黒い点

初夏の頃だったか、地方の道の駅で有機無農薬の玄米を見つけて買ってきた。
いつもは必ず知り合いのお店で無農薬玄米を購入するのだが、ちょうど切らせていたときにタイミングよく出先で見つけたので、迷わず2袋買った。

先日、一袋目を食べつくし、二袋目を開けてカップですくおうとしたとき、異変に気付いた。
ひとつ。
米の上を動く、小さな小さな「黒い点」が見える。
最初はコバエでもとまったのかと思った。そのうち、飛んでいくだろうと。
でも、いつまで待っても飛ばない。

ルーペで見ると、コクゾウムシだった。
ほんの1ミリほどの、アリよりも小さな害虫。
久しぶりだ。

私が生まれた頃、まだ世の中は食品添加物や農薬が野放し状態だった。
人工甘味料や合成着色料の害が問題になり、ごく一部の人間は警鐘を鳴らし行動を起こしていたが、世の中の大部分の人は無関心だった。
母はその「ごく一部の人間」のうちのひとりだった。
安全な食品を求め、自ら行動を起こした。
賛同してくれる人を探し回り、少しずつご縁を繋いでいった。
世間からは変人扱いされ、笑われたが、信念を貫き通した。
なにしろ、毎日玄米を食べているだけで、わざわざ全国紙が取材に来て、三段抜きで家族写真が載った時代である。
それほど、少数派だったのである。

その玄米も、当然無農薬の安全なものを、何処かから入手していた。
安全だったが、その代わり手間もかかった。
石が混じっていた。
ご飯を炊く前に、必ず石を取り除く作業があった。
いくら頑張っても完全には除ききれず、食べている最中に「ガリッ!」っとくることは、文字通り日常茶飯事だった。
そしてあの「コクゾウムシ」も当然の如く、お米と一緒に居たのである。

家にお米が届くと、まず庭にゴザを敷き、その上に万遍なく広げる。
日光の下に晒され、慌ててコクゾウムシが出てくる。
それを見つけて、一匹、また一匹と潰していく。
主に父の仕事だったが、私も手伝いで時々やらされた。
だからコクゾウムシの姿かたちはよく覚えていた。

そういえば、いつの頃からかさっぱり見なくなったな、とは思っていた。

その「コクゾウムシ」と、何十年かぶりに「再会」?したのだ。

何とかしなければならない。
とりあえず、ゴザは無いので、紙の米袋から透明な樹脂製のケースに移した。
さあ、どうしたものか。

考えている間に、相手が動き出した。
岩だらけの荒れ地のようにも見える玄米の表面を歩くコクゾウムシ。
捕まえてすぐ潰さなければ。

だが、躊躇する。

子供の頃はできたことが、今はなかなかできない。
ゴザの上で手伝いをした「あの夏」から、幾年月が過ぎた。
その間に、身近な人が、いったい幾人死んでいっただろう。
何も知らなかった子供のときの自分と、嫌と言うほど命の重みを思い知らされた、今の自分。

手を下せない。

コクゾウムシはケースの内壁まで辿り着き、透明な壁を懸命に登り始めた。
丸見えである。
そして思ったより、速い。
このままでは、逃げられてしまう。
そうすれば、他の食料も被害を受けるかもしれない。

「許せ!」

壁のてっぺんまであと1センチ。
やっとのことで登ってきたコクゾウムシを私はつまみ、そして殺した。

心臓のあたりが、キュッと痛んだ。

ふと目を戻すと、他にも動いている点がある。
子供の頃は虫の形までしっかり見えたのだが、今は老眼が始まっているのでディティールが見えない。
動かなければ、米粒の表面についた模様にしか見えなかったかもしれない。
だが、動くとわかる。
わかってしまう。

「動く黒い点」を捕まえては、殺す。
「透明な壁の上を動く黒い点」を捕まえては、また殺す。

それを繰り返しているうちに、おかしな気分になってきた。

というか、感情が無くなってきた。
最初に感じた、あの、心臓を締め付けられるような痛みが、無い。

じっと待つ。
目を凝らして、見張る。
目の前で少しでも動くものがあれば、すぐに捕まえて、殺す。

動くものが無くなったら、米に手を突っ込んで、底の方から返す。
そして、待つ。
見張る。
また、動く「黒い点」。
殺す。

「出てくる敵は 皆々殺せ」

ふと、父が歌っていた軍歌を思い出した。

私は、父が随分歳をとってからの子供である。
だから父は戦争に行っている。
銃や軍刀を持って、実際に異国の地を走り回ったのだ。

そんな父が、家事をするときなどに、時折景気づけに歌っていた歌。
軍歌と言うか、軍隊で出撃の時に進軍ラッパに合わせて歌っていた、歌とも言えない言葉である。

それが、急に頭に浮かんだ。

戦争とは、もしかしてこんな感じだったんじゃないだろうか。

最初の一人を殺すのには、ものすごく高いハードルがあり、敵とはいえ人を殺めた後は、とてつもなく後味が悪いものなのだろう。
だが、繰り返すうちに、やがて敵の兵士は、ただの「動く黒い点」になる。

