『シン・ウルトラマン』と『シン・エヴァンゲリオン』感想

『シン・エヴァンゲリオン』完結編をようやく見た。これは信仰を失った日本人の物語である。

もう一本、『シン・ウルトラマン』も見終わったので、そっちの話から始めたい。

 

円谷英二には信仰があった。私はウルトラマンのファンだが、円谷についてはよく知らない。なので、あくまでも印象論として読んでほしい。

ウルトラマンは信仰の物語である。そこにあるのは素朴な信仰であり、必ずウルトラマンが助けてくれる、ということを、みな当たり前のように信じている。なぜ円谷にそれが描けたかといえば、彼自身が信仰を持っていたからだろう。

円谷は戦時中、戦意高揚のための映画を撮っていた。戦後、彼は公職を追放され、戦争協力者として周囲から糾弾されるようになったという。だが、彼は日本軍を恨んでいたわけではないし、戦争を恨んでいたわけでもなかった。

戦争に深くたずさわる者として、彼は大東亜戦争の大義を理解していた。したがって、日本の大義が実現されたことも分かっていただろう。ウルトラマンを作ったときも、円谷は日本軍を信じていたのだと思う。それが円谷の信仰であった。彼は日本軍に裏切られたとは思っていない。

 

一方で、庵野秀明の『シン・ウルトラマン』には信仰がない。理念がなく、理想がない。リアリズムという名の妥協があるだけだ。それではウルトラマンは描けない。

ウルトラマンはあくまでもコメディであり、シリアスなドラマではない。そのコメディが成立するのは、登場人物が素朴にウルトラマンを信じているからである。科学特捜隊の面々はみなボケる。イデ隊員がボケ、アラシ隊員がボケて、フジ隊員はまともかと思ったら、彼女が一番のボケである。この三人のボケに対してツッコミ不在のまま劇は進行し、視聴者が不安になったところでウルトラマンが登場、盛大なツッコミを入れて話をまとめてくれる。ここに理屈は不要だ。

『シン・ウルトラマン』の脚本家はウルトラマンを信じていない。それで不安になって、余計なドラマを入れてしまう。彼はウルトラマンに理由を与えようとする。たとえば物語の後半、ゾフィーが出てきて光の国の理屈をべらべらと喋る。まるで海外SFの焼き直しのような陳腐な設定である。こういうきちっとした設定がないと、CGで作られたリアルな映像に説得力を与えられないのかもしれないが、これでは原作のテイストが台無しになってしまう。原作の良さを消さないとリメイクが作れないのであれば、やらないほうがいい。

結局のところ、庵野には信仰が描けないのだ。ウルトラマンを信じる人間を描けない。そこに理由を与えようとするから、変なドラマができてしまう。

 

なぜ円谷には信仰が描け、庵野には描けないのか。ここには、戦後日本に浸透してきた欧米的な価値観、とくにキリスト教に起源を持つ宗教観が大きな影響を及ぼしている。『エヴァンゲリオン』という単語が本来福音を意味するものであったことを思い出してほしい。エヴァのモチーフはキリスト教でなければならなかった。なぜならば、それは戦後日本のアニメだったからである。

そもそも、キリスト教徒は信仰を持たない。キリスト教の教義には矛盾があるため、人間にはそれを信じることはできない。したがって、何も信じないことがキリスト教の信仰となる。それは虚無の宗教である。

キリスト教を宗教だと考える人は、虚構を信じることが信仰だと思い込む。彼は希望や理想、夢といったものもすべて虚構の領域に押し込む。そして、虚構に対立するものとして現実を置く。ここに虚構と現実の二元論が成立する。

二元論を信じる人々は、理想や希望は非現実的で価値を持たないものと考える。彼らは現実を肯定し、現実を受け入れろ、と唱える。そこに理想が入り込む余地はない。

 

戦後の日本人は、欧米から流入してくる二元論的な価値観と格闘しなければならなかった。円谷が戦後カトリック教会の洗礼を受けたのはそのためであろうし、『エヴァンゲリオン』には聖書に由来する単語が次から次へと登場する。その虚無を受け入れたのが庵野であり、それを拒んだのが円谷や諸星大二郎であった。

改めてエヴァンゲリオンを見直してみると、諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズの一作「生命の木」の影響を強く受けていることが分かる。この世には、神から与えられた知恵の実を食べた人間の一族と、生命の実を食べた不死の一族が存在し、主人公・稗田礼二郎は東北の片田舎で不死の一族と出会う。諸星の独特の絵柄と奇妙な世界観が融合した、傑作である。

