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未だ聴こえない音楽の制作日誌 -最終回- いま、音楽とは何か

2021年10月22日

本日、紆余曲折を経て、4年ぶりのアルバムがリリースされた。

ついに「未だ聞こえない音楽」は「聞こえる音楽」となり、その役割を全うし始めた。

この楽曲を皆さまにお聞かせできる日が来たことがとても嬉しい。このnoteでも一度も触れて来ず、最後にサプライズをとずっと秘密にしてきた。今回のアルバムのもう一人のゲストは石垣優氏である。歌に愛された彼女と制作したこの楽曲が世に出ることをずっと待ち望んでいた。

この曲が4年もの間、私の中にあってその鮮やかさを失わなかったことが、音楽の道に戻る理由であった。この彼女の歌声を世に送り出すことが使命だと感じた。

2017年にドキュメンタリー映画のためにアルバム「ZAN」をリリースして以来、生活に限界をきたし、2018年に社会に出て会社員として働き、2020年に退社、精神的な傷を癒しながら制作に身を投じ、2021年の初夏に完成させ、本日の発売日を迎えても、常に頭の中にあること。

「いま、音楽とは何か」

これを考えない日はなかったし、これからも毎日考えていくだろう。

いまの私が持っている答えは「個人と社会を繋ぐ時間芸術」。

こうして言い切ってしまうのは難しく、同時に非常に怖い。辿り着いたこの答えすらも全くの抽象であり、概念であり、未検証であり、さらに厄介なことに現時点でのかりそめのものでしかないからだ。明日、全文を書き直すことがあるかもしれないくらい変化していくものである。

この答えに至るには大きく2つの段階があった。一つには「時間に縛られる芸術」、もう一つには「二極化しかけていた音楽表現に第三の選択肢を見出したこと」である。

この私が今思う音楽の姿の答えを出した2つの段階の経緯を説明して、この制作日誌の最終稿としたい。もちろん、その他にも細かい影響があっての答えではあるが、そこまで書くと何ヶ月あっても足りなさそうなので、割愛させていただく。

とある世界の片隅の、ひとつの長い呟き、未検証のしがない論文として読んでいただければこれ幸い。結論を急ぐなら、これ以上は読まずにご自身で考えていただき、あなたなりの回答を出していただいた方が有意義だと思う。

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人類の歴史上古くからある音楽は、電気の発明によってその価値が大きく変わった。録音によって、形のないものが形をなし、複製できないはずのものが複製され人々の元に届くようになった。そして、この15年の恐ろしいほどに急激な変化、CD、mp3、ストリーミングと急な坂道を駆け上がっていくような時代の変化に、音楽家たちも、その周囲の業界も、聴衆も皆揃って翻弄されてきた。

そして現在、突然の予想だにしなかった事態によって、世界的に、同時に、私たちは翻弄されている。音楽だけでなく、人間の全てが翻弄された。

我が国内においては2011年の東日本大震災の時と同じように、昨年、音楽は必要無いものになった。これは、本当であると思う。どんなに理屈を捏ねてみようとも、音楽は必要ないものだ。東日本大震災の時にもう、自覚している。

さらに言えば、当時よりももっと必要がなくなっているという実感があるのが本当だ。

人々は、時間がなくなった。

インターネットがほとんど全ての人に行き渡った現在、文字は140字、Youtube動画も30分では長すぎる空気になってきている。10分、いや5分、3分と省略されていく。15秒の動画が楽しかったり、ひと目見て面白い画像や絵、1ページだけの漫画、ついには2倍速で見る映画やドラマ、アニメ。人々は効率化と合理化に熱中し、いかに短時間で人生を豊かにするかを考えているように感じる。

これに取り残されていくであろうものの一つが音楽である。

音楽は厄介だ。早送りしたら内容が変わってしまう。映像作品以上に。ヒップホップを早送りして、ドラムンベースとして聴くことはできない。だから楽しむためにどうしても時間が必要になる。楽しみを味わうための時間が効率化できない。入手まではだいぶ簡単になったが、楽しむことに今も昔も変わらない対等な時間が必要だ。作る側が楽曲1曲を5分、4分、3分半と短くすることで対応してきた節はあるが、それにも限界がある。

もちろん、別の面から見れば、既に多くの人がそうしているように、音楽はたくさんの仕事や、作業を効率化してくれるもの、ツールになれる。世界と自分を切り離したり、過去の思い出を想起させるスイッチの役割も果たす。

しかし、道具として生まれて来ていない音楽は?

この「時間に縛られてしまう芸術」というのが今の音楽の姿である、と思う。

音楽を楽しむには、全ての人が同じだけの「時間の消費」が必要である。この忙しない日々において、今後「音楽に時間を使うこと」は非常に贅沢な楽しみになっていくのではないだろうか。

嘆き悲しむのではない。これは音楽の最大の武器になりうる。

つまり、音楽を楽しむという行為自体が将来的に「素晴らしく贅沢なもの」となり、「時間が必要な芸術である」という認識から「時間芸術」というスタンスが確立できるという考えに至ったのだ。

とある音や言葉の連なりに耳をかたむけ、一定の時間を使うことによって、その感情、感性に刺激を与え、より生活を豊かにするもの。時間の経過によって起こる感情の変化や、世界の移ろい、光の変化を楽しむもの。

