量子力学の新解釈――光は存在しない

はじめに――温暖化について

今回は物理学の話をしようと思う。はじめに熱力学の例題として、地球温暖化の仕組みについて解説したい。

前提として、地球は太陽の熱で温められている。太陽の表面温度は6000度もあり、その熱によって温められるので、放っておけば地球の温度は6000度まで上昇するはずである。そうなっていないのは、宇宙空間に向けて地球が熱を放出しているからである。熱輻射の作用によって、地表からつねに熱が奪われている。そこで奪われる熱量と、太陽から与えられる熱量が釣り合っているので、地表の温度は一定に保たれる。つまり、太陽が地球を暖める一方、熱輻射が地球を冷やしているので、温度は変わらない。熱輻射は地球のラジエーターである。

ところが、二酸化炭素には地表からの熱輻射を吸収する性質がある。ゆえに、大気中の二酸化炭素濃度が増えると、地球の熱を宇宙空間に逃がしにくくなってしまう。ラジエーターが壊れたようなものである。そのために、太陽の熱がだんだん地球に溜まっていって、地球の温度が上昇し始める。これが温暖化である。

熱輻射

このように、熱の流れに注目すると、温暖化の原因が二酸化炭素であることが理解しやすくなる。この過程で主要な役割を担っているのは熱輻射である。地球の表面から熱を奪い取るのも熱輻射であり、太陽の熱を地球に伝えるのも、実は熱輻射である。

すべての物体は、その温度に応じた周波数の電磁波を放出している。電磁波は熱を運ぶので、これを熱輻射と呼ぶ。太陽と地球の間には真空が広がっており、物質の濃度は極めて薄い。にもかかわらず、太陽の熱が地球に伝わるのは熱輻射の作用である。

熱力学の第0法則は、すべての物体は熱平衡に達すると主張する。任意の2つの物体は、たとえどのような方法で遮られても、真空によって隔てられたとしても、必ず熱の交換を行い、熱平衡に達する。熱輻射の存在は、この第0法則から導くことができる。空間的に離れた2つの物体が熱平衡に達するためには、空間を横切る熱の移動が必要になる。もちろん、それは必ずしも電磁波の形をとる必要はない。しかし実際には、電磁波がその役割を担っている。
 

電磁波とは何か。光とは何か。これは古今の科学者を悩ませた難問である。私はこの問題の答えを見つけたように思う。すなわち、光は存在しない。

たとえば、二重スリットの実験を考えてみよう。量子力学を学ぶときに、光の粒子性と波動性の両方を示す実験として、必ず出てくる話である。この実験において、光はスクリーン上の点として現れる。我々は、光が2つのスリットのどちらを通ったかを特定することはできず、それが干渉を生む、と教えられるが、そもそも経路の途中にいる光を観測する手段はない。光を観測するためには何らかの検出器を用いねばならず、光の存在は検出器の変化として認識される。ゆえに、光を放出する物体と、光を検出する装置の間に、光が存在するという証拠はないと言える。光という現象は、2つの物体間の直接相互作用にすぎない。エネルギーを交換する遠隔相互作用である。

量子力学前史

プランクは非凡な物理学者であった。彼の熱輻射論は独創的な研究であり、これが量子力学の始まりとなっている。量子力学はミクロな世界を対象にした学問だと思われているが、歴史的な観点からいえば必ずしもそうではない。それは、すでに完成されていた電磁気学と熱学という、2つの分野を結ぶ架け橋として必要とされたのである。

ニュートンが完成した力学、マクスウェルが完成した電磁気学、そしてカルノーやケルヴィン等様々な科学者によって完成された熱学、これら物理学の諸分野は19世紀末にはすでに出そろっていた。だが、これらの科学はそれぞれ独立しており、他の分野とどのような関係を持つのかは明らかでなかった。そこで、はじめに力学と熱学を結びつけようとする運動が起きた。マクスウェルやボルツマンによる統計力学の試みである。彼らは分子の存在を仮定し、分子同士の力学的な作用によって、熱学の法則を説明しようとした。これは一定の成果を上げたが、同時に様々な矛盾を抱えており、いまだ不完全な学問であった。

