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M-1グランプリ2022のファイナリストは、なぜ一見大人しいのか

先月末に開催された準決勝で、M-1グランプリ2022の決勝戦に出場する9組が出揃った。そのラインナップは従来のM-1のイメージからすると異色に映るかもしれない。というのも、漫才といって普通イメージされる、ボケとツッコミのハイテンポなかけ合いを演じるコンビが、9組のうち、さや香しかいないからだ。真空ジェシカやダイヤモンド、ウエストランドもオーソドックスな漫才寄りではあるが、それでも普通なら異色のコンビに数えられておかしくない面々である。
代わりにどういうコンビが多いかというと、芝居がかった独自のテンポで喋るコンビが多い。キュウやカベポスターは、その実力を認められながらも比較的ゆっくり喋るスタイルゆえにM-1の決勝に立つのは難しいだろうと言われていたし、ロングコートダディや男性ブランコは関西弁ながらスマートな、あるいは落ち着いた喋り方が持ち味だ。ヨネダ2000はそもそもネタ中であまり会話によるかけ合いをしない。
どうして今年はこういう異色のコンビたちが勝ち上がったのだろうか。別にゆっくりした喋りの笑いがブームになったとも思えない。何なら、今年の決勝は大人しい「引き」の漫才が多いから、今までになく地味な大会になるのではないか、という声さえある。だが、こうしたファイナリスト9組が選ばれたのは決して偶然ではなく、M-1を審査するスタッフの、あるいはその先にいる我々観客の、ある価値観を反映した結果であると思われる。その価値観とは何かを、以下に書いていこう。
 
 
さや香が今年のファイナリストインタビュー動画で言っているように、現在のM-1は「レベルが上がりすぎている」。予選でもウケるのは当然として、みんながウケている中で「お好みで」「M-1が誰を選ぶか」次第のようにすら感じられるという。同じような所感を他の芸人が述べているところも何度か耳にしているから、現場ではそういう実感がよく語られているのだろう。そんな中で、今年のファイナリストの選出にはM-1の「価値観」が明確に表れたように思われる。それは「舞台としての満足感がある」漫才が良い漫才である、というものだ。
M-1をはじめ、賞レースの漫才は通常の寄席と違った特殊なものになる。観客はみな真剣に舞台を見ており、その中でいかに笑いを取れるかが審査される。そうなると例えば、いろんな話題を振りながら散発的にボケていくような、古典的な漫才は不利になりやすい。一つの話題や設定で展開していったほうが、ボケをたくさん織り込めるし、観客を話題に深く引き込むことができるからだ。そうした技術の存在は、最も観客の多い賞レースことM-1の放送が重ねられることで、視聴者にも伝わっていく。実際、00年代のM-1決勝ですでに、審査員がすぐれた芸人に対して「4分間の使い方が絶妙」といったコメントを残していることからも、そうした価値判断が芸人・観客・審査員に共有されつつあったことがわかるだろう。つまり、「限られた時間の中で観客を話題に引き込み、たくさんの笑いを挟みながら展開を盛り上げ、爆発的な笑いを引き起こしてオチまで持っていくというのが、理想的な漫才である」という価値観が浸透していくのが、00年代のM-1だった。
こうした価値観のもとに洗練された漫才は、時として「感動」をもたらす。あまりに漫才が面白くて夢中になってしまったとき、心が舞台という別世界に飛んで行って、一度現実を忘れてしまうような笑いを経験したことはないだろうか。M-1決勝の舞台で優勝するような漫才は、そうした経験を視聴者にもたらすほどの盛り上がりを作るようになっていった。決勝大会の放送がスタートして、序盤の数組が漫才を披露する。いずれも素晴らしいネタではあるものの、点数は伸び切らない。まだか、今年のスターはまだ現れないのか――。そうした緊張感の中で、みんなの期待に応えるような爆発的な笑いを生むコンビが登場し、高得点をさらっていく。近年のM-1でそうしたポジションを体現したのは、2018年の霜降り明星、2019年のミルクボーイ以降の優勝者たちである。2015年に復活して以降、なかなかかつての熱狂を再現できなかったM-1は、彼らの劇的な優勝によって再び「スターを生む場」としての地位を確立することになった。
さて、そうした傾向が極まると、ここに一つの逆説が現れる。つまり、「M-1決勝の舞台で勝負するようなネタは、感動を生むようなネタでなければならない」。そうでなければ、決勝の舞台に上げる意味がない。したがって、M-1の決勝に求められるのは、感動を生むような「舞台としての満足感」があるネタである――これこそが現在のM-1の価値観であり、その価値観のもとに集ったのが今年のファイナリスト9組なのではないかと考えている。どういうことかを説明するため、彼らのネタの傾向を見ていこう。
 