玄米の山は、満州の広大な荒野。
ケースの壁は、丘の斜面。
山の上から、機関銃でじっと狙う。
少しでも動く「黒い点」があれば、何も考えず、機械的に、即、撃つ。

それを繰り返す。

動くものが無くなったら、米に手を入れて返すが如く、砲弾を雨あられの様に降らせ、大地を揺るがしてから、待つ。

そのうちに、ボロボロになった「黒い点」が動く。

容赦なく、撃つ。

繰り返す。

「動く黒い点」が、完全に無くなるまで。

そこに感情は無い。
ただ、機械のように、黙々とこなす「作業」だ。

ところ変わって、形勢が逆転。
やがて今度は自分が「黒い点」になる日がやってくる。
動いたら、終わり。
いくら威勢のいい声を上げようとも、弾は容赦なく「黒い点」を貫く。

ケンカでボコボコに殴られたときよりも、
木の上から落ちて、息が止まってしまうほど痛かった時よりも、
今まで味わったどんな痛みよりも、
遥かに鋭く、辛い痛みが、体中を駆け巡る。

そのときになって初めて、「黒い点」の気持ちが解る。
だが、それを周囲に伝えたくても、痛すぎて声が出ない。
伝えられないまま、死んでいく。
地獄の苦しみと共に。

戦争とは、
戦場とは、
そんな感じではないのだろうかと思う。

私は、戦争を直接知らない。
古い歌の歌詞ではないが、戦争が終わってから私は生まれた。

だから、「想像」するしかない。

でも、これは丸っきりの「空想」ではない。

父も、祖父も、戦争に行った。
特攻隊で散った親戚もいる。
兵士が死ぬ瞬間の描写は、幼き頃、祖父から聞いた話だ。
特に急所を撃ち抜かれた兵士は、想像を絶する形相で悶え苦しみ、死んでいったという。
戦争映画では、虫の息の兵士が息も絶え絶えに家族へのメッセージを戦友に託したりするが、実際の戦場では、そんな余裕は全く無い。
激しい痛みと苦しみで、口がきけないのだ。

そんな死に方をする人間が、毎日、毎日。
来る日も、来る日も。
百人が、千人。
千人が、万人になり、
何百万という人間が、
「そんな死に方」
いや、私も、私の父も、祖父も知らない、
「もっと酷い死に方」
をしたに違いない。

「ここは お國を何百里
離れて遠き 満州の。。」

幼き日、寝るときに父がよく歌ってくれた歌である。
「子守歌に軍歌なんて。。」
母が呆れていたのを思い出す。
歌詞の意味を知らなかった私は、
哀愁を帯びたメロディーを聞きながら
唯々、父が傍に居てくれるのが嬉しく、
安心して眠りについたものだった。

でも、戦場で、祖父のすぐ傍で悶え苦しみながら死んでいった兵士の子供は、どうだろう。
父の傍らで安心して眠る喜びは、永遠に奪われたはずだ。

普段は口数の少ない父が、
時折、夜中にうなされて大声を出すことがあった。
「敵襲だーっ!」
家族全員、びっくりして飛び起きたものだった。

それが、60歳になっても、70歳になっても、続いた。

幸い戦場から五体満足で生還できた父でさえ、戦争で受けた心の傷は一生癒えなかったのだ。

戦争とは、そういうものなのだ。

今、実際に戦争がおきている。
日本も、これからどうなるかわからない。

でも、戦争について考えるとき、
戦争について語るとき、
戦争について、何かの決断をしなければならぬとき、

戦争とはどういうものなのか、十分に想像しなければならない。

周りの空気に安易に流されること無く、
自分なりに、よく調べて、よく考えて、想像しなければならない。

それが、戦争を体験していない、
戦争を知らない我々の
責務だと思う。

「黒い点」
のひとつひとつが、
命なのだから。



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