イグBFC2感想【グループD】

イグBFCというイベントは自分にとってとても楽しいものでした。ここには、計88通りの狂い小説の可能性が眠っています。

草の根イグの一環として、狂いの可能性を探っていくために感想を書いていきたいと思います。もし何か問題がありましたら、灰沢までお問い合わせください。よろしくお願いします。



オペレッタ寂寥軒

わたしの中での優勝はこれでした。読んで、完全に負けたなと思いました。小説でギャグをやるという問題において、ネタの組み方がこれだけ段違いでした。Mー1グランプリにおいて4分間で展開される漫才のような、美しさすら感じました。

特に感銘を受けたのは、作中のストーリーが進んでいく中でギャグの爆発力が上がっていくように入念な計算がなされているところでした。具体的に言うと、寂寥軒という店をめぐるギャグのボルテージが順を追って高まっているということです。

①「うまい 寂寥軒 うまい」という名前にそぐわない看板

②鏡像のような老人二人

③『味噌バターコーン』と書かれた短冊の真下にあったレイピア

④店の中ではじまるオペレッタ(アルトとテノールの十二人はあとからぞろぞろ入ってくる)

①→④において、寂寥軒の逸脱具合は弱→強になるように調整されています。客(読者)のボルテージは、読み進めていくごとに高まっていく。そしてその高まりは、老人たちとのバトルという文脈においても重なり合うわけです。

そして、①〜③と④ではギャグの位相が異なっています。①〜③の文脈では、読者は「ラーメン屋に入ったら、老人二人とのバトルが始まった」という文脈を想定する。読者の期待は、当然バトルの展開がどうなるのかという点に集約される。そこで、④の展開になって、オペレッタが始まる。ここで認識がバグるわけです。そのバグりは、①→④にいきなり移行したのでは起こらず、②と③において老人とのバトルが起こったという文脈を読者が踏まえてしまっているから、読者は気持ちよくバグることができるのです。

これは、あるギャグがシュールと言われるかちゃんとウケるギャグとして構成されているかという問題と重なるのではないかと思います。シュールというのは、客(読者)との間にギャグの文脈が構成されておらず、ギャグの送り手が受け手である客に一方的にギャグを送りつけている状態なのではないかと思います。たとえばハリウッドザコシショウのギャグは意味不明だと言われていますが、「誇張しすぎたモノマネ」において客は、嫌でも誇張される対象となる有名人のことを想定せざるを得なくなります。そこでは客とザコシの間で、ですよ。や野々村議員の存在が共有される。そしてそこから誇張が展開されて、客をその落差に笑うわけです。ギャグにおいては、客(読者)との間に前提となる情報が共有される必要があるのです。

シュールというのは原義として、「理解しがたい」ものだという側面を有しています。意味不明なものは、必ずしも笑えるものではない。そこを分かつのは、読者の「期待」です。その期待を適切に裏切ることができるとギャグは成立する。その期待が介在しないままなされるギャグはシュールになるのではないかと思います。個人的には、シュールであるよりも、普通にバカウケしてもらえるギャグのほうが強いギャグなのではないかと思っています。

ザコシの中でシュールなギャグをあげるとすれば「東西南北の方向に叫ぶ」ではないかと思います。あれは客となんの文脈も共有していません。そして、そこで仮説をたてるとすれば、シュールなギャグとは演者の身体性を担保にして成立するのではないか、と思います。そう考えたとき、小説という身体性が介在しない表現形式において、シュールであることとは、端的にギャグとしては失敗しているのではないかと思います。もちろん人によってシュールという語に込めるニュアンスは異なると思いますが、わたしの中ではそう感じています。なぜなら、小説は言語であり、いくらでも意味不明に構成することができてしまうものだからです。

