創作エッセイ(37)時代の空気感とは

今回は小説を書く上で、舞台となる時代の空気感について考察。社会の持っていたメンタリティとでも言えようか。
法学部出身で社会学を専攻したわけではない私の、勝手な素人解釈ではある。

社会に対する忖度

 1960年代から1970年代。私が読書少年だった頃である。まだエンタメなどという言葉もないころ、娯楽小説や映画であっても戦争をネタにした場合、必ず先の大戦の反省が盛られていた。「ひめゆりの塔」とかなどの映画だけでなく、娯楽のための映画ですら言い訳のように戦争反対が添えられていた。
 それが当然だと思っていたのだが、高校、大学と成長するにつれ、それが社会の「同調圧力」に忖度しているだけなのではないかと思えてきた。これはヒットさせて商売をしているから当然ではある。より多くの観客や読者を相手にするからだ。

何に忖度しているかでその時代色が出る

 ハリウッド映画を例に考えると、エンタメ作品内でバタバタと倒す敵が、時代に応じて変わっている事に気づく。
 最初期の敵は西部劇のネイティブ・アメリカン。次はナチス日本兵。やがてソ連やベトコンなど共産主義勢力、さらにムスリムのテロリストと変遷してきて、今や殺しても怒られない相手はバグ(虫)やロボットやゾンビになっている。

政治的メンタリティの変化

 70年代など、悪役には保守政治家と結託した資本家や彼らに使われる暴力団を描いておけば問題なかったし、リアリティも出せた。ただ、半世紀経つうちに大きな変化が訪れている。ソ連の崩壊で、共産主義に対する漠然とした幻想が醒め、天安門事件やウイグルやチベットでの圧政で人民の天国であるはずの中華人民共和国の幻想が醒めた。
 イメージ先行のポピュリズム投票による何度かの保革逆転の政権交代で、与野党の政治に対する幻滅もある。
 そのような社会メンタリティの変遷を無視して、70年代型の影の首相とか影の内閣などを描いても、若い読者からは鼻で笑われるだけだ。

忖度先による表現の変化

 近年に入ってから、先の戦争の描き方が変わってきた。よい例が「この世界の片隅で」だ。
 「火垂るの墓」や「はだしのゲン」のような声高な叫びではなく、淡々とした日常を描きながら、しっかりと戦争の愚かさや残酷さを伝えてくる。
「説得せずに気づかせる」つまり「言葉による説明ではなく描写や物語による気づき」という手法だ。
 以前は、戦争反対を叫ぶ界隈に忖度して、戦闘機の開発者の物語を作るときに言い訳のように堀辰雄を持ってきて「単なる戦争ものではありません」というアピールが必要だった。
 だが、今の作家は、そんな必要を感じない。ただし、別の忖度が現れている。多様性だ。
 それはジェンダーギャップやLGBTQや障碍者である。昨今の映画やアニメではことさらのように同性愛のカップルが登場する。また、障碍者のキャラも珍しくない。
 その障碍や特性が、人間の普遍的な気持ちや悩みや苦痛のメタファとして描かれると凄い傑作になることが多くて、最近だと「チョコレート・ドーナツ」とか「ワンダーストラック」とか、「アイ・アム・サム」とか「ビューティフル・マインド」とか、考えると傑作ばかりやん。

社会が忖度する先の変化で時代が描ける

 もう、おわかりだろう。
 小説の中で、その社会が「何に忖度しているか」を描くことで、作品の時代色を醸し出すことが出来るのだ。それを描きながら、現代の視点も忘れていなければ、過去の世界を舞台にしても、十分に同時代性を出せるのである。すぐれた歴史小説や時代小説が過去を舞台にした物語でありながら、同時に現代を描いているように。

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