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喜を綴る Vol.3 ~イヤホン喪失哀歌〜

 ポケットにイヤホンを入れたままパーカーを洗濯してしまった。気づいたのは翌日の昼頃であった。父親が以前使っていたSB C&S製の白いワイヤレスイヤホンだ。

 人生で最初に使ったワイヤレスイヤホンは使い始めて半年足らずで片方を失くしてしまった。それ以来コンビニで売っていた安い有線のイヤホンを買っては失くし、見つけては失くしてまた買っては洗濯しを繰り返していた。
 
 ケースを開けてみると中は水浸しであった。充電プラグの差し込み部を下にして畳んだティッシュの上に叩きつけると、ティッシュには液体を吸ってふやけた小さな痕跡が生まれる。叩けど叩けど無限に水が出てくる。打出の小槌である。だが悲しいかな、出てくるのは黄金に光り輝く大判小判などではなく、色も光沢も持たぬ分子量18.02の唾棄すべき折れ線形極性分子の集合たる液体である。
 この充電器が吸い込んだ全ての水分を吐き出させることに成功すれば再び使えるかもしれないという一縷の望みを懸け、その日はティッシュの上で乾かすことにした。幾度目かのサウダージをまた暫く引きずることになるのは御免だ。
 家を出る際に以前使っていた有線のイヤホンを引っ張り出してみたが、これも例に漏れず過失洗濯によって片方だけ音が出なくなっていたため、虚しくなってイヤホンを付けずに家を出た。

  音楽で蓋をしていた思考が、路傍の大きな石を剥がした時に這い出てくるダンゴムシのように動き始める。

  頑張っている人間がどうも苦手だ。頑張る人間に最適化された社会が作られることによって、頑張れない人間の呼吸を奪っている。
 今、自分は揺れている。何を守って、何を捨てるべきか。職を得て、金を稼いで生きる。最も舗装された道を歩きたい。リスクは取りたくない。では自分にとって舗装された道とは何か。踏み固められた道で転ぶような人間が道を外れたら果たしてどうなるのか。
 あらゆるものを捨てずに抱え込んで生きることは、全てにおいて中途半端になることを意味する。二兎追う者、である。二兎を追った結果二兎を得てしまった人間は「選択肢を残しておけ」と言うし、そうでない人間は「真っ当な方を選べ」と言う。
  一方で、「お前はこちら側には来るな」と言う声も数多存在する。自分の進もうとしている道の傍らにその声を見つけてしまうことは恐ろしい。
 「芸術は人生を破滅させるものの象徴であり、真っ当に生きるためには深入りしてはいけないものである」という意識は、自分が生涯をかけて解かなければいけない呪いなのだと感じた。正しく生きられないことへの罪悪感と、そのために迫り来る破滅的な未来への恐怖に打ちひしがれそうになる。
 それでもなお、思考の片手間では音楽が流れ続ける。どろりとしたフレンチ・ヒップホップのストリングスリフが止まない。もう戻れなくなってしまったのだ。

この時頭の中で流れてたやつ



 SNSを開けば、膨大な情報を伝達する電磁波の水底から絶えず湧き出る泡が多種多様な他人の生き様を見せつけてくる。世間的に成功者と呼ばれるような人生を送る人もいれば、そうでない人もいる。その度毎に自分の歩むべき道がわからなくなる。音楽とは縁のない人生を送ることだって、音楽だけのために生きる人生だって歩み得たのやもしれないのではないかと。
 ポーキー・ピッグに目的地を訊かれた案山子が四方八方を指差して彼を当惑させるという、幼い頃に見たルーニー・テューンズのアニメのギャグシーンを唐突に思い出す。

 色々な人生を知っているという状態は、色々な人生を知らないこととは別の残酷さを孕んでいるような気がしている。元々歩むはずのなかった道を歩まない、ただそれだけのことに対して「喪失」や「放棄」という名前が付く。
 インターネット上の名だたるインフルエンサーや成功者が「お前にはこの場所に立てるだけの資質がない」とわざわざ向こうから語りかけてくるような錯覚である。我々はいつだって「敗者」になることができる時代に生まれたのだろう。

 錯綜する情報に惑わされて、立ち止まること。我に返り、再び進み始めること。その全ては偶然によって動いている世界の一部でしかない。
 ならば少しでも多くの時間を動き続けることに使うべきだ。この体が動くうちは、思い悩んで何もしない事こそが最も破滅的な行為だ。

 翌日になってイヤホンに通電したところ、左側が昔のピカチュウの鳴き声のようなノイズを吐き、終いには音を出さなくなった。幾度目かのサウダージである。

最後までお読みいただきありがとうございました。
また次号でお会いしましょう。

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