イグBFC2感想【グループE】

イグBFCというイベントは自分にとってとても楽しいものでした。ここには、計88通りの狂い小説の可能性が眠っています。

草の根イグの一環として、狂いの可能性を探っていくために感想を書いていきたいと思います。もし何か問題がありましたら、灰沢までお問い合わせください。よろしくお願いします。


冬栗

文フリではありがとうございました。
「マロは、マロンが、好きでおじゃる♪」はいろんな意味でヤバいと思いました。ライブのMCで「新ギャグ」をするというのがまず意味不明です。それでお披露目するのがこれなのもかなりヤバいです。そのあとIQサプリでモヤッとボールを浴びせられる伊東四朗ばりに栗を投げつけられるのもナンセンスでした。back numberでも稲垣潤一でも山下達郎でもなく、モ・ンブランを推す町子は彼らに何を見出したのでしょうか。「ずこっ」とこけてみせる町子が、モ・ンブランのヤバいギャグセンスに何か通じるものを感じたのは確かだと思います。物語的には、町子は「心の棘」を消し去るためにモ・ンブランを利用しているのでしょう。それによって町子は「すっきり」しているのでしょう。しかし、このギャグセンスはそうした真っ当な読解を拒絶します。とにかく、さっぱりわからないわけです。そういうわけのわからなさや、教訓や救い、共感性に回収されないものこそイグ的であり、われわれが目指すべきものであるだろうと思います。やはり、ギャグで突き抜けたいわけです。そういうことを強く感じさせる作品で、よかったです。


脅威!小説変態化光線

まず、形式がフリップ芸のように一つのテーマを順繰りに展開させていくというもので、その発想自体が自分にはなく新鮮でした。戦略的には、ギャグを計算して配置できるところがこの形式を採用する強みだろうと感じました。笑いどころを、ある程度コントロールできるわけです。かつ、読者を飽きさせないつくりになっているところに構成の妙を感じました。次は何が来るのだろう、どうなるのだろうとわくわくさせるやり方になっていて、三項になりました。
ネタとしても、ダジャレ的な発想がポンポン飛び出してきて、めっちゃくだらなくてすごくよかったです。中央口論社が好きでした。微妙に小話感もある落とし方だな、と思いました。「変態」というグロテスクな奇形化とダジャレが絡み合っているところに、ダジャレをダジャレで終わらせない強い意志を感じました。グロテスクな変態性をいちいちダジャレで回収してしまう地球人のセンスがいちばんヤバいのだろうな、ということを思います。醜悪なものの変奏としてダジャレがあるというか、ダジャレを具現化すること自体に伴うバカらしさというものをこの光線は可視化してくれるのだろうなということを感じました。自分でどんな光線があるか考えてみることができるもポイントかもしれません。シンプルな構成ですが、そこにストロングスタイルなものを感じることができ、よかったです。


アンパンマンの謎

漫才の台本として、普通に面白いなと思いました。吉本の若手芸人がやっていてもおかしくない感じの作品でした。ジャムおじさんをおじさん呼ばわりするところとか、カバオをいちいちやり玉にあげるところとかが面白かったです。アンパンマンで漫才をするとき、擦られるのはだいたいカバオだというのは万人が同意するものだろうと思います。ロールパンナとかは、擦られずらいわけです。それはどうでもいいとして、元の作品のツッコミどころであったり、よく考えるとそこは結構おかしいなとか、無茶だなと思えるようなところだったり、そういうところをいちいち擦っていくのに漫才という形式は向いているのかなということを思いました。会話形式であれば、アンパンマンの謎に迫るという展開を読者が飲み込みやすいわけです。小説であれば、話者は必然的にアンパンマンガチ勢たらざるを得なくなります。

最近M-1の1回戦に勝つために漫才をつくりはじめたのですが、言葉を「読む」ことと「聞く」ことの間のギャップを強く感じています。読むときは心地よい長さも、聞いて見るとくどく感じることがあるわけです。その点で、この作品は個人的には聞きやすいなと思いました。ただ、M-1だと一人が一度に発する台詞はかなり圧縮されている印象があり、ガチでこれでM-1を目指すとしたら、もっとシェイプアップしなければならないのかもしれません。ですが、漫才の台本としてみても面白い内容で、よかったです。

10.26 はかいこうせん

 自作です。投票していただいた方、本当にありがとうございました。自作について考えます。

 まず自作の傾向として、固有名詞への依存度が強いという点があげられます。固有名詞を使うことの効果は、刺さる人への効果は大きい、という点です。ここでいう固有名詞とは、ポケモンであり、小室圭などが該当します。普通の漫才であれば、まずはじめにシチュエーションを提示し、そこからの逸脱としてボケを展開する必要があります。パロディであれば、そこを省略できます。読者の中に、既に前提があるからです。つまり、そこから違うことをすればいいわけで、ズラしやすいわけです。そこで、複数の文脈を組み合わせれば既存の文脈からブリコラージュ的に別の作品を作り出すことができます。一からオリジナルの世界、オリジナルの人間を造形するのではなく、一を二にしていく同人ゴロ(悪い言い方です)のやり方です。わたしのポケモン歴は友達から借りて殿堂入りしたハートゴールドが最新で、あとはゲーム実況者もこうの動画くらいでした。話の大枠を考えたわたしは、

https://gamewith.jp/pokemon-sword-shield/article/show/175954

 このサイトでギャラドスの種族値とわざを調べました。あとは、

 このあたりのサイトで小室圭について調べました。そしていろいろあって書き上げたのですが、結果として本家BFCの投稿に書こうと思っていた作品は書けずに終わってしまったのでした。

