるんだって」
「童貞を小馬鹿にするヤリチン先輩の心理か」と久利。
「ねえ、久利ちゃん、助けてくれない?」
「ええ?」
 この既視感は何? と久利は思った。嫌な予感がした。
「ノンノンのママから聞いたのよ、久利ちゃんって事件屋だって。トラブルメーカーだって」
「それを言うならトラブルシューターだよ、ていうか俺は広告マンであって事件屋じゃねえし」と憮然として答える久利。和子ママの無邪気な笑顔を思い浮かべてため息をついた。
「その先輩、イラン人の売人ともツーカーで」
 そりゃ、警察案件だろうと言いかけたが、静香の真剣な目に見つめられると断ることもできない。
 この目力は静香ではなくシズカの方かもなと思った。

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