庵野はこのストーリーからヒントを得て、生命の実を食べた使徒の一族が、知恵の実を食べた人間族と争いを繰り広げるという、エヴァンゲリオンの設定を思いついた。だが、彼はこの設定自体に価値を見出していたわけではなく、あくまでも物語を進めるための道具と割り切っていた。エヴァンゲリオンは庵野の私小説であり、彼の自意識を表現するための作品だった。

そこにはやはり、自己を超えるものに対する信仰は一切現れない。すべてが自己の中で完結している。そして、それこそがキリスト教の信仰であった。キリスト教徒にとって、事実はどうでもよいし、真実もどうでもよい。ただ、自分が信じたいものを信じるのが彼らの信仰なのだ。

庵野はキリスト教の精神をみごとに自分のものにしていた。それは戦後日本の一つの到達点、ヨーロッパの文化を吸収し、それを自分たちの言葉で表現する、という課題に対する最も優れた答えになっていた。だがそれは、日本人が信仰を失い、現実を直視することをやめた証拠でもあった。

庵野は現実を見ていない。彼が「現実に帰れ」と言うときの「現実」には、まるで具体性がない。『シン・エヴァンゲリオン』では綾波レイのクローンが田植えをしたり、碇シンジが釣りをするシーンが執拗に描かれる。それはどう見てもステレオタイプであり、作者の想像の中の「現実」を見せられているようにしか思えない。

 

理想を失った者は現実を失う。現実を知るためには、理想の眼鏡を掛けなければならない。

我々は再び、大東亜戦争の話に戻ろう。日本はこの戦争において、アジア諸民族の独立という大義を掲げて戦った。結果から見れば、その大義は達成された。当時のビルマやマレー半島はイギリスの植民地であり、インドネシアはオランダの植民地、フィリピンはアメリカの植民地であった。日本軍がこれらの地域を占領した結果、各国の独立が達成された。

ここには明確な因果関係がある。たとえばインドネシアでは、独立運動の指導者スカルノは投獄され、自由に活動ができない状態にあった。なぜ投獄されたのかといえば、警察に捕まったからである。宗主国は植民地の軍事力・警察力を完全に掌握し、独立運動を力ずくで弾圧したため、治安を維持することができた。したがって、植民地政府の軍事力を無力化しなければ、独立の達成は不可能だった。

そこで日本軍はインドネシアに進攻し、オランダ軍を無力化して、スカルノを解放した。また、ビルマからイギリス軍を追い出し、ビルマ国防軍を創設した。こうした日本軍の活動の結果として、これらの国々は独立を達成できたのである。もしも宗主国による支配が続いていれば、彼らが独立運動を続けることは難しかっただろう。その重しを取り除くことで、独立への道筋がついたのだ。したがって、大東亜戦争とアジア諸国の独立の間には因果関係があると言える。

しかしながら、連合国とその支持者らは、なぜかその因果関係を否定しようとする。なぜかというと、彼らは理想を持たないからである。抑圧された民族は解放されるべきだ、という理想をもって歴史を見るならば、ここで述べた諸々の因果関係は明瞭に洞察される。なぜ彼らは抑圧され、そしてなぜ独立を獲得するに至ったのか。植民地支配が容易に覆らなかったのは宗主国が軍事力を独占していたからであり、その状況を打破するために軍事力を破壊する必要があったのだ。

理想から疑問が生まれる。本来あるべき姿と現実の姿の間に差異を見出すことから、なぜそうなっているのか、あるいはそうなっていないのか、という疑問を発見することができる。それが学びの基本である。疑問を持たなければ、事実を観察することはできない。観察することができなければ、知ることはできない。ゆえに、現実を知るためには理想を持たねばならない。

 

『エヴァンゲリオン』に出てくる「ファーストインパクト」、「セカンドインパクト」という言葉は、第一次世界大戦、第二次世界大戦を連想させる。作中で人類は「サードインパクト」、つまり第三次世界大戦を避けるべく奮闘する。

我々はここに戦後と格闘する日本人の姿を見る。あらゆる理想が失われ、そして理想が失われたことすら感じない世界に我々は生きている。それは現実を失った世界である。劇中で碇ゲンドウが言ったように、虚構と現実の区別はなくなりつつある。

それは踏絵である。ゲンドウの言葉を受け入れるということは、ヨーロッパの価値観を受け入れるということであり、現実を見ない生き方を肯定することである。これを敗戦という。

敗戦とは、戦いに負けたことではなく、戦いが終わったことを意味する。まだ戦いは終わっていないと考える者は、決して負けたとは言わない。

これは善と悪の戦いではなく、無知と知の戦いである。知性を放棄した者だけが敗戦という言葉を使う。彼らは知性を持つ者が許せないのだ。

無知の誘惑に抗うことは難しい。だが、その先には破滅しかない。

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