 固有名詞を使うことのデメリットは、読者を選ぶことと、時事ネタの場合風化するスピードがはやいという点です。刺したときの威力を高めた代わりに、その範囲が犠牲になっていたわけです。投票の推移を追っていると、10月26日以降の票数の伸びが鈍化していることがわかりました。けっこう露骨でした。本家BFCであれば、時事ネタで勝とうと考える人間はまずいないのだろうと思います。イグにおいても、同じ作品でずっと戦う必要があるという大会の形式上、どうしても2回、3回と再読したときのインパクトは薄れていきます。勝つことだけを考えたら時事ネタは使わない方が懸命だったのかもしれません。

 個人的にも、時事ネタや固有名詞に頼らず、もっと普遍ギャグを志向していくべきなのではないかとは思っています。幅広い人に読んでもらうためには、多くの人に当てはまりうるシチュエーション、状況を用いた二次創作性の薄い作品を書いていくようにした方が自分の幅は広がるのだろうと思います。漫才やコントの思考法はそのよい実践になります。ここでこうしてイグBFCの感想を書いているのも、小説におけるギャグのパターンとしてどういったものがありうるのかということを考えるためです。フックの範囲が広い普遍ギャグが、より重要なわけです。

 しかし一方で、だからこそ時事ネタで賞レースに出るべきだという論理も成り立ちます。時事ネタで普遍性を高めていってもいいし、時事ネタが途中で時事ネタではないおぞましい何かに変質してもいいのです。たとえばここでは結婚騒動の流れ自体は現実に依拠しているので、新規性は薄い。最初のコイキングと小室圭の同一化に読者が慣れたら、ストーリー自体は平凡なものに変わるわけです。そこでなにか、もう一段階展開があるべきだったなということを感じました。それはつまり、結婚騒動とはなんだったのかということへの問いでもあり、ポケモン的皇室とはなにかということへの問いでもあり、小室圭がはかいこうせんを撃つとは本質的にはどういうことなのかということへの問いでもある。そこを掘り下げていくことができれば、もう一展開を起こして読者を再度突き放していくこともできただろうと思うわけです。つまり全体として、最初の思い付きのレベルである程度まとめることはできているが、その後の二次的な展開が乏しく、最初の一発ネタというレベルを抜け出すにはもう少し工夫と思考が必要だった。かつ、小室圭と眞子さまに過剰に肩入れして、社会批判的な文脈を少し入れてしまったので、そこをもう少し捻る必要があった、のだろうと思いました。

 たとえば、いきなりブルーアイズホワイトドラゴンが出てきて滅びのバーストストリームをギャラドス(小室圭)に向けて撃ってきて眞子さまが「ドン☆(ワンピースではなく遊戯王のドン)」というカットインとともに罠カード聖なるバリア―ミラーフォースを発動させたらそこで反射された光線があちこちに拡散してヤフコメで眞子さまと小室圭を中傷している害悪ヤフコメ民に直撃したけど彼らはきあいのタスキを持っていたのでHPが1残ってしまい会見の会場に1000万を超えるヤフコメ民の軍勢が迫ろうとしていた。MとK.Kは、「はじめての共同作業」として二人同時に「はかいこうせん」を害悪ヤフコメ民にぶっぱする……とかでも、よかったわけです。

 つまり問題となるのは、時事ネタだなんだという形式性以前に、どれだけ方法論を突き詰めて気が狂えるのかということなのだと思います。大学の文芸サークルに入りたての人みたいなことを言っていますが、たぶんそういうことなのです。この作品も、メタグロスがK.KとMの怒りを受け止めようとしていますが、おそらくもっと突き抜けていく必要があるのだろうと思います。「いい話」、「教訓のある話」、「社会的に意義のある話」、「共感できる話」、「批評性の高い話」、そういうのはもっとうまい人に任せて、可能な限り無茶をできるようにしていければと思います。

 そこにおいて、①固有名詞を変奏させることによるパロディ、②より間口を広くとっていける普遍的なギャグのパターン、③それらの二要素に対して、どこまで没入し得るストーリーを組むのか、④、①~③をどれくらいの配分で合体させるのかなどの視点が重要なのだと思います。今回だと、①はほぼずっとある。というかそれしかない。②はほぼない。ポケモンと皇室のことを知っていることが前提になっている。③は、上で書いたようにポケモンバトルが始まる前までは基本的に現実の結婚騒動をなぞっているので意外性はそこまで高くない展開、ポケモンバトル以降はオリジナルだが、Mに戦いを挑んだダイゴがMに共感的なところが作品のブレーキになっていて、そこでダイゴがもう少し気が狂っていればよかったな、ここで①や②の要素をもっと詰められそうだったかな、と思います。

 固有名詞からはじまり、そこから錯乱していく。固有名詞に依存していた文脈を脱臼し、そのシステム自体を引っくり返していく。一行先が地獄みたいな破綻を、読者に共有かつ説得可能な形で提示していく。そこにおいて例えば、実験的かつ前衛的な形式を用いることが必要なのかもしれません。個人的には、ギャグのためには小説の構造は可能な限りシンプルにして、語り口は可能な限りわかりやすくするべきではないかと思っています。

 いずれにせよ、ある事象がなぜそうなっているのか、それを構成しているものはなにかという思考なくして、一段先、二段先のギャグはありえないのだろうという気持ちがあります。思い付きでごり押した一発ネタを、二発、三発と展開し、崩していく必要があるわけです。それこそが、重要なのだろうと思いますし、気が狂う道はそこにこそあるだろうと言えるのです。

 こういうことを書いていると逆に面白くないと言われる気もしますが、もうしょうがないです。次回暴れられるよう、修行します。今回投票してくださった方に応えられるよう、より精進していく所存です。最後に、阿部和重『アメリカの夜』に出てきたこの一節を引いて終わりたいと思います。

いま、「気違い」とは、はたして可能であるのか。

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