見出し画像

法的安定性と具体的妥当性について

続けられない...から脱却し、 「自分は意外とできるんだぞ」と 自信がついた、ともさん


大学生の頃にたまたま法学部の講義を聞きに行ったときに、法解釈において法的安定性具体的妥当性のバランスが大切だと学びました。

法学部に関わることは他に何も覚えていませんが、この二つのキーワードだけは強く記憶に残っています。

法律関係の方には、当たり前のことでしょうが、そうでない人にとってはそこまで聞き覚えのある言葉でもないと思います。

まず、法的安定性と具体的妥当性の関係性は以下のようになります。

単に具体的事件のみに妥当な結論を導くことができれば足りるものではなく、同種の事件が生じたときにも、同様の結論を得ることができるように客観的に行われなければならない。さもなければ、どのような行為があればどのように法的に判断・処理されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態、すなわち法的安定性が害されてしまうからである。
したがって、法解釈においては、法的安定性を害すること無く、いかにして個別の事案についての社会的正義、すなわち具体的妥当性を発揮するかが最大の課題である


私が受講した講義では、有名人の夫妻の代理母出産のケースについて、ディベートをしました。


妊娠判明と同時に、子宮頸癌が発覚したこの夫婦は、夫婦の遺伝子を持った子を持つために米国ネバダ州での代理母出産に踏み切ります。

何度かの試みの末、代理母出産は成功し、双子が生まれます。

米国ネバダ州の夫婦と双子の親子関係を認めます。

ところが、東京都品川区は分娩による母子関係を前提とする戸籍法の解釈を持ち出し、これを受理しません。

夫妻は出生届不受理決定を不服とし、東京家裁へ処分取り消しを申し立てます。

東京高等裁判所(東京高裁)は「子供の福祉の観点」「米国の確定裁判を承認すべき」との理由により、品川区役所に出生届受理命令の判断を下します。

ところが、最高裁は「自分の卵子を提供した場合でも、今の民法では母子関係の成立は認められない」とし、不受理が確定しました。

最高裁は、「代理出産は公知の事実で、(明治時代に制定された)民法の想定していない事態」とし、国会に対して法整備を急ぐよう述べました。

このケースで、最高裁が不受理としたのは、法的安定性を保つためです。

問題点として、例えば東南アジアで劣悪な環境で代理母を仕事している若い女性がおり、斡旋業者が多額の利益を得ていること。

双方合意の上の契約と言っても、経済的に困窮している人にとっては強制に近い合意と言えます。例えば、ハリケーンで多くを失い、緊急にモノが必要になった人に対し、通常よりも高い価格で売りつけた小売店が批判されたケースがアメリカでありました。双方合意というのは、状況によっては合意せざるを得ない、半ば強制のような形に働くことがあります。

そうして、商業化の問題や、人体を生殖技術の手段として用いることの問題が法整備されていない段階で、代理出産を肯定する判決を出すことによって、法的安定性が害されることを恐れたわけです。



私はリアルタイムでの報道、世論を知りませんが、この夫婦側の視点から話を聞くと、具体的妥当性に拠った結論を出したいと感じました。

ところがこの法的安定性を保つ根拠もとても大切に感じます。

これは、それぞれの裁判所が具体的妥当性と法的安定性を天秤にかけ判断した結果が割れるという非常に難しい事例です。

何が正しいのかは、誰にも分かりません。

しかし、悲しいかな悪人はいます。

一つの判決が悪人にエサを与える事態を避けつつも個々の事例に適切に対応する。

思えば、この具体的妥当性と法的安定性議論は我々の日常のルールにも当てはめることができます。

「あいつはお堅い」とか、「融通きかないなー」と、よく思いますよね。

そんなときに、法的安定性に倣い、ルールの持つ安定性を考えてみると意外と正しい判断がなされていることもあるかもしれません。


ともすれば、メディアの報道などでは具体的妥当性が強調され、そこに感情論も合わさって世論が形成されがちです。

というか、私たちは基本的に自分の人生に対してのみオーナーシップを持っていて、具体的妥当性の中にしか生きていません。

法的安定性を考えるには、理性をいかに働かせるかがカギです。

基本的に、より感情を揺さぶるような具体的な事例を私たちもメディアも好みがちですが、法的安定性の観念を常に持っていなければ正しい判断はできません。


ルールや規則に思い悩んだとき(どちら側の場合でも)、一度同様の事例が起きたときにどうなるかに考えを巡らせてみると良いでしょう。

○参考文献




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?