それと同時に、熱学と電磁気学の境界領域で奇妙な問題が持ち上がりつつあった。黒体輻射である。高温に熱せられた物体は白熱光を放つが、その光のスペクトルと物体の温度にはどのような関係があるのか、という問題である。これは、金属の温度を光の周波数によって検知するという、鉄鋼業における現実的な課題とも関係しており、当時の物理学における最重要課題であった。

すでにウィーンやレイリー・ジーンズ等がそれぞれ重要な研究をしていたが、熱輻射の性質を完全に明らかにするには至らなかった。最後のピースをはめたのはプランクだったが、その結果は複雑怪奇であった。プランク自身にも、自分が見つけた方程式の意味が理解できなかったほどである。
 

ここにアインシュタインが出てくる。彼は光量子仮説を提案し、プランクの公式に物理的な解釈を与えた。いや、与えてしまった、というべきか。光量子は、ボルツマンが仮定した原子とも異なり、マクスウェルが予言した電磁波とも異なっていた。アインシュタインは、光量子という得体の知れないものを仮定することによって、プランクの公式という同じように得体の知れないものを説明したのである。これでは全く進歩していない。

空間中を光子がピューっと飛んでいく、という風に光をイメージするならば、それは誤りである。光に航跡は存在しない。光子は空間中に存在するものではない。それは我々の観念の中にしか存在しないのである。

光の歴史

ここで、光の歴史をおさらいしてみよう。そもそも、光が存在するという考えは特殊なものである。我々の目は物体を見ることができるが、そこで、我々の目と物体の間に光が存在し、それが両者を媒介している、という発想はヨーロッパに特有のものである。少なくとも東アジアにはそのような発想はない。我々は、光は存在するかという問題について考えたことすらない。

おそらく、光の存在を最初に提案したのはプラトンである。彼は視覚について議論する際に、我々の目から何かが流出しているのか、それとも物体の方から我々の目に向かって何かが流出しているのか、という問題を提起している。どちらも光の存在を示唆する仮説である。そして、有名な太陽の比喩は、光の存在に基づいてイデア説を正当化しようとするものであった。
 

このように、プラトンによって提唱された光の存在がヨーロッパでは広く受け入れられ、その後の文化の発展に大きな影響を与えている。たとえば、遠近法は光の経路を意識しなければ生まれない技法である。物体の表面で反射した光が、どのような経路を通って我々の目に届くのか、という問題を考えることで、遠近法が編み出されたと考えられる。光の存在を意識することが少ない東アジアには、遠近法に類似の技法は生まれなかった。我々の絵画はどちらかと言えば平面的であり、現在のアニメ文化にもそれは受け継がれている。

蛇足になるが、日本のアニメの中でも、京都アニメーションの作品は例外的に立体的な表現ができていた。京アニは光の演出が上手で、光がカメラに入射する角度まで意識していたように思われる。おそらく、光の経路を意識することで映像が立体的になったのだろう。

原子は存在するか

さて、量子力学に戻ろう。量子力学は、熱輻射という電磁気学と熱学の境界領域から発生した学問であった。それは同時に、熱学と力学の境界領域である統計力学にまつわる、様々な困難の解決をも宿命づけられていた。量子力学は、ある意味魔術的な方法でこれを解決したのであった。

ボルツマンの統計力学は原子の存在に基づいていた。空間中を飛び交う原子が互いに衝突し、力を及ぼし合うことで気体の性質が決まる。彼は、原子間の力学的な作用によって熱学を説明した。一方でボーアは、原子は粒子としての性質も持ち、波としての性質も持つ、と述べた。相補性原理である。これが意味することは、力学的な作用主体としての原子は存在しない、ということである。つまり、量子力学はボルツマン流の統計力学を完全に否定してしまった。その代わりに、ギブスによって開拓された新しい統計力学が物理学の主流となった。これは原子に依存しない統計力学である。