そしてオペレッタ寂寥軒に戻ると、いきなりオペレッタがはじまるシチュエーションは「シュール」にもなりえます。ですがここでは、それがバカウケギャグとして完璧な成功を収めているわけです。その理由は、これまで述べたようにオペレッタに至るまでの過程を丁寧に構築しているからに、他ならないのです。いきなり天壌無窮セネッセンスがはじまっても笑いは生じません。ラーメン屋に入る→オペレッタが始まるの流れより、ラーメン屋に入る→老人とバトルする→オペレッタが始まるの流れのほうが、天壌無窮セネッセンスを存分に活かせるわけなのです。そして天壌無窮セネッセンスの歌詞はもう、普通に頭おかしいです。歌が「おなかいっぱい」で閉じてるところとかは最高でした。啜にルビがついてる配慮も素晴らしいです。そしてこの頭おかしい歌詞は、それ以前の文脈を踏まえているからこそ圧倒的に輝くわけなのです。

というように、④の時点で爆発的なウケを引き起こせるよう、①、②、③とギャグを畳み掛けていくことで、読者のテンションを操作していく工夫が入念になされていくところがすごいと思いました。

そしてこの作品で言われている「後半部の勢い」についてなのですが、この作品はMー1の競技漫才に構成がかなり近くて、小ボケ→大ボケと重ねていき、最後は小ボケとで終わるという構成になっています。一般的な漫才の終わりはだいたい小ボケになっていて、漫才において「終わりのボケがいちばんよかった」という人はあまりいません。なんというか、字数の問題以上に、このあとさらに大ボケを畳み掛けるのはこの作品の構造から考えると難しすぎるのではないかとすら思います。自分なら最後のギャグでこうしたかもしれないみたいなものはありますが、ぶっちゃけニガクサさんのアイデアがいちばんいいのではないかと思うので改稿を期待しております。この分量でなんとなく察せられるかと思いますが、最高でした。激烈によかったです。

アイの手紙

正統派の怪文書でした。行方不明者にまつわる文書、実際に届いたら恐ろしいなと思います。

怪文書の条件として、論理展開が一方的であることがまずあげられると思います。たぶん原義とは違うと思いますが、怪文書という形式に期待されるのはそういうことではないかと思います。その点で見たとき、この作品は怪文書のリアリズムに忠実に作られていて、その完成度は高いと思いました。こういう怪文書は、「本物らしい」ということです。怪文書界において、フェアな怪文書とフェアではない怪文書があるとしたら、この作品は前者にあたると思います。たとえばラストで検出された唾液がみのもんたのものだったとしたら、作品はフェアでない方向に傾くと思います。おそらく、最初からフェアな怪文書を書こうと思って書かれたのだと思いますが、フェアでない方向のものも見てみたいなと思いました。恐怖をリアルに実感させる作品でよかったです。

ヴァンパイア・レタスと

設定自体はweb小説で長編として使えそうなものでしたが、そこにオチとして彦摩呂を持ってきたのがいいなと思いました。最後で引っくり返す一発ネタの場合、オチがいまいち刺さらないと微妙な感じになってしまうと思うのですが、最後まで彦摩呂を隠し通してオチで引っくり返したのがうまくハマっていました。オチに全振りするのは結構勇気がいると思うのですが、そこで臆せず彦摩呂を信じているのがよいところだなと感じました。同時に、吸血鬼はいつ彦摩呂になったのかという点も再読してみると面白いなと思いました。食べまくった結果彦摩呂になったのか、牛乳を飲んだあともはや彦摩呂になっていたのか、そこは解釈がわかれるところだなと思いました。人ならざる者はいかにして彦摩呂になったか? 彦摩呂ははじめから彦摩呂だったのか、それとも環境が彼を彦摩呂にしたのか。いや、彼は輸血パックを口にした時点でもはや食レポをやっていたのではないか? そういうことを考えさせられて、よかったです。

スケッチ

何かをまくしたてる形式は必然的に語る主体の有する熱意を読者に伝えます。ドストエフスキーのようなパターンです。ところが、この作品においてはその熱量が意図的に抑制されている。それはなぜかと考えた時に、リズムの問題なのかもしれないと思いました。文節ごとに一定のリズムを刻んでいるのかどうかで熱量が変わってくるのかもしれません。個人的には、この作品は一定のリズムを刻んで読むことを読者に求めていると感じました。それが結果的に、文章にある種の気取りを生むのだろうと感じました。そしてそれが語り手の寂寥を感じさせることにもつながっているわけです。これが無軌道な語りになったとき、彼はどう狂うのかなと言うことが気になりました。技術として自分には書けないものを読むことができて、よかったです。






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