 
今年のファイナリストにはラーメンズの影響下にあるコンビが多いと指摘している人がいた。具体的にはロングコートダディ、男性ブランコ、キュウがそうで、カベポスターやダイヤモンドにもそうした要素を感じるということだ。個人的にはラーメンズが全く好きではないのでその発想には至らなかったが、確かに的を得ていると思った。実際、ロングコートダディや男性ブランコはコント師として知られているし、カベポスターもコントをやっているので、比較的ラーメンズの芸風には近いだろう。だが、キュウやダイヤモンドも含め、今回は彼らの漫才にこそラーメンズ的なものが感じられる。
ラーメンズのコントはどこが特徴的なのか。一般的なコントでは、現実にいる人間をモデルにしつつ一部を誇張したようなキャラクターが登場し、彼らのやり取りを軸とした物語が進んでいく。これが素朴なリアリズムに基づいたコントである。一方、ラーメンズのコントでは、現実とは少し違ったロジックで行動するキャラクターが登場したり、そもそも登場人物の物語ではなく言葉遊びを軸に舞台が展開していったりする。ここでいう現実とは違ったロジックや言葉遊びのような、ネタの中でしか成立しない法則性のことを「システム」と呼ぼう。ラーメンズのコントは、単なる設定とは異なる「システム」の存在によって特徴づけられる(正直ラーメンズにそれほど詳しい方ではないので変なことを言っていたらすみません)。
そして、ロングコートダディやキュウなど、先に挙げた芸人たちが今年の準決勝で披露した漫才には、いずれもこうした「システム」が用いられている。ロングコートダディは漫才でもコントでも、ネタごとに新たな「システム」を作り出す職人のようなところがあるし、キュウはどのネタでも独自のルールに基づいた言葉遊びを展開している。昨年の準決勝ではオーソドックスなコント漫才で大ウケをとった男性ブランコは、今年はかなり変わった設定のネタで勝負していた。ダイヤモンドの勝負ネタも言葉遊びをめぐるものだし、カベポスターのネタ(準決勝ではABCの決勝と同じネタをやっていた)に特徴的な展開の面白さも、ネタ中の話題における「システム」によって生み出されている。
(※なお、ふつう「システム漫才」というときは、「あるネタの笑いをとるパターンが一定であるとき、そのパターンをシステムと言う」くらいのニュアンスで用いられることが多いと思うが、今回の用法はそれとは異なっている)
そして何なら、さや香やヨネダ2000のネタにも「システム」は用いられている。今年のさや香が披露しているネタは、いわゆるしゃべくり漫才の体をとってはいるが、ボケの方が特殊なこだわりを持った主張をしてくるという点で、2019年決勝のかまいたちのネタを思い出させるものだ。ここには言うまでもなく、「特殊なこだわり」という「システム」が存在する。ヨネダ2000の漫才では、不思議な「システム」が彼女たちの動作とリズムを通して展開される。ほぼ「システム」要素を用いていないのは、井口のルサンチマンをぶちまけるしゃべくりを軸とするウエストランドと、コント漫才に分類される真空ジェシカくらいだろう。
こうした「システム」の特徴は、漫才師のふたりのキャラクターとは独立して機能し、舞台を駆動していくことにある。近年最も成功した「システム」の使用者はミルクボーイだろう。彼らのネタは「誰がやっても面白いが、彼らが演じるのが一番面白い漫才」と評価されていた。ミルクボーイの漫才で、オカンの発言によって議論が往復する様は、それだけで笑いをどんどん生み出すことができる。誰があの台本を読み上げても、その面白さは理解できるはずだ。だが、駒場がオカンの発言をとぼけた口調で語り、それに対して内海がオッサンくさく長々とツッコむのが、あのシステムに最も合ったパフォーマンスなのである。演者が誰でもいいというわけではなく、どんなシステムにもそれをうまく伝えられる演者が必要なのだ。
少し話が逸れたが、ではそうした「システム」を漫才に取り入れる利点とはなんだろうか。普通、漫才の中で観客に「システム」を理解させることは、ネタをわかりにくくするリスクを伴うため、避けられがちである。00年代のM-1にも、サンドウィッチマンやNON STYLEのように、リアリズムの範囲で理解できるコント漫才で爆笑をさらった優勝者は少なくない。そうしたネタなら、観客はズレたことを言うボケと、それを訂正するツッコミがいるということだけ理解すればよい。それでもネタを追うにつれて笑いが大きくなっていけば、「舞台としての満足感」は十分に演出できる。
だがここにきて、わかりにくさというリスクを引き受けてでも「システム」を使うことの利点が顕在化してきた。ここまで述べてきたように、今のM-1決勝の舞台で求められているのは「感動」であり、漫才の中で「感動」をもたらすためには、観客の心を別の世界に飛ばす必要がある。そして「システム」は観客の心を飛ばすためのブースターとなるのである。観客が漫才の中にある「システム」を理解しようとする際、彼らの心は現実とは別のロジックに導かれ、疑似的に別の世界を歩んでいくことになるからだ。
キュウの漫才を例にとってみよう。彼らが独自の言葉遊びを始めるとき、観客の反応はあまりよくない。現実とは違ったロジックを理解するのに時間がかかるからだ。だが、話が進んで言葉遊びが予想もつかない方に展開していくと、そこには大きな笑いが生まれだす。もちろんその間もキュウという演者自身のことは目に入っているのだが、観客はこのロジックがどこまで飛躍するのかということに心を奪われている。そして漫才の後半、ロジックのうねりが最も大きくなったとき、観客は現実のことを忘れ、言葉遊びの世界の奥深くで感動を得るのである。
実はこうした「システム」の作用は、4分の漫才よりも長尺のコントの方が相性が良い。せっかく苦労して観客を「システム」の世界に飛ばすのだから、その中でより長く深く遊べる方が良いだろう。だが現在のM-1では4分の漫才にすらそうした「深さ」が求められ、結果としてコント並みの世界観を使いこなす漫才師たちがファイナリストに選ばれるまでになったのだ。
付け加えると、キュウやカベポスターのような「システム」の使い手が芝居がかった独自のテンポで喋ることが多いのは、それが彼らが漫才の中で独自の「システム」を用いますよ、ということを示すうえで相性が良いからである。平たく言えば、この漫才は独自の世界観をもっていますよ、ということだ。
 

今年のM-1決勝戦は、奥深い「システム」の世界を使いこなす漫才師たちが一堂に集結した、興味深い大会となっている。果たしてそれは大人しく地味な大会で終わるのか、それともここ数年の大会と同様に過去最大級の感動をもたらすのか。そして、こうした「感動」重視の傾向が飽和したあと、人々はM-1にどういう漫才を求めるのか。今後の賞レースの行方がますます楽しみになる大会だ。

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