これによって明らかになったのは、量子力学は原子の存在を否定したということである。しかしながら、この点を強調する人は実に少ない。おそらく多くの人が、量子力学は原子論を肯定するものだと考えているのではないだろうか。実際には、量子力学と原子論は両立しない。
 

多くの物理学者は量子と原子を取り違えている。アインシュタインが仮定した光量子は原子の存在を意味するわけではない。しかしエネルギーの塊という考え方が、原子の代替物として物理学者に広く受け入れられてしまった。素粒子が存在するという考え方は厳密には誤りであるが、それをあまりにも素朴に受け入れてしまう現実が一方にはある。

私は大学院時代に量子ホール効果を研究していたが、そこで感じたことは、電子は粒子ではない、ということである。物質中の電子は粒子ではなく、流体や連続体に近いものである。私はそこから一歩進めて、おそらく電子は存在しない、と考えるようになった。すなわち、電子は物質ではなく、一連の現象に与えられた名前にすぎない。
 

たとえば、シュテルン=ゲルラッハの実験を考えてみよう。この実験は、微視的な現象の離散性を示すものとして非常に有名である。我々がこの実験の結果を不自然に感じるのは、実験系にあらかじめ電子が存在し、何らかの方向の磁気モーメントを持っている、と考えるからである。実際には、電子も磁気モーメントも存在しない。それは磁場をかけられた瞬間に現れるのである。

あらかじめ磁気モーメントが存在すると考えるならば、磁場を通り抜けた電子の分布は連続的でなければならない。しかし、もしもすべての電子がスピン・シングレット状態で存在し、磁場をかけられた瞬間に2つに分かれると考えるならば、離散的な結果になるのは自然である。もちろん、それはスピン・シングレットの状態ですらない。そもそも電子は存在しないのだから。

この考えをどのように定式化すればよいのか、私にはまだ分からない。それを明らかにしてくれる人が現れるのを私は待っている。

プランクの公式の新解釈

おしまいに、プランクの公式について考察してみよう。レイリー=ジーンズの法則の失敗は、エネルギー密度が発散してしまう点にあった。その誤りは、エネルギーの等分配則を無限に多くの電磁波に適用することから生じた。ゆえに我々はこれを修正し、電磁波の存在確率に一定の制限を設ければよい。すなわち、より周波数が大きい電磁波ほど、より存在確率が低くなる、ということである。電磁波の分布は、高周波数側に行くほどまばらになる。この仮定によってエネルギーの発散は回避できる。

ただ、レイリー・ジーンズの式は電磁場が一種の連続体、つまりエーテル体であることを仮定している。そのために、エーテルの振動モードそれぞれに対して等分配則を適用できたのである。しかし我々は、電磁波は物体間の直接相互作用だと仮定している。そうすると、周波数の制限はエーテルにではなく、プランクのいう共鳴子に加えられることになる。ここで、もしもその共鳴子が有限の大きさを持つならば、周波数分布が連続的なものとはなりえないことが示唆される。つまり、空洞の壁面に分布する共鳴子の数が有限であれば、それが実現しうる輻射の分布は離散的なものとなるだろう。これによって、周波数分布に加えられる制限は正当化される。

これはまだ十分な説明とは言えないが、私は、無限大と無限小を禁止することによって、プランクの公式を導くことが可能ではないかと考えている。無限大のエネルギー密度や無限個の振動子は現実的にありえない。それらを否定することから、エネルギーの離散性を導くことができないだろうか。

量子化は幻である。それは物質の有限性からくる制限にすぎない。

参考文献

物理学史研究刊行会編『熱輻射と量子 物理学古典論文叢書1』東海大学出版会、1970

M.プランク『熱輻射論 物理学の古典7』西尾成子訳、東海大学出版会、1975

プラトンに関しては、『テアイテトス』や『国家』に視覚と光に関する議論が出ている。だが、私がここで述べたような議論は見つからなかった。他の人の議論だったかもしれない。

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