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ナナちゃんとまあ

ナナちゃんは猫である。
22年前に、息子にひた隠しにしていた末期ガンに母が倒れたと知らせを受け、夫が実家に戻った日、タンスの裏に生み捨てられていた猫である。
…らしい。
母を入院させ、瀕死のナナちゃんを動物病院に連れていき、大変な一日だったと聞いた。
その頃の夫のことを私はまだ知らない。
私にとって姑になるはずだった夫の母に会うことは叶わなかった。
その日タンスの裏で生まれたナナちゃんが、母を亡くした夫の新しい家族になって10年のちに、私たちは出会った。

まあは、我が家の三女の愛称だ。
私が彼女と出会ったのは、彼女が6歳の時だ。
おばあちゃんに会うことは叶わず、産んでくれたおかあさんのこともぼんやりとしか覚えていない彼女は、私に出会って15分で私を「ママ」と呼んでいた。
まあは、周りの6歳よりずいぶん幼かった。
私のハンカチの匂いを嗅ぎながら指しゃぶりをする。気に入らないことがあると叶うまで大声で泣き続ける。
父子家庭で育った私は、母のいない心細さを知っている。
彼女のその幼すぎる行動の奥底に、おなじ思いを感じた。

ナナちゃんは、まあのおかあさんだった。
彼女が泣くと、飛んでやってきて泣き止むまでそばを離れない。
まあにヒゲを切られても、おもちゃにされても平気そうだった。おままごとの相手も辛抱強くしてあげていた。
まあが幼すぎることも、泣き止まないことも、自分を乱暴に扱うことさえも、ナナちゃんは、大きな大きな母性でいつも受け入れていた。

まあに「ママ」と呼ばれて1年後、私は彼女の「ママ」になった。

しかし「ママ」のいる生活は、まあが思っていたより不自由だった。
食わず嫌いも一口は食べてみないと許されない。箸の使い方も直され、宿題や時間割をしないでゲームをすることも許されない。「やった」と言っても見せるまで許されない。
初めて知った人間のママに、まあはかなり苦戦した。

私も苦戦した。
ママは欲しいけど、自由と引き換えにはできない。私はその自由は本当の自由とは言わないことを教えたいのだ。
そのたびに大声で泣き続けた。そのたびにナナちゃんが飛んできた。
私が折れたり、折れたフリをされながら、私たちの葛藤は始まった。

ある日、九九の暗記の宿題が出て、まあは七の段に苦戦していた。
「覚えるまで宿題に出続ける」ということに絶望して、大泣きした。

その日初めて、向き合うことをやめてみた。折れることも説得することもやめてみた。ただ覚えなくてはこの苦痛からは解放されないという現実だけを彼女の前に置いて。
まあは軽く3時間は泣き続けていた。
ご近所に虐待で通報されるんじゃないか? とおもうほど泣いた。

まあがどれだけ泣いても、その日ナナちゃんが彼女のそばに来ることはなかった。
知らん顔して眠っている。チラリともまあを見ようとしない。
いつもなら、彼女が泣き止むまで体をくっつけて、ずっとそばにいるのに。
まあは、それに気づきもしない。七の段をどうにか避けて通ろうと必死だ。
ナナちゃんは、まあにではなく、私に「ここは辛抱だ」と教えてくれているような気がした。

七の段は、それからのまあを苦しめ続けた。
掛け算も割り算も七の段が出来なければ、前に進まない。
そのたびに彼女は、ごまかそうとした。そして上手にごまかせていたようだ。
そのたびに私は、ごまかすことの意味のなさを「ごまかせない壁」になることで必死に伝えようとしていた。
泣いたって逃げたって、ごまかしたことは、いつかは必ず自分のところへ戻ってくるのだから、今が一番簡単なんだってこと、ただそれだけを知ってほしくて。
その思いがまあに届くことはなく、毎回泣いてなんとか収めようとし続け、私もまた折れることをしなかった。
ナナちゃんはそれから先一度も泣いている彼女のそばには行くことはなかった。

家では、毎日のようにまあのごまかしのゴリ押しと、それを通そうとしない壁の私の葛藤が続いていたが、学校では、勉強はさておき、よく褒められる子だった。毎日の葛藤を相談しても誰にも信じてもらえないほどだ。

まあは、ハンデのあるお友達のずっとそばにいて、サポートすることが誰よりも上手だった。寄り添うことがとても自然で優しい。
「お母さん、よく育てられましたね」とほめていただくことがあったが、それをまあに教えてくれたのは、二人の人間の母親ではなく、猫のナナちゃんだ。
私は、まあにとってごまかしの効かない面倒な壁にしかなれていない。
ナナちゃんはそんな二人の毎日をどんな風に思ってみていたのだろう。
そんな時は姿を見せず、いつもどこかで静かに眠っていた。

おばあちゃん猫になったナナちゃんは、私たちが母娘になろうともがく姿を、それから5年間静かに見守ってくれた。

ある日、めったに家から出ることのないナナちゃんが、どこからかスルッと家を出て帰ってこなくなった。家族総出で一週間探し続けた。
夫が、「きっとみんなが家族になれたから、まあがもう自分で頑張れると安心したから、旅立ったんだろう」とみんなに伝えて、哀しい捜索は終わった。

母を亡くした夫の癒しであり、まあの育てのお母さんであったナナちゃん。
そしてその席を、私を見極めてからスルリと譲ってくれたのだ。

ナナちゃんがその席を私に任せてくれてから4年後、
いつまでも幼すぎるまあの壁になることで、世の中から護ろうとばかりしていた不器用な私は、まあが学生をやめるといったその日、ナナちゃんのように見守ることだけにした。

ナナちゃんがまあに、まあがハンデのあるお友達に、していた「寄り添う見守る」ということは、相手を心から信頼しているからこそできるのだと、やっとわかった気がする。

出来るかで出来ないかではない、
出来なくても大丈夫と信じる気持ちなのだと。

ナナちゃん、
まあも、もうすぐ19歳。危なっかしい自由を歩き出したよ。
壁であることを卒業したといいながら、ずっとハラハラしている私と一緒に見守っていてね。


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