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『硫黄島からの手紙』:世界で最も戦争を知らないアメリカの人々(初出:2007年2月17日mixiに投稿したテキストを加筆修正)

 さて、懸案の『硫黄島からの手紙(原題:Letters from Iwo Jima)』の第1回である。

 この日記を書こうとして、実はもう一度、この映画を観に行った。今週の月曜日に、割引料金で、最終回の夜10時。終わるのは零時過ぎなので、さすがに観客は少ないが、観客の反応は前回と同じ。同じ列に座っていた黒人のおじさんは、最後のクレジットが消えて灯りがついても、しばらくは席を立てずに、何も映っていないスクリーンを、茫然と見詰めていた。

 前回観たときは、客席の8割以上が埋まって賑わっていたが、アメリカの観客としては珍しく、誰も余計なシーンで笑い出すことなく、静かに映画にひきこまれていた。深刻なシーンでも、平気で声を上げて笑い出すのがアメリカ人の流儀。あるアメリカ人の友は、この現象について、「自分を弱く見せないため」と説明した。強くなくては、生きていけない。ポジティブでなければ、生きている資格がない。それが、マッチョの国、帝国主義の国、アメリカ人の意識(イデオロギー)。

 そうした人々の意識に、一歩踏み込んだ訴えをしているのが、この、クリント・イーストウッド監督の映画だ。

 私の観るところ、この国の人々は、世界で最も戦争をしている国に暮らしながら、実は、世界で最も戦争を知らない人々である。

 そう言われてもピンとこないという人も多いかも知れない。しかし、それは、この国と他の世界中の多くの国々の過去を、少しでも振り返ってみれば、誰でもすぐに理解することができるとてもシンプルな事実である。すなわち、世界中の多くの国々の人にとっての戦争とは、自国が他国の軍隊に攻め込まれ、自分の住む街や大切な人の住む街が、戦闘機の空爆や戦車の砲弾によって破壊されることを意味するのだが、アメリカ合衆国という国に住む人々にとっての戦争とは、自国軍が他国に攻め込んで、空軍の戦闘機や海軍の軍艦や海兵隊の戦車が、悪魔の国を破壊して英雄になることを意味するという、とてもシンプルな事実である。

 つまり、アメリカ合衆国に住む人々は、戦争によって他国の軍隊から攻め込まれて自分の住む街が空爆されたり砲撃されたりした経験がない、世界で唯一の国民である、ということだ。

 その人々が、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』を受容するプロセスで、アメリカ合衆国の歴史において、初めて、自分たちの知らなかった戦争の実態について、攻撃する側の自分たちの視点からではなく、自分たちが攻撃をしている敵国に住む普通の人々の視点に立って、戦争を体験しているという事実。「悪魔」でもなく、「ファシスト」でもなく、「コミュニスト」でも「テロリスト」でもない、自分たちと同じ血が流れ、傷つきやすい人間の心を持つ、ごく普通の人々によって構成されている「敵国」という視点を初めて与えられて、これまでとは全く異なる観点から、戦争を体験するプロセス。

 クリント・イーストウッドによってアメリカ合衆国の人々に与えられた、戦争をめぐる意識の集団的な革新のプロセス、そんな歴史的な現場に、この映画を観てその世界観を共有する私たちは、立ち会っているのだと、決して大袈裟な表現ではなく、言って良いのだろうと思う。

次回へ続く

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