成否を分けるもの 「新幹線大爆破」と「動脈列島」(ネタバレ注意)

「新幹線大爆破」と「動脈列島」
いずれも同時期に立て続けに放映された、新幹線の映画?だ。
だが今回は、映画評ではない。
どちらがヒットしてどちらがコケたか?とか、その要因は何か?と言った話でもない。
でも、たぶん派手にネタバレすることをあらかじめお断りしておきたい。

久しぶりに、この2作品を読んだ。
「観た。」のではなく、「読んだ。」

「動脈列島」は先に原作があっての映画だから絶対原作の方が良い。映画は一番大事な部分が大きく異なる。
「新幹線大爆破」は映画が先。だから小説はいわゆるノベライズ版なのだが、同じ方法で同じように想像力を働かせ比較したかったので、動脈列島に合わせて敢えて小説版を読んでみることにした。

古い本なので、図書館で2冊一緒に借りてきたが、読んで返却してから、ふと個人情報に変なフラグが立っていないか心配になってきた。(笑)
先日、新幹線の事を書いていたら、急にこの2作品のことを思い出して読みたくなっただけであって、決して他意は無いことを念のため付け加えておく。

ここから、盛大にネタバレである。
両作品とも、犯人が新幹線に対する妨害を試みるという点で共通するが、その内容はむしろ対照的だ。
「新幹線大爆破」は、犯人が新幹線に爆弾を仕掛けて国鉄を脅迫する。目的は金だ。
対する「動脈列島」は犯人が新幹線の転覆予告をし、当時の国鉄に、ある要求をのませようとする。それは「金」ではない。アメリカ映画で見飽きた、「犯人の仲間の釈放」とかでもない。
要求は「新幹線の振動騒音公害の軽減」である。
両作品とも、要求を突きつける犯人と警察の攻防を描いてはいるが、その描き方や視点は全くと言っていいほど違う。

さて今回は、両作品を犯人の視点から比べてみたい。
犯人側の立場で見ると「新幹線大爆破」は救いようの無い完敗だ。
3人で頑張っているにもかかわらず、3人とも見事なまでの犬死。
1人目は金の受け取りに失敗し、警察に追いかけられてバイクで自爆。
2人目は警察に撃たれ、重傷を負ってアジトで休んでいたところを包囲されてダイナマイトで文字通り自爆。
主犯格の3人目はやっとの思いで金を手に入れるが、海外逃亡を目前にして空港で包囲され射殺される。倒れる犯人の頭上を(自分が乗るはずだった)サンフランシスコ行きの飛行機が飛んで行く。
救いようが無い。
新幹線に仕掛けられた爆弾の爆発は最終的に国鉄職員の奮闘によって食い止められるものの、この犯行が原因で二人の乗客の命が奪われる。一人は、これから生まれてくるはずだった胎児だ。
きっと犯人は、あちら側に逝った後もこの二人に未来永劫苦しめられることだろう。
踏んだり蹴ったりである。

一方の「動脈列島」
こちらは単独犯。
犯行は完全ではないが、ある意味「成功」したと言える。
少なくとも、原作ではそうだ。
(注:映画版では「失敗」しているが、あれは多分制作上の都合、もっと有体に言えば製作費の都合なのだろう。しかし、あのラストを変えては駄目だ。あれで一気に「ただのアメリカ映画もどき」に成り下がってしまった。大変残念である。)
しかも、結果的に犠牲者が一人も出ていない。
犯人も生きている。
罪は問われても、極刑にはならないだろう。
そして(犯人の)目的はある程度果たされる。
だから「成功」だと言っていい。

2つの作品で、この犯人側から見た「成否」を分けたものは、何だったのだろう?
いろいろあると思う。
目的の違い、余裕を持って十分に時間をかけて準備した犯行と、追い詰められた上に苦し紛れに及んだ犯行の違い、犯人の頭脳の違い、さらに言えば作品中の「警察」の違い(新幹線大爆破の警察は「おまえは大門圭介か!」と突っ込みたくなるほど平気で発砲する)等々。

しかし、私は思う。
おそらく、一番大きく運命を左右したもの。
「動脈列島」の犯行を、完全とは言えないまでも「成功」に導いたもの。

それは、「女性の存在」だと思う。

「動脈列島」の犯人は単独犯だが、実は陰に女性の協力者が居た。
それも1人ではなく、2人も。
この2人が陰ながら犯行を手助けし、そして最後には犯人を真の意味で救う。

「新幹線大爆破」はどうか?
3人で犯行に及んだが、全員男だ。
正確に言えば女性も出てくるのだが、悲しいかな犯人の過去の行動が災いして、ここぞと言うときに助けてくれない。
女性を敵に回して、おっさん3人で頑張っても絶対上手くゆかないのである。

これは映画や小説に限った話ではない。

私は、今まで様々な職場を経験してきた。
仕事を始めたころは、職業柄、男だけの職場と言うのも多かった。
男だけの職場だとある意味ラクなのだが、徐々に視野が狭くなってゆく。そして気付かないうちに組織全体が変な方向に走り出す。それを誰も止められない。
まさに「新幹線大爆破状態」である。
やがて破局が訪れるまで、ひたすら突っ走っていく。

そこから、女性のいる職場に異動した。
半数ぐらいが、女性だったように記憶している。
世界が、全く変わった。
組織の暴走を食い止める力があるのが、はっきりわかる。
彼女たちは、異なる視点を持っている。しかも臆せず、必要な時にはモノを言う。相手が誰であろうと。
おかしいことが、おかしいとわかる。わからされる。
見ないふりをしているうちに、マヒして見えなくなってしまったものが、再び見えるようになる。
こうも違うものなのか、と驚愕した。

例外もあった。
女性がいるにもかかわらず、おっさんだけの職場よりもさらに「新幹線大爆破」的な職場があった。
原因はすぐに解る。
そこでは、女性でありながら思考が完全に「おっさん化」している人が圧倒的に多かったのだ。出世のため、伝統ある「おっさん社会」に無理に合わせようと努力し過ぎたあまり、折角の女性ならではの長所を忘れてしまったらしい。
「おっさん」と同じ視点になってしまったら、男女揃って皆で仲良く「新幹線大爆破」だ。
暴走を止めるものは、誰もいない。
その職場は、今も暴走の限りを尽くしている。
もうじきそのまま、爆弾を抱いたまま博多駅に突っ込むのではないかと危惧している。

女性の存在、女性の思考というものは、かくも大切なものなのかと今更ながら思う。
若いころには解らなかったが、歳をとって思う。
色々な組織、職場を体験してみて、思う。

どこぞの政府が言うように「女性の社会進出」を単なる「労働力不足の切り札」と考えていては絶対に上手くゆかない。
女性の、女性ならではの長所を活かして、それを発揮できる場が無いと駄目なのだ。

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