音楽本来の姿でありながら、それをより強く意識すること。これからの音楽が進んでいくであろう道の一つは、これであると考えている。

今の世にあって常に変化し続ける「時間」に対して、一つの基準となり、定規のように目盛りを入れていくのだ。

この、全ての人が等しく同じ時間を消費する必要がある、という部分に音楽のもう一つの大きな武器が活きてくる。「体験の共有」である。

現在の世界的危機の直前、必要の無くなりつつある音楽が独自の武器としていたもの。

「大勢の人たちが一堂に会し、同じ時間を過ごし、同じものを見て、同じ体験をするという体験」。ライブ/コンサートの体験。これがそれまでの音楽の最大の武器だった。このことにおいて音楽は他の芸術の追随を許さない"エンターテインメント"であった。

それまでにどんな経緯があろうとも、その場では全ての人が平等にそれを目撃し、それを体験する。毎回違う何かのある現場、これに対する体験を皆平等に受け取り、そして全員が同じ対価を払ったことにより、思い思いに語り合うことができる。これが音楽が個人と社会を繋ぐ橋渡しとしての役目であった。

そして突然不可能になった。

いくつかの対応のうちの一つをあげればライブストリーミングである。映像配信によって「違う場所で、同じ時間、同じ物を見る」という部分は達成できたが、やはり肝心の部分の満足に至らない。大音量による肉体的体験も足りないし(例外として、山下達郎のライブ配信は恐ろしいほど素晴らしいものであった)、体が触れ合うほどの距離にいる他人と感情の同調を感じる一体感という部分がどうしても達成されない。そうなると同じ時間という必要性も無くなり、今までよりもさらに個人的に楽しむものになっていくのは、ある意味必然であると言えよう。

(代わりに、誰かの話しているYouTubeの生配信の方が、リアルタイムの反応によって「場所は違えど、同じ時間に同じものを楽しんでいる」という連帯感と安心感が得られ、人気が出ていくのも納得のいくところだ。)

それまで音楽は二つの道に分かれ始めていたと思う。

大勢で楽しむための、個人と社会を繋ぐためのツールとしてのエンターテインメント。

生活のなかに置き、個人の楽しみとして存在するインテリアとしての音楽。

しかしここに、この世界的な移動の中止によってもう一つのスタイル、ある意味で原点に回帰する流れが生まれ始めていると感じた。

それが第三の道。違う場所、違う時間、違う気持ちでも、聴いた人が何かを抱くことができて、それをいつかどこかで聞いた人同士で語り合えるような音楽。しっかりと何かを心に留まる何かのある音楽。

この第三の道を発見した時、私は作り上げかけていた作品を大きく方向転換し、もう一度作り直すことを決意したのだ。

今はそれぞれに違う場所、違う時間にいる人たちが、同じだけの時間を消費して感じたことをどこかで語り合えるような音楽。距離と時と環境も超えて、個人と社会を繋げられるような音楽。

しがない、世界の片隅の小さな音楽だとしても、これが実現できるような作品を作りたいと思った。

そう思った時、音作りの焦点は「知覚」と「印象」に向いた。あえてパースを狂わせる知覚像を利用したアニメーションの技法からヒントを得て、聴いたままの感覚で音楽を作る。そして普遍的なものを多く取り込みつつ、いまの時代の世界を感じたままに描き出すこと。これによって時間と場所を違えた人々でも、同じ感覚を共有できるのではないか。

そしてまたこの制作方法は、それまで自分が影響を受けてきていた印象派絵画や浮世絵の思想ともリンクしたのである。これまでは浮世絵の影響に印象派の思想を足すような感じであったが、今回は逆転した。輪郭をぼやかし、光の変化を捉え、日常を、見た「感じ」で捉えること。日々のフィールドレコーディングもその手助けとなり、合わせて混ぜて消化して、一つのアルバムは制作された。

普遍性を持たせ、時と場所と、経緯を選ばずに人々の心に何かを持たせるとは、どの芸術においても一番難しい道である。しかし世界を見渡した時、音楽全体でその高みを目指すという機運が高まっていると思えることが、私は嬉しくてたまらないのだ。

音楽はこの先どのような芸術になっていくか、考えの浅い私には全く予想がつかない。日々、ただ考えることしかできない。効率の悪い、面倒で厄介な芸術となってしまったとしても、生活を、人生を彩ることのできる芸術の一つであり続け、少なくとも「個人と社会を繋ぐ」何かではあり続けて欲しいと願って止まない。

もう一度大勢での体験が戻ってくる日も近づいている。私もそんな日を楽しみにしている。そしてまた、生活に寄り添ってくれるような音楽もまだまだたくさん聴きたい。しかしこの世界的な危機的状況において、それに潰されることなく、もう一つの音楽表現の道が生まれたことを祝福したいと思う。

時を越えて、距離を越えて、夜を越えて、いつか誰かと同じ時間を消費し、体験したことを共有できるような音楽。

今回の拙作が「個人と社会を繋ぐ時間芸術」として成り立っていることを願うばかりである。

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長きに渡って私の駄文を読み続けてくださった皆様には感謝の念が絶えません。2021年の1月からたいそうなことを言い続けてきて、出たアルバムがこれかよー?ということもあるやもしれません。申し訳御座いません。

私のような未熟者にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

まだまだ精進して新しい音楽を作っていこうと思います。その際にはまた何か文章にしていこうと思います。


精神の風を粘土の上に吹かせ、より良き人間を作ることに参加できていれば幸いです。


明日も私は音楽を作っています。



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