見出し画像

日本人に生まれたら、俳句をお詠み(さらにさらに)

日本人じゃなくても俳句を知ったなら、まずお詠みになるといい。

(自分で)詠まないと(人の句をちゃんと)読めない、というけったいな文芸。だけど、リターンはことのほか大きい。
詠んだその日から、世界がちがって見える。あの花はあの草はあの鳥は、この陽気はこの気分は、なんというのだったか。なんにも知らないことに気づく。自分は知らない、と気づかされたら人間たいがい、気分を害しますな。何だとー、おれがバカだというのか!?みたいになる。これも人情、わからないこともない。

ところが、俳句は、ちょっと齧っただけで、己の無知を自ら悟ることができる。それでいてまったく気分が悪くない。

自分の無知を知り、むしろそれをたのしんでいろんな言葉や言い回しを覚えて試し、人に読んでもらってああだこうだと言われ、じゃあこうかななんてやってるうちに上手くなる。そしていつしか、名句が詠めて誰か知らない人に口ずさまれたら、その句はもしかして何百年もの命になる。

詠まない手はないでしょう?

名前なんて残したくないという方もおられると思うのですが、それも大丈夫。たいがい俳句だけ残りますからね。

人のゆく裏に道あり花の山

なんて、今や投資心得として有名な句ですが、作者はわからない。千利休だとか、豪商の誰かだとか、いろんな説がある。私の祖母は、貝原益軒が言いそうなことだと推理してましたが、今なおわからない。

芭蕉はこの辺もダントツで、古池と夏草は間違いなく結びつきます。これ芭蕉の句だと。しかし五月雨になったら怪しい。

五月雨をあつめてはやし最上川

五月雨や大河を前に家二軒

五月雨を降り残してや光堂

どれが芭蕉でしょう?どれも俳句としては知っている。聞いたことある。でも作者がくっついていない。

柿食へば鐘がなるなり法隆寺

これ、正岡子規の作だとくっついてそうですね。

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

やれ打つな蠅が手をする足をする

なんても、作者は一茶と知られてそうです。

やせがえる負けるな一茶これにあり

は一茶と入っちゃってるのでもちろんわかりますが、一茶は芭蕉から見ると150年くらい後の人で、句風はユニークで、それまでの俳句に似ていないし、その後に続く俳人もほとんどいない。生き方も変人でしたが、俳句も前人未到の域。作品と作者がくっついて知られているという意味では芭蕉に勝るとも劣らない。一茶は作品と作者の離れ具合をもしかしたら感じ取っていたかもしれませんね。それで、自分の名前を入れる句作をした。のかもしれない。

梅一輪一輪ほどのあたたかさ

目には青葉山ほととぎす初がつお

朝顔に釣瓶取られてもらひ水

凩の果てはありけり海の音

むっちゃ知ってると思います。が、さて、作者は誰かとなったら4句とも難問でしょう。作者名を言ってももしかして、その人知らないなあ、になるんじゃないか。
作者名、言いましょうか。順に、服部嵐雪、山口素堂、加賀千代女、池西言水、です。ふつう知りませんねえ。

逆に。名前を残したいんだよという野心家もいらっしゃると思いますが、それは頑張ってというほかない。一茶くらい、変わった生き方をしたら可能かもしれない。

閑話。
10年くらい前、老人ホームのおじいちゃんおばあちゃんに俳句の楽しみを教えに行ってました。
生まれて初めて作句する方が多かったのですが、席題はその時「節分」だったかな、出してみると、ものの10分もせず詠みだします。中には自分ではそう申告しないのだけど、長年嗜んできたと見られる凄腕がお二人いて、こちらはタジタジになるなんてこともあった(その時の句会の様子はいつか書きます)。

俳句の何がいいって、30分で俳人になれることです。一生かかっても名人にはなれないのだけど、名句の報酬は、人口に膾炙して永劫に残るという意味では極大。趣味として嗜みとしてこれ以上のものはそうそうありませんね。だって、自分の吐き出した句が神の掲示板にぶら下がるんですからね。そこに札がかかると、どうなるか。似た言い方を排除できるんです。排他的文学領域みたいなものを持てる。ある種の絶対存在になれる。

芭蕉は最多の排他的文学領域ホルダーでしょうね。「夏草」はいけても「夏草や」になると相当厳しい。「閑かさや」はまったく困難。「古池や」に至っては、何を言ったとしても言い換えに思われ、よくてオマージュ、健闘してパロディ、わるいとモノマネと言われます。

さあ、あなたも詠んで、詠みまくって、神様の掲示板にお札をぶら下げにいきましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?